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「日本人とユダヤ人」講読


             野阿梓

   趣意書(3)

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ここで話をもどして――、
「日本人とユダヤ人」は、もちろん冷戦構造時代のただ中で書かれたものですから、たった半世紀前のこととはいえ、そこに描かれた光景が、今の若い人には、まったく当たり前のことではない。だから、判りにくくなってしまっている。そんな箇所は、おそらく私たちが考える以上に、多いことでしょう。

上述した私の、とんでもなく逸脱した長大な「いちご白書」の解説を読んだ方は、「一体何だ、これは。何が始まったのだ!?」と思ったかも知れませんが、たった一つの歌でさえ、その裏面には今となっては(あるいは当時でさえ)判りづらくなってしまった膨大な背景が在るのだ、ということを理解してほしかったのです。日常で当たり前に聴く歌でも、これだけ、くどいほどに書かないと背景はキチンと理解できない(こともある)。それを言いたかったのです。

ユーミンの歌の元になった映画に描かれた出来事は、映画の封切り時でさえ、なにしろ海の向こうの出来事ですから、よく判りませんでした。それが五〇年たって、二十一世紀になった現在、アメリカ人でさえ、ようやく総括され検証され、経緯が判ってきたことも多い(最近、この事件の当事者が来日して講演したそうです)。
ましてや、「日本人とユダヤ人」には、七〇年当時でなければ了解不能な記述が頻出します。当時、リアルタイムで接していたはずの私でさえ、もうとっくに忘れてしまったことすらあります。それを克服しなければ、私たちは、この本を理解した、とは到底いえないでしょう。

今、この本の判りにくさは、そういう点にも有ると思われます。そんな機微はネットで検索したって、出てきません。出てきたとしても、前述した携帯無線機と携帯電話の違いより判りにくいかも知れない。つまり表面的な事物は見た目、一見同じように見えて、実はその意味するところが大きく変貌している。そういうことも多くあるだろう、ということです。そうなったら、これは判別がしにくい。ウィキペディアでは、キーワードを正しく入れないとヒットしません。見た目で「ケータイか」と思いこんで検索しても、「携帯無線機」はいくら経ってもヒットしない。そうやって、誤解の上に誤解を重ねながら、そして正しく理解しないまま、最初の思いこみだけで突っ走るかも知れません。それを教えてもらうまでは、なかなか誤解は解けない、解きづらいと思われます。
要するに、もともと難解なことが書かれてあり、そして五十年の歳月が、著者の意図しなかった、別の判りにくさを作り出してもいる。難解さの二乗です。これでは読んですぐに理解しろ、と言われても困るでしょう。
この半世紀の間に、すなわち一九七〇年当時は、それが当たり前、であったとしても、今では、むしろ、全然、当たり前じゃないことだって、数多くあります。それは当然のことで、五十年経てば、たいていのことは変わるものです。おそらく平成生まれの若い読者の多くは、世代的ギャップによって、この本がなんだか判りづらい、と感じられるのではないでしょうか。

この二つの「判りづらさ」によって、この希有な面白本が読まれなくなっていくのは、とてつもなく惜しい。私はそう思います。ほんの少しの知識を補えば、読者はわりと簡単に理解できるはずなのに(たとえば、「日本沈没」は、今読んでも、細部が多少は古びていても、すんなり読めると思います)、小さい躓きの石が、それを阻んでいる。その少しの障壁を取り払っていけば、この本の真価が判るのではないか。そのためには、本来、五十年前にやっておくべき作業だったと思うのですが、「日本人とユダヤ人」という本に真正面から向かい合い、キリスト教やユダヤ教に関する知識だけでも、きちんと解説してくれるビギナー向けのガイドブックでもあれば、と慨嘆せざるをえません(私が、ネットや、国会図書館の所蔵をオンライン検索のNDL-OPAC(※5)で調べたかぎりでは、名義上の著者のベンダサンが英文で書き、それに渡部昇一氏が注解を付けた英語版はあっても、日本人の読者を対象として日本語で書かれた「解説書」はこれまで一度も書かれた形跡がないようでした)。

※5 https://ndlonline.ndl.go.jp/

他の人がやらないなら、自分がやるしかない。実を言うと、これは浅学非才な私には少し重荷の作業なのですが、そう考えるようになりました。およばずながらも私が微力をつくして、「日本人とユダヤ人」の面白さがもっと判るように、まず、半世紀前に自分が判らなかったところを、そして今でも難解であろう箇所を、読み解いていく。若い人たちに判りづらくなっている現代史も補う。そして、ともに講読していく。そうしたことを企図いたしました。身の丈に外れた大それた仕事ですが、なによりも、自分がまず欲しいと思う本の、類書がどこにもないので、仕方ありません。

これから、しばらく、お付き合いを願って、おおくは七〇年の時点にさかのぼり、私は、この本を少しばかり、ていねいに読みこんでいきたいと考えています。
あるいは現時点で、書かれた七〇年からイザヤ・ベンダサンの活躍した時期(七〇年から九〇年代まで)を越えて――今の私たちには、冷戦構造が崩壊した後の世界やポストコロニアリズムの思想まで、振り返っての視座(=いわば後知恵)がとれますから――、知のレベルから言えば、現在の私たちの方がアドバンテージはあるのです。それは老いも若きも同じです。本格的な思想として知らなくても、そういう知見は、ふだん生きていて、自然に入ってくるものですから、これは五十年前の読者より有利ではないでしょうか。
そうした七〇年当時の読者も、現在の読者も、幅広くひろって、この本の難解たる所以、多くの読者にとって理解できにくい点を解き明かしつつ、七〇年には私自身がそうだったように、難しい、と感じつつも、なお、この本が魅力的である。そういう貴重な読書体験を、より一層豊かにするために、この「講読」はなされる予定です。

そのために、上記の「いちご白書」に見られたような、途方もなく迂遠で、くだくだしい、サブカル関係の例証なども多出するとは思いますが、これは自分で書いていても楽しく、また読んでる人だって「自分は勉強しているんだ」的な身構えなしに、ただの雑学を少し増やして、そうしたら、いつの間にか、「日本人とユダヤ人」という本が楽しく読めるようになっていた。そういう効果を狙って書いていますので、どうぞ、あしからずご了承ください。
実のところ、私も「勉強」が大嫌いな人間です。お勉強しなきゃ読めないような本など、よっぽど必要にかられて泣く泣く哲学書を読む時とか以外はやりません。そして読んでいて退屈するような本は、エンタメが身上のSF作家としては、ダメだと思っています。だから、少々、羽目を外すかも知れませんが、その辺はどうか、ご寛恕ねがいます。明るく気軽に楽しくやりましょう。


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といっても、くり返しになりますが、私が上に記した、特にユーミンの曲だのその本歌の映画だのといった引用を見て、「なんなんだ、これは!?」と思われる人も多いでしょう。脱線は仕方ないとしても、なぜ、こんな、本来「日本人とユダヤ人」とは無関係な引用で紙幅をついやすのか。それは、私が、七〇年、いや正確には六〇年代後半から、ずっとサブカルチャーの回路からしか、知識を得ていなかったことに由来します。いわゆる、思想・哲学・アカデミズムの世界とは無縁だったのです。本業のSFもそうですが、私は、およそあらゆる知識を、現在、サブカルチャーと呼ばれるジャンルから得ていました。

その後、デビューしてから、八〇年代後半あたりから、巽孝之、笠井潔ら見識の高い、現代思想やその他の知的体系をそなえた優れた諸氏と交流して以来、そうした思想やアカデミックな学知といった知の体系に自然と接していきました。しかし、そんなものが、ほんの付け焼き刃でしかないことは、私自身が一番よく判っています。それ以前の私は、いや、正味のところを言えば、いまだに、現在でもなお、私はあくまでもSFをはじめ、マンガや映画や異端的文芸その他もろもろの知識全てを、サブカルチャーの回路からのみ、摂取している/いたのです。だから、これは、もう、私の血肉となっている。ゆえに、そういうスタンスからしか、ものが言えないのだ、と。その旨、あしからず、ご承知おきねがいます。

言い換えれば、七〇年当時も今も、私は、あまりにモノを知らなかった/知らないのですが、それをどうにかこうにか(サブカルチャーの知識などで)補って、「日本人とユダヤ人」という本を出来るかぎり判りやすく、ともに解き明かしていきたい。そのように考えています。だからこそ、この講読、という身の丈をはずれた試みでも、やたらとサブカルチャー的な発言が頻出するのです。だって、それしか知らないのだから、仕方ありません。中学を出るまで、私はSFとマンガだけで育ってきたも同然なので、七〇年当時のことを語るならば、当然、そうした世界からの経験や言葉しか、出てきません。これはもう、そういうものだ、と思って、受容して頂くしかないです。

ただし、一言だけ申し述べておきますと、私は、数年前に退職するまで、(本業のSFとは別に)国立大学図書館の職員として勤務していました。特に二〇〇〇年からはおよそ十数年間にわたり、医学図書館でリファレンス作業に従事してきました。これは、仕事として、日常的に高度で最先端の理系のデータベースに触れ、その検索がルーティンワークだった、ということを意味します。
あいにく医学図書館ですから、携わった仕事でのデータベースは主に医学・生命科学分野のものが多く、文系のそれは多くはありませんでした。ありていに言えば、文系のデータベースは世界的に見ても貧弱なものしかありません。医学・生命科学の分野では、治験などを通じて巨大な額の資金が動きますから、自ずと日進月歩のデータベースが完備されるのですが、現在の日本の政権や財界の意思を反映してか、わが国では文系の、また理系でも基礎系の分野への投資がおろそかになっているのが現状です。

しかしながら、ともあれ、ライブラリアンとしては現役時代の私はプロでしたし、現物の資料が目の前になくても、それを引用した文献などから類推したり、または、必要があれば国外に現物の資料の複写申込などをするのが、「仕事」でした。だから、情報検索に関しては、職業的に高度な技術をもち、日々、研鑽してきました。ブール演算子など知らなくても(私の世代は、数学で集合論を習わなかった下限の学年でした)、必要に応じて「実学」でそれを学んで、最初は手作業で、次にオンライン検索で、実践的にやってきた自負があります。八〇年代半ばから、ずっと情報検索の最前線で、そういう作業に携わってまいりました。その腕は、退職した今でも、少し鈍ってはいるかも知れませんが、一般の人より多少は優れている、という自負があります。図書館員、特にレファレンス要員という職業は、全てを知っている必要はない。だが、どこをどう探せば、たぶん、それを見つけることが出来るか、それが判っていれば務まります。そして私は三十年余にわたって、そういう訓練を受け、そういう仕事に就いていたのです。あいにく今回の対象は文系の事案なので、最先端のデータベースは望むべくもないのですが(そういうDBに触れるには大学関係者でないと無理です)、医学の基礎も臨床も知らなくても、なにを探せば出てくるか、その方法論だけは知っている。方法とは技法ですから、応用が利きます。
おそらく、この講読(の準備)作業においても、そうした私の、ささやかな経験が役立つと信じます。

底本としては、先述した私の手もとにある七一年初版の角川文庫版にします。それ以外に異本があって、それには別な記述があっても、その全部を網羅するのは個人では不可能ですから、最初からしません。あくまでも七一年初版の文庫に依拠して、それを講読する予定です。
だから頁数などの異同がもしあっても、あらかじめ、どうか、ご海容ねがいます。

先述したよう、今までに、そういう企図の解説書は書かれた形跡がありません。まあ、批判した本はありますが、取るに足りないことを、重箱のすみを突くような手法で書かれた、「ためにする」批判の書にすぎないものがほとんどで、読み手に親切に判りやすく解説して書かれた本はなかった。むろん、これは私の管見にすぎないので、もしかしたら、どこかにそういう本が有るのかも知れませんが、見た憶えがないし、ネットで検索しても出てきません。だから、とりあえず自分でやってみることにします。もし、そういう本を知っているなら、ご教示ねがえれば幸いです。


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もとより七〇年当時から今にいたるまで、まだまだこの本の真価を等身大に評価できるほど、私は学がありませんし、知識も理解も足りないのは判っています。ただ、先述したように、私は高校から大学までミッション校にいたので、キリスト教や聖書学、そしてユダヤ文化・文明に関して、他人より多少は知識があります(とはいえ、こんなことは大したアドバンテージではなく、単に、取っかかりがある程度のことです)。

ただし、逆説的な話なのですが、当時の私は不登校がちで、しかも反抗期だったため、ミッション校にいながら、異端的文学や文化に惹かれていました。当の「日本人とユダヤ人」を読んでみよう、と思ったのさえ、キリスト教文明に対してアゲインスト的だったユダヤ人に関して書かれた本だから、という理由でした。そういう批判的な眼で、通っている学校で教えられているキリスト教全般に対して、異和感を持ち続けていたので、非常に屈折し、また複雑な経路をたどって、今の私は形成されています。そこで、この本を解き明かすことは、当時も今も、キリスト教徒にはならなかった/なれなかった私自身の、ちょっとした負い目もふくめて、反キリスト教的な色彩が色濃く反映する、と思われます。

付言すると、ここでいう異端とか反キリスト教、といったモノは今でいうサブカルです。当時は、そんな言葉がなかったので、自分ではそういう表現をとるしかなかったのです。私が七〇年頃までに得た知識の大半は、SFかマンガ由来でしたし(まあ、それは今も大して変わっていないのですが)、非常に狭いものだったのです。しかし、今や状況は一変しました。七〇年当時、「グノーシス」や「クトゥルー神話」なんて、まず日本全体でも千人程度の人しか詳しく知らなかったでしょう。それが主に八〇年代、いや、九〇年代以降のサブカル全盛期から、マンガ、アニメ、ゲームの世界で知られるようになると、ほとんどの若い人が知っている。
中には「死海写本」みたいな学術的で、およそサブカルとは無縁だった用語でさえ、アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」によって周知のものとなる。私が時々、脱線するのは、そういった部分での説明で、私はあくまでも極私的な理解から、「日本人とユダヤ人」を読んでいったので、当時の私が類推できる参照例は、まずSFやマンガでした。さらに、そこで扱われている主題や派生した事がらは、たいてい今で言えばサブカル案件でした。
「講読」などと、いっぱし真面目な題名を付けたのは、あくまでシャレですから、そのつもりで楽しんでお読み下さい。

サブカルはともかく、それよりも、日本人キリスト教徒の人の多くは、この本を本能的に警戒して読まないのではないだろうか、とすら思えてなりません。昔からクリスチャンは、異端の書を警戒して、これから身を遠ざける傾向にありました。理解しようともしないで、とにかく回避する。特に一般信徒はそうです。逆に、攻撃的だったのが、一般ではないクリスチャン左派と、リベラル派の人たちでした。私自身は、かなりリベラル寄りの中道派、だと自己規定してきたのですが、その後、日本中が右傾化していったので、どちらかというと、リベラルな領域に取り残された孤立感がある、というか、結果的に、そういう立ち位置なのですが、こと、この件に関しては、リベラル派とは真っ向から意見が対立する可能性が高いでしょう。

なぜならば、先に「日本人とユダヤ人」を批判する人たちもあった、と記しましたが、その批判者の半分はサヨク的なジャーナリズムであり、残り半分がクリスチャン左派だったのです。そして、おそらく、著者は、そういうことを承知の上で、この本を書いたのだ、と思われます。これには明確な理由があって、ユダヤ人の視点から物事を見る、というのは、すなわち当時のイスラエル国家を容認していることを意味しますが、その頃から今にいたるまで、「イスラエルがパレスチナ人民に対して行っていることはアメリカ帝国主義の手先だ」というのが、教条主義的ですが、サヨクの一般的観点でした。たとえ日本人でも、イスラエル国家を容認するのは、それは「米帝に追従する日帝だ」ってことになったのです。それでこの本は、ユダヤ人=イスラエルを擁護しているのですから、当時の政治状況からして、まずリベラル派は親ユダヤ派には必ず敵対します。そして著者がユダヤ人だと名乗っている以上、当然ながら、ユダヤ教に偏した記述があるため、キリスト教徒もこれに必ず異論を唱える。これは七〇年当時にかぎらず、今でもそうでしょう。
判りやすく、一言で言ってしまえば、バチカンがこの書を認めるわけがないのです。

しかし、私が見るところ、かつて、サヨク的なジャーナリズムにおいては、ベンダサンと論争した当事者はともかく、それを支持する大半の人たちは、自分の頭で考えず、自分の言葉ではなく、そういう攻撃の場で提供された既成の論難の言説をもって是とし、検証もせずに、それを振りかざして、ベンダサンや山本氏らを攻撃する「尻馬組」がほとんどでした。まあ、野次馬と言ってもいいのですが、今でいえば、コピー&ペーストで、無責任に他人の言葉を引用して、勝手に「炎上」しているような感じ、と言えば、お判りになるでしょうか。

私は、七〇年代から多く見受けられた、そういう立場に立つ人びとを快く思っておりません。どんなに拙くとも、真摯な態度で、まともに相手と向き合って、自分の思考と自分の言葉によって、対等に論争するなら、まだ了解もできるのですが、彼らは、決して、そうではない。そして、そうではない論難は、誹謗中傷と大して変わりありません。
私は、だから、少なくとも、そういう人たちに与する気は毛頭ないのです。いかに拙劣であるとしても、自分の頭で考え、自分の言葉によって、等身大で語りたい。そう思っております。


「日本人とユダヤ人」は、上記の経緯で、当初、まったく無名だった山本書店から、まったく無名の外国人による書として刊行されました。この時は、まだ、山本書店の店主である山本七平氏が、将来、保守派の論客になる、など誰一人として(山本氏本人を含めて)思いもかけなかったでしょう。だから、これ以後に書かれた、ベンダサン名義の本や、山本氏名義の論説と、「日本人とユダヤ人」は切り離して考えてよい。というよりも、状況の変化にともなって、たちまち色あせ、読み返す意味すらなくなってしまうような泡沫的な論考では意味がない。そもそも「日本人とユダヤ人」の持つ思想的強度は、もっと部厚く深いものだ、と私は考えているので、後代の論難などは全て捨象し、これだけ独立して取り上げることこそが、五〇年の星霜をへて、意義のあることだ、と思っているのです。



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