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脚本と小説は違うのか

暇というのはやっぱり哲学の原点らしい。
暇になればなるほどこういうことを無限に考えてしまう。

古代ギリシャで哲学や劇場という文化が存在したのも納得できる。

ところで、ここ数日なんだかんだと脚本を少しづつ書いている。
それをどのタイミングでどこに出すかはまだわからないが、とりあえず久しぶりに書きたい内容にスラスラと手が進んで「書き切りたい」と思っているうちは書き続けるし、完成させたいと思う。

そうやって、素人ながらに脚本を書いてるとたまに思うことがある。それが、脚本と小説って何が違うんだろうということだ。

何が違うというと当然フォーマットから何からすべてが違うというのは当然の話なわけだが、そういうことじゃない。
なんというか、読み手側にしろ書き手側にしろ気持ちの面の話だ。

ここから先の話……というよりこの記事全体については、あくまでもアマチュアのラインにすら立ってない学生劇団の一団員の書いた記事であるということを理解していただいたうえでお手柔らかに読んでいただきたいです。

そもそも根本的には違うもの

まず、こういう議論をするうえで「何が違うか・同じなんじゃないか」を考える前に大前提としてわかってる違ってる部分を考えておきたい。

個人的に思っているのは、脚本はあくまでもまだ「過程」の生んだ一つの完成品、小説は「作品」であるというところ。
ここについては議論の余地はあまりないと思う。

脚本というのは、(ドラマ作品の脚本やアニメ・ゲーム等の脚本はあまり見たことがないので何とも言い難いが)その先にある「完成品」ありきの言わば設計図みたいなもので、あくまでもその完成品にとって、脚本は「作品」ではない。

当然、脚本という一つの形になっているのだから、それ自体が「作品」であることは一切否定しないが、やはりその先にあるものをイメージしながら書いている以上は良くも悪くも「設計図」というのが妥当な位置づけだろう。

設計図というのも聞こえが悪いかもしれないが、設計図がなければ何も始まらない。そういう意味では作品の根底にあるものという言い方に直してもいいかもしれない。
おぉ、これで聞こえが良くなった気もする。

では、その点について小説ではどうなのかといえば、その小説という形が最終的な目標地点であり、そこで「作品」になっていないのであれば逆に問題だといえるだろう。

もしかしたら、自分が知らないだけで「小説×○○」といったようなメディアミックスやら、もう一方のものありきでの小説の姿があるのかもしれないが、それは特例だろう。
その場合の小説はその先の目標地点が存在していて、それらがすべてそろって初めて完成するので、単体で作品というのも少し違うのではないか?と思われるだけで、なんというか設計図とは根本的に違う、「料理のフルコースのどこか」くらいのイメージのほうが近い。

それ自体でも完成していて作品といえるが、それ以上に他のものと組み合わせた時さらなる芸術性が生まれる。といった感じだろうか。

何にしても一つの終着点として存在している以上、根本的には脚本と性質が違う。

なーんだ違うところだらけじゃん。
と、言いたい気持ちもわかる。ていうか書いてる今そう思っている。でもやっぱりそれを書く側の気持ちとか、読む側の気持ちとしては近しいところがあるような気がしてならないのだ。

フォーマットの違いから現れる差

では、どの部分が「同じ」だと思うのか。

その話をする前に、もう少しだけ違う部分を確認したい。

賛否あるだろうが、脚本を読むにはある一定の特殊な技術なり理解なりが必要であると思う。
それは、「文字として脚本を追う」とかに必要なものではなくて、脚本の先を想像するとか、脚本がどういうものであるのかというところだ。

例えばの話

 ノックの音

娘 こんにちは!
男 おや、こんにちは。

 娘、しばらくキョロキョロとした後、男の作業をまじまじと見る。

娘 ねぇ、それ何してるの?
男 これかい?これはね……お話を作ってるんだ。

こんな感じに脚本があったとしよう。
脚本の書き方についてはあくまで筆者が脚本を書くときのフォーマットなので正しい書き方であるかというところについては議論を控える。

これを、できる限り小説のフォーマットに近づけてみる。

 こんこんと、ドアをノックする音が聞こえる。
 ふと時計を見上げると13時をまわっていた。
「こんにちは!」
 彼女は今日も元気いっぱいにドアを開け、深々とお辞儀をする。
「おや、こんにちは。」
 挨拶を返されるが早いか、彼女はせわしなく辺りを見回す。こうして毎日やってきても、まだ知らないものがあるらしい。
 そうして、忙しそうに駆け回っていた彼女の好奇心は、ついに私のデスクへと向けられた。
「ねぇ、それ何してるの?」
 ワクワクと輝いた瞳が私のほうに向けられる。
「これかい?これはね……お話を作ってるんだ。」 

ムズ。絶対下手な書き方してしまった。ごめんなさい。

まあ、こんな風に小説のフォーマットになるとだいぶ変化が現れるということがわかる。

それでは違うところを整理していこう。

①情報量

目に見えてわかる変化の一つ。これは間違いなく情報量だろう。

小説には「地の文」があるため、そこでディティールを加えることができる。
一方で脚本には(それぞれ書き方もあるだろうが)「ト書き」と呼ばれる最小限のメモがあるだけで、場転後の情景描写などを除けばほとんどディティールについての指定がない。

したがって、イメージングが簡単ではなくなるという部分がある。

これが、読むうえで技術や理解が必要であると考える第一のポイントだ。
逆に言えばこの約束事は、脚本を読んだときに「なんだこれ?」となってしまうような最大の要因ともいえるだろう。

ちなみに、ノンバーバルの脚本などもあるがその場合はほとんどがト書きで構成されているため、この限りではないが、より高度なイメージングが要求されるだろう。

②主観

次に、主観の有無である。

これについては小説でも同じような現象が起きるが、脚本においてはほぼすべてがこれに当てはまるというところで差が出てくると思う。

それこそ、あまり多くの作品を読んだわけではないので「違う」という意見もあるだろうが、脚本の多くには主観が存在していない。

主観というと少し意味が変わってくるのかもしれないが、つまるところ「誰かの視点に寄り添って物語が作られているわけではない」というところだ。
……いや、この言い方のほうが誤解があるか。

さっきの比較の文章を見ればわかるように、脚本は誰かの視点というわけではない。あくまでも誰が何を言った、何が起きた、くらいのことしか書いていないわけだ。

一方で、小説では男の視点に寄り添って、男からその対象がどう見えたかなどの「イメージ」と「脚色」を多分に含んだ書き方をしている。

当然脚本でも、「ここはこういう風に!」という脚本家の強いイメージについてはト書きに書かれることも少なくない。
だが、脚本ではその事象が全員に平等に行われるのに対して、小説は一言一言に地の文がついていても、誰かに寄り添った表現をしてもあまり違和感がないというのは、大きな違いだろう。

当然脚本では、すべてのセリフにト書き入れていてはキリがないというのも事実だ。
何と言っても脚本はあくまで「設計図」なのだ。

これによって、脚本では誰を軸として読んでいいかわからないという現象がまま起こる。

これも脚本に技術や理解が必要な点である。

③正解の有無

第三に、脚本には正解が書かれていないというところだ。

これは表現のテクニックでいう「答えをぼかす」ということではない。
つまり、小説は「作者がこう読んでほしい」というある程度の意図やヒントが散りばめられたうえで物語が進んでいくのに対して、脚本ではそういった受け取り方の指示が存在していないのである。

極端な話、先ほどの比較の例でいけば

 娘、しばらくキョロキョロとした後、男の作業をまじまじと見る。

娘 ねぇ、それ何してるの?
男 これかい?これはね……お話を作ってるんだ。

で終わっている部分が

 挨拶を返されるが早いか、彼女はせわしなく辺りを見回す。こうして毎日やってきても、まだ知らないものがあるらしい。
 そうして、忙しそうに駆け回っていた彼女の好奇心は、ついに私のデスクへと向けられた。
「ねぇ、それ何してるの?」
 ワクワクと輝いた瞳が私のほうに向けられる。
「これかい?これはね……お話を作ってるんだ。」 

これに変わっている。より詳細に見ていこう。

まず最初からすでに「しばらくキョロキョロする」という行為をどう受け取るかについて脚本では放置されている。

しばらくキョロキョロするというのが「何かを探している」なのか「変わった風景を見ている」なのか「焦って周りを見てしまう」なのか。当然読み進めればある程度察しはつくが、小説ではそれをぼかすも明確にするも筆者の掌の上であるにもかかわらず、設計図である脚本では最小限の情報に抑えられてしまう。

当然「何かを探すようにしばらくキョロキョロする」といったト書きの脚本も多い。だが、そこまではよくあることでも、このレベルの些細なト書きに「毎日家にやってくるのに、まだ目新しいものがある」とか「まだ何かあるはずだと思っていそう」とかそういう感情面での指示をしているものはさすがに少ないと思う。

これは役者の演技における幅や演出に直接のかかわりがないなどの要因があるだろうが、脚本を読むうえで、「これどう言う気持ちなんだろ」となる最大の要因でもある。

もっと言えば脚本に書いてある「ねぇ、それ何してるの?」と小説の「ねぇ、それ何してるの?」では多少見え方に差があるだろうと思う。

脚本では最小限の内容しか書いていないため、好奇心とワクワクからくるセリフではない読み方もできる。極端な話、この先の物語の展開次第では訝しげに読むほうが合っていたりするかもしれない。

一方で小説ではその読まれ方を一つに絞っている。先ほども述べたように脚本では一つ一つのセリフにト書きを置いていたらキリがないし、演出の幅が狭まる。

したがって特定の正解が用意されていないというのはある意味で読みづらく、理解が必要な部分だろう。

設計図ではなく、娯楽としての脚本

では、ついに本題に入りたいと思う。

一応、先に結論だけ述べておくと、脚本と小説は「違う」。
これは、散々比べて考えてよくわかった紛れもない「事実」である。

ただ、脚本の脚本なりの楽しみ方が分かったうえで、特定の楽しみ方をするときであれば、似ていると言っても差し支えないように思う。

先ほど、脚本には特殊な技術と理解が必要と書いた。
一方で「小説ではこんな風にわかりやすくなっている」というような比較をした。

……果たして本当にそうなんだろうか?

当然小説のほうが読みやすい。そこまでは全く否定するつもりはない。

だが、まるで脚本だけが特殊な技術や理解が必要なように書いたが、小説だって特殊な技術や理解が要らないわけではない。

その技術や理解に我々が「慣れた」だけなのである。

筆者自身、もう小説の特殊な約束事とかが色々とすぐに思いつくわけではないが、我々は絵本などから入って児童文庫、場合によってはライトノベルなどを通っていろんな書籍を読めるようになった。

だが、最初から今の我々が読むような小説のコンテクストを理解できていたわけではないのではないか。

例えば「握った拳を緩める」という動作や「息をのむ」とかの表現。そういった言葉でキャラクターを表現し、理解することに我々が慣れたから小説を楽しめるようになっただけなのではないだろうか。

で、あればだ。

脚本だって、その多すぎる行間を読むことに慣れたり、自分がどれかのキャラクターを演じるように読んだり、物語を追って、ト書きなどから様々なキャラクターのイメージをしたりとかそういうことに慣れてしまえば、「小説に近い」楽しみ方だってできるような気がするのだ。

まぁ、脚本がそういった用途で作られているわけでもなく、当然そういう楽しみ方を想定して書いているわけでもないので、向いているとは絶対に言わないが。

書き手として

読み手の受け取り方があれば、当然書き手側の気持ちもある。

小説なんて趣味で雑に書いて世に出したことなんてほとんどない。
それでも、こうして脚本であれば一度世に出してみようと思った筆者の身からすれば、脚本でも何でも、物語を作るうえでの労力は何ら変わりない。

小説でも脚本でも他の媒体でも、物語のつくり方は大きくは変わらないだろうと思う。
それが地の文という形なのか、舞台上でやるということを前提においているのか、はたまたカメラワークを考えながらなのか、コマ割りを考えながらなのか、意識することはは媒体によってさまざまだろうが、根本的にやることは変わっていない。

面白い話が作りたい。

みんなにそれを読んでほしい、見てほしい。

結局書き手側のスタンスとしてはあまり変わっていなくて、それをアウトプットする先が違って、それを書く上でのフォーマットが違ってというだけの話だ。

とうぜんフォーマットによって向き不向きがあるし、小説はそれ自体で作品として完成するとか、媒体による差は出てくる。

でも、書き手側としては脚本でも小説でもなんでも、その物語が作り上げられた時点で、自分にとっての完成品であることは間違いない。

それが何かの設計図であろうがパーツだろうが、一度書き終えてみればそこでひとまず「一つの完成形」に辿りつくわけで。

それが何よりも嬉しく、その物語を人に知ってもらいたいという気持ちはきっと誰しも変わらないんじゃないだろうかと思う。

繰り返すようだが、もちろん脚本がそういった用途で作られているわけでもなく、当然そういう楽しみ方を想定して書いているわけでもないので、向いているとは絶対に言わないが。

まとめ

長々と書いてきたが、つまりは「脚本も小説も楽しみ方を知ればみんな楽しく読めるし、書いてる側からすれば大した違いはない気がする」という話です。

この記事を書いた理由があるとしたら、小説はみんな読むけど、やっぱり脚本って読みづらいよなぁと演劇を始めたころからずっと思っていて、

最近2.5次元が流行ったりとか、声優さんの人気が上がって舞台やってる声優さんのを見に行くとかで、多少舞台の敷居が下がってくれているのではないかなと感じることも多く、そんな中で、脚本というところまで興味を持ったとしても、「なにこれ」で終わってしまう可能性も高い。

でも、一方で脚本なんてものは舞台関係者でもない限り、娯楽以外の用途で使われることはないのも事実なわけです。

舞台関係者だって、脚本を仕事のためだけじゃなく、純粋に楽しく読めたほうがいいだろうし、なんなら自分たちは脚本を読んで、その先のイメージとかも無意識にしながら「面白そう」とか「楽しそう」とかいう感想を言い合ってるわけで、

それなら、お客さんも脚本を手に取ってくれたのであれば、そういう楽しみ方をしてもらえれば我々もお客さんもみんな最高じゃないか?

ていうかなんなら脚本家は絶対自分の脚本読んでほしいと思ってるでしょ。

ということを、脚本を「書きながら」考えてたというところです。

絶対脚本書いてなかったらこんなこと考えてなかったわ。

大変長い記事でしたがここまで読んでいただいてありがとうございました。

ちなみにこちら、僕の書いた脚本です。
脚本の本編部分は無料で読めるので是非。

その先については本当にあとがき的な事しか書いてない、お気持ちをいただいた方へのささやかなお礼という感じですので、本編だけで良いので、ぜひのぞいてください。

なんか最後にこういうの書くのってあんまりよくないかな……。

それでは東風東でした。

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