大規模デモから読み解く視点

なんかさこないだ池袋で
ものすごい大規模なデモがあった。

海外ではジョンFケネディジュニア、キアヌあたりが
発信している。

日本のメディアはゼロ。

相変わらずどーーでもいい大谷と水原。
あのさ
二階のほうがよっぽど悪質だし
大谷と水原は一応間接的にはなにかあるかもしらんが
二階は直接関係あることなんですが。。。
5年で50億。不起訴。
かたや賽銭箱に入ってる20円で逮捕される年寄り。

どうなってるん??

法も何も機能していない。
もともと法は支配する側がつくってるんだから
そりゃ都合よくやるよね。

で話戻すが
このデモもなんでコロナのときにやらなかったの?
って話。多分だかあそこに参加してる人たち
また騙されるよ。ってこと。

よーーくみた方がいい。
そして調べた方がいい。

このデモは改憲にもってかれるよ。
改憲されたら何度もいうが
子ども男、女関係なく徴兵されますよ。
だってさ共同親権衆院通過したよね??

もうねそんなことデモするなら
もっと違うとこに目を向けたらいい。
いくら岸田を叩こうがなにしようが
変わらないんだよ。二階も同じ。
だから大谷と水原なんてもっと関係ないんだよ。
だって生活にリアルに影響しないでしょ?

それに気がついて違うとこに目を向ける必要がある。
だからいつも書いている。

前にこれを書いたんだけど

大谷や水原というのは簡単にいえば儀式の生け贄のようなものですよ。なぜわからないのか?
みえてないからですよ。野球場がどういうものなのか?
スポーツを侮るなかれ。
ちゃんと意味があるのよ。

野球のルールは3アウト9イニングで、3の倍数、9を神聖とするもので、9の倍数の桁の和は全て9になる。3つのベースはブルーロッジの3階級を示し、その成功とは次の等級であるホームに到達する必要がある、つまりカバラのオカルト儀式。
ホームベースのバッターとはベイター(バイト=餌)であり、ボールを打つことで観客が熱狂しそのエネルギーを注ぐこと儀式を意味しバッターとは「餌(被告)」~つまりは犠牲となる存在。ボールはカドケウスの2匹の蛇で作られ、ピッチャーはハイエロファントの告発者という設定。
つまり、球場は「裁判の場」であり、ボールとは告発者が「餌」である「被告」を殺す儀式で、カドケウスの蛇を投げつける。だが野球のバットは「法」をあらわし、この法を駆使した場合に、「死を逃れる」というゲームである。
つまり、ピッチャーである告発者は、被告を死刑にするため、「被告の弱点を突く」という訳だ。「3回」だけチャンスが与えられる。これは「死の犠牲者」を喜ぶゲームでもあるが、被告は「法(バット)」を駆使すれば、それを逃れ、勝訴することができるというものだ。
この野球というゲームのだいご味は「ホームラン」であり、告発者が「死の力」を振り回し、被告を「殺そう」とするが、この力を「あらゆる判断の届かないところ」に置いた場合、自由に歩き回れる自由を得る、究極のヒーロという訳。
だから野球ではアウトを「死」という言葉で使う。
野球では犠牲バント、犠牲フライ、犠打、等々あるわけだが、全て「犠牲」という表現が使われる、つまり「人身供養」であって、チームという共同体の中で、誰かが「人身御供」になることを意味する儀式であり、スポーツとはそもそも「犠牲を作る」意味。

だからろくなことないのよ。
そこに時間をさくのはどうなんだ?ってこと。
これは野球だけではなく
他のスポーツにもあてはまる。

アニメであまりくわしくないが
ジョジョの奇妙な冒険ってあるやん?
あれに答えがあるらしいよ。

これはほんの一部のことだけど
広く、高い視点で物事みるときっと
デモも違う視点からみれるようになる。

1人でも多くの人がそれらにきがつくことで
ベクトルが変わるのよ。
なのに違うとこにベクトルを向けてるから
いつまでたっても変わらない。
むしろ悪化している。

大衆が圧倒的に多いはずなのに
なぜかほんのわずかの1%にいいようにされてるのは
どうなのか?ってこと。

デモはいいこととはいえないけども
悪いことばかりでもない。
きっかけにはなるからいいとおもう。
声あげないよりあげた方がいいにきまっている。

それはわかる。

でも踊らされてたらなんも意味ないよ。ってこと。
相手側の思う壺。
コロナのときからほんまに思うが
とんでもない時代に生きている。

時代の終焉とはこんなものなのだと。
明治維新を生きていた人たちも
限られた人たちは同じことを
感じていたのかもしれないなあ。と
本を読んでたら感じる。

本を書いてる人たちは
おかしいと考えて声をあげてた人たち。
でも多分そんな人はわずかしかいなかったはず。

今の世の中っていい意味でも悪い意味でも
手抜きが可能な世の中になっている。

でもその手抜きの仕方を間違えると
大きなしっぺ返しが待っている。

いいものも悪いものも貯蓄されるのよ。
もっといえば蓄積される。
それが一定のとこにくると牙をむく。

むきあうにしてもどのように向き合うかで
また変わってくる。

日々の自分に向き合うのか?
それとも100%誰かに頼るのか?
それとも現実逃避するのか?

全ては循環。

今はほんとに不自然のものが多く
前も書いたけど全て排除するのは難しい。
どこをみてどう生きるのか問われている。

同じ場所に生きて存在してるのに
なぜか違う感覚に感じるのは
物の見方、捉え方が明らかに違うから。
あうあわない。ではない。もうそこじゃない。

大きなうねりは変えることはできなくとも
目の前の自分や家族を護ることはできる。

小さなことからコツコツと。











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