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このアルバム聴いた? 2000年辺り編 - 邦楽!ロック!ミレニアム!

 ひしひしと感じている、時は来たのだと。
 かつての意味でのどっしり(良かれ悪しかれ)とした音楽誌はもう無いし、何かを教えようとするものは全部が世間の平均値を取って並べたランキングであって個人の教義ではない時代に突入しており、これはいよいよバトンを渡す側であるという意識がかなり必要になってくる。
 映画や本やテレビゲームに関しては使えそうな90年代、ゼロ年代といった区切り方が、こと音楽に限っては、その中でも邦楽に関していえば、とても使いづらい。そこで1995年から2005年の間の10年間という区切り方を使って紹介したい。
 なぜ1995年なのかといえば、平成が平成であることを特徴付けた自我を持った(邦楽に関しては)ような感触を受けるのが、この年だからである。
 しかし、どうして同時代性の中であるにも関わらず音楽のみにそれが適用されるのかといえば、かつての世界はそれぞれのカルチャーごとに別の時間軸が流れていて、映画ワールド、小説ワールドといったように、時間軸が自立していたのだ。インターネットの小型所持以後、それらのほとんどはどことなく同じワールドになっていった。

1996[深海]Mr.Children
 このアルバムのエポックをいま説明するのってすこーし難しいと思うんです。マシンガンをぶっ放せがわかりやすいんですけど、ミスチルの歌詞に半セカイ系という視点が出てくるのはこのアルバムから意識的に始まっているように思う。うーん、どういえばいいんだろう。自分の外を言うと自分の内になっていて、自分の内を言うと自分の外になっていく言葉の視点。視点が立っている境界線が、自分を境とした内と外で完全に分離していない感じ。一つ前のアルバム「Atomic Heart」のジェラシーやAsiaではその線を越えることなくどちらかで描写しているのが、境界線をより曖昧にして横断しながらナラティブ化した視点で言葉を連ねている。完全に外、完全に内というのは、それまでの歌詞が基本的にそうなっていると思うのだけど、それはたとえばフォークソングなどがそうで、社会の時流へ向けた完全に外、または妻(になるかもしれない人へ)へ向けた完全に内といったように。しかし、そういった時代性という進行形とはまた違った曲の中でのリアルタイムさであり、歌っている最中の今にあって現在進行形で思ったことが言葉になっているんじゃないか思わせる瞬間性を、このアルバムからは相当に意識して入れていると感じます。それは、かつての歌詞のように手紙みたいな時間差よりも近い距離感で、目の前の人に言っているように思わせることを意図している。このアルバムの前に出たシングル曲が2つあって、それが自分自身ではない人を描写した言葉が並んだeverybody goes〜秩序のない現代にドロップキック〜と、サビで「言わば」というように比喩であることを直接的に言及しているシーソーゲーム〜勇敢な恋の歌〜です。この2つが、深海での新しい視点を獲得するための助走距離になったように思います。なぜこの二つの曲が深海に繋がるのかというと、前者は社会そのものの描写ではなく社会を具現化した人の描写であるということ、後者は比喩がまだモチーフの域を出た使い方になっていないところにある。そして、この視点というのは邦楽の歌詞ではもう普遍になっています。なので、もしかしたら今ではそこまでの驚きは感じられないかもしれません。平成のJ-ロック(死後)の文脈のかなり最初の方にあるアルバムで、この後への影響力はとても大きかったのではないかと思うのです。

1997[SICKS]THE YELLOW MONKEY
 イエモンは、わかるかわからないかでいえば、圧倒的にわかるバンドだ。しかし、このアルバムではわからない方へ向かうことを意図している所が良い。全体的に音響が若干遠い。楽園と見てないようで見てるの2曲以外は全部アルバム曲である。淡い心だって言ってたよでは始めた話をすぐに辞めてしまい、曲名と同じ言葉が来る箇所が一度だけあってそのとき天使を表現したようなツリーチャイムの音がキラキラキラ〜と鳴るのである。曲にフィジカルさがあって、そこにフィールも乗っけてくる。結構周到で知的なアルバムなのである。

1997[FANTASMA]Cornelius
 歌詞に抒情の輪郭を持った表象が強い。それはこのアルバムが脱構築をやっているからなんだけど、そのバランスを取る形としてかなり意識的に強い。CLASHやGOD ONLY KNOWSでは、歌詞の言葉が音の補助線を引いている。CLASHはクラッシュという落とし所まで歌詞が補助線を引いていて、GOD ONLY KNOWSの声が重なっていくところはその後にニュースという言葉を出すことで音の補助線を引いている。作り手が最大の第三者であるというリスナー感、それが延いては平成という都市感を視覚的なヴィジョンのように表出させているのかもしれない。

1998[3×3×3]ゆらゆら帝国
 アルバムというものが人の形をしていたとして、さらには宇宙人を想像してみる時に僕の頭に浮かぶのは、このアルバムだ。UFOがどこから来ているのかわからないのと同じで、これがどこから来ているのか僕にはわからない。ヒカシューとかたまとかを感じることもある。それは歌い方だろうか。あぶらだことかじゃがたらとかもあるかもしれない。それはギターの音なのだろうか。しかし、それらは全部気のせいかもしれない。もっと以前の時代から飛来してきたようにジミヘンやT.REXを感じることもある。けど、やはりそれも気のせいかもしれない。これが1998年であることの繋がりを感じることがない。今年出ていてもおかしくない。いつ出てもその年の十枚に入りそうである。これが「ゆらゆら帝国Ⅲ」だと、そこにはなぜか平成を感じる。コギャルとか日本の変なCMとか、そういった平成の狂気的な部分を掬って固めたみたいな。

1999[無罪モラトリアム]椎名林檎
 もし仮に10個の個人音楽サイトがあれば、このアルバムではなく「加爾基 精液 栗ノ花」の方が選ばれているはずだ。しかし音楽に対してあと一歩のところでアマちゃんの自分は、こっちを選んでしまうのだ。そもそも、個人音楽サイトって何?、ナタリーみたいなこと?って思うかもしれないが、そういうものとは全然違くて、SNSが登場する前にあったのは、すべてが個人サイトというそれぞれが無人島のようにインターネットの海を漂流するものだったのであり、ってこんな昔話に興味があるのかはわからないから割愛するのだけど、とりあえずそれはSNSや2chのような掲示板と全く違った雰囲気であった。それで本題に入るが、このアルバムの驚きが何かといえば、曲が一つの部屋だとすれば、音の設計が配置的な押し方をしている強さにある。実際、この頃のライブ映像を観ると映像の音質が良くないというのもあるが、ギターをうねらせる強さを前面に出すというパワーによって押されている。それはこのアルバムの曲が、音の多重性を配置するところまで込みで完成しているからである。そういった意味で、この後の時代のヘッドホンミュージック(それは必ずしもライブの再現性を前提にしていない)とも箱庭性での重なりを見せるのである。

2000[hayabusa]スピッツ
 スピッツというのは、好きなアルバムが特に分かれそうなバンドである。でもなぜこのアルバムを選んだのかというと、ちょうどよくスピッツの全部が入っている気がするからだ。曲の幅が広いのはもちろんなのだけど、曲が打った点の距離間のことではなく、地続きの面として敷地面積が一番広いように思う。

2000[図鑑]くるり
 これは一向に懐かしくならない2000年であるが、THE 2000年という感じが確かにある。それはサブカル大学生とも言える要素で、しかし重要なのは大学生ではなく2000年の方なのだ。1999年にはまだ無いが2001年には終わってしまった、2000年の瞬間風速の中で今よりも下位に位置付いたサブカルというものの纏った暗さだ。CDジャケットのひ弱なイラストで描かれた、風景よりも情報量の少ない人間を見よ。そして青い空、街、ロシアのルーレットで爆発している叫びを聴け。この表と内側が一体になっていることが、平成の折り返し地点の旗なのである。別に2000年のサブカル大学生の何を知っているわけでもないのだが。

2002[jupiter]BUMP OF CHICKEN
 個人的には「ユグドラシル」の方が好きかもしれない。それは聴きやすいからで、なぜ聴きやすいのかといえば曲にどことなくテレビゲーム感があるからだ。言うなればテレビゲーム世代(ゲームばっかしてるとゲーム脳になっちゃう、というあれだ)である個人感にフィットしているからなんだけど、その自覚性を持った視点によって、ここではこちらを選びたい。このアルバムの音は岩のように硬派である。

2003[HELL-SEE]syrup16g
 CDのジャケットが千と千尋の神隠しのDVDよりも赤いので(なんのことかわからないZ世代はオタッキーな両親に聞いてくれ)これは何かの間違いではないかと思うも、再生すればこの色でしかないサウンドが鳴っているので、この色で間違ってはいないのだ。このアルバムかこれより前のアルバムだったか、ベースの録音を家のバスタブの中で録ったと言っていて、頭の中に何を師に置くとそうなるのか、と思う。自主制作盤ではなくてレーベルから出るアルバムで、ですよ。このアルバムの音響の広さはフェスのような意味での面積としての広さというよりも、くぐもって鳴っているために頭の中で響いている広さのようでもある。

2004[ether]レミオロメン
 CDのジャケットを見てください、stereo/digital audio/new standard rock。たぶん本気で言ってるのだろうし、たぶんふざけて言ってるんだと思います。本当は聴けば聴くほど細やかな部分に味がある「HORIZON」の方を選びたいんですけど、そちらは2006年なのでこちらを選びました。このアルバムはちょっと景気が良すぎるんですね。これ以降のアルバム曲や、これ以前含めてのカップリング曲の方が陰気で好きです。陰気というのは歌詞やその歌い方含めて指していて、感情としての暗さというよりは、少しの哲学性のような陰気さだ。それがレミオロメンらしさの半分でもあります。このアルバムでいうと、深呼吸の「こころーに闇がーある」からの流れです。それまでの視点の尺度が変わって、時間が引き延ばされるような感覚がある。若干違いますけど粉雪や花鳥風月のサビも、一応この土台の上にあります。

2004[ソルファ]ASIAN KUNG-FU GENERATION
 平成の空気が音になって、鳴っている。それは平成前半のヘッドホンとイヤホンの音という意味でもあるのだけど、音に本当のローが無いのではないだろうか。それでも楽曲の段階から引き算の部分を作って考えられているのでベースの存在感はちゃんとあるし、むしろそれが平成というイメージをそのまま音にしたかのようでもあって、不思議と心地のよい浮遊感でアルバム全体が包まれている。リライトやRe:Re:のようにパワーロックっぽい曲があるから若さと共にスルーしてしまいそうになるが、これはやっぱり出来そうで出来ない。そこが偉いと思う。なんか出来そう、な気がする。そう思わせるのだけど、歌詞カードには歌詞が縦書きで書かれてるんだけど、つまりはそういう言葉で歌詞が綴られているわけだけど、歌詞を読んで、聴いて、言葉が音に乗るとするすると入ってきて、頭の中で口ずさんだりもする。ああやっぱ出来ないよこれ、っていう。

2004[フジファブリック]フジファブリック
 これは天才です。他のアルバムも良いのですけど、これ以後のアルバムだと金継ぎと同様のなめらかさが備わってくるので、それによって重要度が下がってしまうようにも思える時があるかもしれないので、このアルバムを選びます。一つだと建たないタイプの部品がなぜか同時にいくつかを使うことで建たせる組み立て方というのが、天才を判別する方法です。結局、志村以外に志村はいなかったわけです。そも、天才の定義を説明したいわけですけど、天才っていうのは良いのその上にあるわけではなく、並走した別のレールです。まず音楽では無い世の中で音楽であることに対して、これは音楽だ、と言うわけです。しかし、志村の場合は天才であるわけです。つまり、この人は音楽だ!と、この人は天才だ!という二つがあるということです。どちらが上とかではなく、これは別なのです。

2005[I ♡ U]Mr.Children
 桜井和寿史上、最も詩人のアルバムであるように思う。歌詞が詞ではなく、詩である。詩でありながら物語性もあって、最初から最後まで一本線が通っている。ボカロ以後にあっては珍しいことでは無いかもしれないが、極端にいえば虎舞竜のロードやさだまさしの関白宣言のようなもので、それが00年以降にバンドサウンドを率いて行われているのは邦ロック(死語)としては、一つのピークを迎えている。そして物語性と詩の同時到達が二つある。ひとつめは2番の歌詞が1番の歌詞を踏まえていて、さらに3番が1番と2番を踏まえた上で歌詞を展開させていること。ふたつめは部分比喩が本線を支えて、本線そのもの(全体)もまた別のものを形容しているということ。つまり構造を可視化すると、1番が比喩であり、2番が1番を踏まえた上で行われる比喩であり、3番が1番と2番を踏まえた上でそこからまた跳躍した全体包括としての比喩ということである。まだわかりづらいと思うので、具体例を挙げてみます。未来がベーシックでわかりやすいです。まず1番が比喩です。2番は1番を踏まえた上での比喩です。3番で、そもそもこれはドライブの話ではなく人生の何かしらの比喩である、といった感じです。アルバムのリード曲であるWorlds endは、このアルバム全体の意志が一番形となっている曲で、喜怒哀楽がそのままの言葉にはなっていません。それらは全てが視覚的画面の言葉によって、しかしそれが感情を表しているようになっているのです。

 と、まぁ昔の音楽誌を多少は意識してCDジャケットまで含めて一つの作品であると捉えて書いてみたり(これはMTV以後の流れの中にあるものだ)、洋楽のアルバムに付いているライナーノーツのように改行をしないという早口オタクのような意志(あるいは紙代の節約)で書いてみました。
 人というのは数が増えるほど、なぜか個々の精神は軽くなってしまうものです。僕は、一人の存在として作品ひとつと向き合うことの出来た時代の最後を過ごした者として、この文章を書いた次第であります。今はたとえインターネットを使ってなくても、インターネットの中に人々は居るのです。

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