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【映画感想】福田村事件

 関東大震災から100年目を迎える、今この時代に、この作品が世に出る意義は大きいと思う。あまり政治の事は語りたくないが、某官房長官が関東大震災時に「朝鮮人虐殺の記録がない」と発言したとか。この国は、100年前となんら変わっていないのだなと思い知らされた。

 ストーリーは、朝鮮人への偏見と差別、部落への差別、そして一般市民の内に流れる狂気が暴走して実際に起こってしまった、凄惨な虐殺事件をテーマにしている。物語には多くの人物が登場し、複数の視点から描き出される群像劇となっている。過剰な説明はなく、テンポも速いため、視聴に集中しなければ理解が追いつかなくなるかもしれない。だが、相応の覚悟を持って本作と向き合えば、しっか りと応えてくれる骨太の作品だと思った。

 まず、映画としての質が高い。100年前の日本、関東大震災前後の千葉県が主な舞台となっているが、画面の隅々に至るまで違和感なく作りこまれており、映画に没入して楽しむことができた。役者陣も同様で、誰もが演技に無理がなく自然体、まさにその時代を生きる人々を体現していると感じた。     

 特に目を引いたのが、澤田静子役の田中麗奈と島村咲江役のコムアイ。東出昌大扮する田中倉蔵を巡る二人の女性の駆け引きも、この映画の見どころの一つだろう。田中麗奈演じる静子は謎めいた雰囲気を纏い、都会出身のただの箱入りお嬢様ではないだろうという雰囲気を醸し出している。自由奔放に、村を、そして夫である智一をもかき乱しながらも、自分に正直に生きる芯の強さ、そして戦う強さを持っている。咲江は夫を戦争で亡くした未亡人ながら、すぐに倉蔵という恋仲を見つけ、逢瀬を繰り返す。義母には「村を出ていけ」と罵られながらも、たくましく立ち上がり、倉蔵に言い寄る静子にも一歩も怯まない。一見慎ましやかな彼女にもまた、乱世を生き抜かんとする強い志をみる。また、若手新聞記者である恩田楓役の木竜麻生も、凛とした存在感を放っていた。全体的に暗澹とした空気が漂う本作において、一抹の希望の灯のようだった。彼女のように、巨悪に屈することなく、闇を照らし真実を明かそうとする記者が、現代にも現れて欲しいと願ってやまない。

 本作で目を瞠ったのは、伏線として巧く潜り込んだ小物たち。例えば、朝鮮人そのもののメタファーのように描かれた「朝鮮飴」。物語の序盤、行商団を率いる沼部新助は朝鮮人の飴売りの少女から朝鮮飴を買う。そこで明かされるのは、行商団の団員はみな被差別部落出身であり、世間に生き辛さを抱えているということ。その少女は、朝鮮飴を持っていたことがきっかけとなり、自警団に命を奪われてしまう。一部始終を目撃した新聞記者の恩田楓は、己の決意とともに、朝鮮飴を上司である砂田に突き出す。甘いですよと添えられたその飴には血がべっとりと付着しているのだ。この一連の流れはどうしようもなく哀しく胸を打つのだが、同時に演出としては鳥肌が立つほどに美しい。
 他にも、静子から倉蔵、そして咲江に渡り、最終的に智一が口にした豆腐から零れ落ちた「結婚指輪」。静子から智一への消えてしまった愛情、倉蔵の迂闊さ、そして何より咲江の底知れぬ復讐心と智一の打ちのめされた失望が描かれる、鋭いエッジが効いた演出だ。
 最後に、悲劇の引き金の一端を担ってしまった「朝鮮扇子」。朝鮮人の少女と新助が心を通わせた証ともいえる扇子が、新助たちへの誤解を加速させ、群衆たちの暴走を招くきっかけとなってしまうのはなんたる不幸か。一方で、新助が朝鮮扇子を所有しているということは、彼が朝鮮人であるということの何の裏付けにもなってはいない。当然、彼が叫んでいたように朝鮮人だから殺しても良いなんてことはあり得ないが、盲目的な群衆は、ささいな繋がりから、一気に論理を飛躍させてしまうのだということをよく表している。

 繰り返しになるが、本作が描いているのは100年前の日本でありながら、観客はみなこう思わずにいられないのではないか。「これはまさに現代日本でもある」と。行き過ぎた全体主義がマイノリティを許さず、国益と嘯きながら個人の尊厳を踏みにじる。正義の名のもとに、私刑すら良しとする。在郷軍人会の支部長であり、自警団を束ねる長谷川(水道橋博士の思想とは真逆だろうに熱演だった)は決して架空の御伽噺の登場人物ではない。私たちの身近な人に、いやもしかしたら私たちにさえ、長谷川になり得る芽は息づいているのではないか。そして今の日本には、それを摘み取るどころか、水を与え、良しとする風潮さえ流れている気がする。この映画は、今の日本に鳴り響くべき警鐘でもあると思うのだ。

 最後に本筋とは少し逸れるかもしれないが思ったことを。本作では男女が身体を重ねるシーンが象徴的に使われているように感じる。繰り返しになるが、静子、倉蔵、咲江の3人は至る所で交わろうとする。本作においてこれらのシーンが挿入されている意味は何だろう。時代が変わろうとも変わることのない、人間の欲望、本質を抉り出そうとしたのか、目の前の快楽に溺れるほかない閉塞した時代を表しているのか、考察を要するが物語に奥行を与えるのに一役買っているとは思う。一つ疑問だったのが、茂次の妻マスは、義父である貞次の亡骸に縋り付き、溢れんばかりの慟哭とともに、「ごめんなさい」と謝罪の言葉を繰り返し絞り出していた。これはどういう感情なのだろう。もし夫である茂次の指摘が正しいのならば、一番苦しいのは茂次だろう。許されざる秘密を抱えながら逝去した貞次は、歯に衣着せぬ言い方をするのならば「ずるい」と思う。単純な善悪ですべてを裁ける時代でないのはわかるが、ちょっと理解し難かったのである。

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