生々しい物語を書きたいので今日も牛丼を食べる

物語を読むとき、ジャンルのこだわりを持つことはあんまりないです。
ファンタジーも好きだし、リアルなお仕事小説みたいなのも好きだし。
うわあこれホントにありそうだな、と思ってしまうような生々しいフィクションも好きですね。

何か読も〜と書店を巡ったりKindleストアを眺めたりしながら、物語の生々しさってどこから来るんだろうというのをふと考えたりしてみました。


数年前、合評会に向けて書いた小説に「リアリティがない」と言われたことがあります。

大学生の主人公が、離婚して独り身の父とその彼女を連れて東京観光をするというストーリーだったのですが「ほぼ」実話でした。
主人公のステータスや家族構成などは捏造で、やりとりや彼女のことはそのまま書いたつもりです。
で、指摘されたのは「父親の彼女の年齢が主人公の2歳上というのはリアリティがない」ということでした。
その合評会では特段私小説を書けと指定があったわけでもないですし、ノンフィクションを書く会でもありませんでした。

それでも、リアリティがないことを指摘された。
なんなら、主人公と彼女の年齢差が一番本当だったのに。

事実は小説より奇なりなどとは言いますが、現実に起き難いことだから指摘されたのか、と考えて、ちょっと思いついたことがあります。

主人公の彼女に対する感情とか、父親に関する感情とかが一切わからない。
起きたことをそのまま受け入れて、いいんじゃない別に、と言ってしまうような主人公ではダメだったんですね。
複雑な気持ちになって父親とギクシャクするとか、彼女を訝しむとか、そういう「共感できそうなところ」が一切ないといいますか……。

それってかなり致命的じゃん!!!!と今さらになって気がつきました。

キャラクターを作るときの弱点が先日かなり解消されたのですが(詳しくはひとつ前の投稿をぜひ!)やはり葛藤や弱みを設定する必要はあって。
弱さが一番の人らしさを出せる部分なのに、そこを書けないのはもったいないんだなあと思いました。

生々しさは、筆者の悩みや葛藤の数なのかもと思うのと同時に、自分がさほど悩んだり葛藤したりせず生きてきてしまった人間だとわかったりしました。
(高校生くらいの頃に書いた話のほうがモノローグとかめちゃくちゃ多くていいなと思うことがあります)
悩みのなさは別に自分が強いからではなく、逃げたり避けたり諦めたりして生きてきたせいなんだとこの年になってようやく気づくこともできました。
人には苦労していると思われるようなことでも自分ではあまりそう思えない、感情の麻痺が私から生々しさを奪っている……。(世間の一般常識と照合して大変具合を判断している日々)

でも麻痺が治ったらいろんなことに耐えきれなくて終わりになるかもしれないし、しばらくこのままでいてもいいかもなと思ったりもします。

すんごいどうでもいいことなら悩めるんですけどね、今日食べる牛丼の卵は生と半熟どっちにするかとか……。
なるほど、こういう小さい感情の積み重ねなのかも。

人間のままでいたいのは私の方でした。

一回占い師とかになってむき出しの悩みに触れてみようかな(最悪)

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