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大学「自治」を悼み、再生する

 6月21日夜、学生たちは安田講堂前に集結した。「学生の声を聞け」「教育は権利だ」の声が安田講堂前にこだました。総長対話での学生軽視に憤ったことによる自然発生的な抗議だった。こうした平和的な抗議活動は警察力導入により、蹴散らされた―――。警察力導入は、東大における大学「自治」の死である。わたしたちは、いま一度死んだ大学「自治」に哀悼の意を表し、その再生を図る。

(このnoteは、24年6月27 日に緊急アクションが開催した、「東大『自治』を悼む会」の様子を伝えるものです)



大学「自治」への弔辞


 明治維新後に日本で近代高等教育が始まって以来、弥生、駒場、そしてここ本郷の地において受け継がれてきた「大学の自治」という伝統の霊前に、謹んでお別れの挨拶を申し上げます。

 思えば明治10年4月、日本初の近代大学としてこの東京大学が設立され、翌年の12月に文部省から学士号の授与権を認められたことで、日本における大学自治の歴史は始まりました。大学教授はあらゆる権威から独立して学術及び美術の研究と、その発表といった活動を行い、そして自らの研究と思想と思考を、講義を通じて自由に学生に伝える権利が認められたのです。大学における研究というものは、すべてが即座に世の中に資することではありませんし、時には世の中を大きく変えてしまうような研究成果もあります。だからこそ、国家や企業体、政党といったあらゆる権威による干渉を排除し、研究活動を保障する必要があるのです。

 そして明治23年、これに続いて本郷に隣接する弥生の地、当時旧制第一高等学校があったその場所で新たなる伝統が生まれました。我々学生にとって最も重要な、学生の自治です。それまで厳しい軍隊的規律のもとで統制されてきた学生寮は、運営にかかわる細かな事務事項から学生の処分まで、広範な権限を学生が持って運営される自治寮に生まれ変わったのです。新興国日本の前途を担う、その希望に燃えて一高に入学した当時のエリートたちは、自治寮の談話室に日々集い、盃を片手に天下国家を自由闊達に論じ、寮歌を斉唱して気勢を上げました。我等が手で、帝国主義全盛期の混迷した世界に漕ぎ出すこの日本を、必ずや救い、発展させてみせると——。そんな決意の込められた寮歌こそ、日露戦争前夜の明治34年に作られた「春爛漫の花の色」であり、「アムール川の流血や」でした。その翌年に作られた、一高寮歌の中では最も有名な「嗚呼玉杯に花うけて」もまた、このような決意を込めた学生らの歌でした。

 「教授の自治」と「学生の自治」を含んだ「大学の自治」の伝統は、こうして発展し、大正デモクラシーの時期にその最盛期を迎えました。しかしその雲行きは、学生らが自治の本領にかけて守ると決意した帝国日本の命運とともに、その怪しさを増していったのです。大正14年、宇垣軍縮による軍事教練の導入に反対する論陣を張った東大生を含む大学生らによる新聞は、東大の当局によって頒布を禁止され、全部押収されました。教授の自治もまた脅かされます。時代は進んで昭和8年、京大法学部の瀧川幸辰(ゆきとき)教授の研究内容が無政府主義的であるとして文部省から処分を受け、抗議の意を示すため法学部教授会が全部辞任するという「瀧川事件」が起こります。さらに昭和10年、元東大法学部の教授で、当時貴族院議員であった美濃部達吉議員による「天皇機関説」が国会において排撃され、文部省が「国体明徴声明」を出して天皇機関説の教授を禁じるという、「天皇機関説事件」も起きました。戦争がはじまり、戦局が悪化すると、文系学生を帝国陸海軍に徴集する「学徒出陣」も公然と行われました。大学の自治は、加速する国策の前に一度死んだのです。

 しかし、そのような時代の中でも、一高の自治寮は自治の精神を守り続け、戦後の学制改革で東大教養学部に改編されるまで脈々とその精神を守り通しました。一高の自治寮は駒場寮となり、戦争で荒廃した日本に学生自治を建設する土台となりました。戦後、憲法第23条で完全な学問の自由を認めた日本国憲法のもとで新制大学として再出発した東大は、戦前に大学の自治に対する公然たる侵害が行われたことへの大いなる反省に立ち、「ペンは剣よりも強し」ともう一度「大学の自治」を取り戻さんとしました。教授は本居宣長や頼山陽からマルクス、バクーニンまで幅広い研究の自由を取り戻し、学生も学部ごと、寮ごとに自治会を結成し、自治会の中央委員会が設けられ、さらにその上には全国の学生自治会を統括する全日本学生自治会総連合(全学連)が設けられました。学生は新生日本の復興を担うという新たな気概を持ち、米国の占領に対してどうあるべきか、日本国の在り方はどうあるべきか、我々は大学で何をなすべきか、といったことを討論し、また立て看板や演説、演劇、ビラといった形で発信しました。

 そうした背景の中で、大学と警察のかかわりという問題は、極めて重いものでした。特高警察による思想の弾圧の記憶があまりにも生々しかった戦後すぐ、マッカーサーの「逆コース」によってレッド・パージの嵐が吹き荒れる中、警察を立ち入らせることに対する警戒心は、我々が想像できる域を超えるものでしょう。日本が主権を取り戻してまだ程ない頃の昭和27年、ここ本郷において、国鉄三大事件といわれるうちの一つである松川事件に関する学生らによる演劇が行われている最中に起こった「東大ポポロ事件」は、まさにその象徴でした。演劇の観客には警視庁の私服警官がおり、学生の思想に関する密偵行為を行っていたのです。学生らは私服警官を取り押さえて暴行を加え、結果として暴行罪で起訴されました。審理は最高裁まで上告され、結果として学生側の敗訴に終わりましたが、最高裁判決には補足意見として「学生らの演劇集会は学術行為とはいえず憲法第23条に保障されるものではないし、密偵行為に対して暴行を以て制裁を加えたことは違法であるが、集会に警察官が立ち入って密偵行為を行っていたという事実は憲法第21条を侵害するものである」という旨が記されていました。学生側の敗訴ではあるものの、憲法第21条及び第23条を重く受け止めたこの判決は、大学に警察が立ち入ることの重大性を端的に表しているといえるでしょう。

 こうして復活し、大学当局と学生の双方が守らんと決意した「大学の自治」は、しかし時代が下るにつれ過激化、先鋭化していきました。特に1960年代後半から、全国の大学と高校に吹き荒れた学校紛争の嵐は、まさしく過激化した学生自治の頂点でした。東大においては医学部生インターン反対運動をきっかけに、一時は全学の半分が東大紛争に参加しました。その学生運動の先鋭化のきっかけは、1968年6月17日、東大病院のインターン制度廃止を訴えて安田講堂を占拠した医学部生に対して当時の大河内一男総長が警視庁機動隊を導入し、排除を行ったことです。先述のポポロ事件とは異なり、この件は学内の問題です。学生自治会は大河内総長の決断を、自ら「大学の自治」を捨てるものであると非難しました。紛争は全学に拡大し、東大全学共闘会議(東大全共闘)が結成されます。秋学期からは全学バリケード・ストライキにより授業は停止し、大河内総長以下執行部は総辞職、加藤一郎総長代行が就任しました。

 東大全共闘により学生運動が先鋭化し、安田講堂が占拠され、時計台に赤旗が掲げられる中、1969年1月10日に秩父宮ラグビー場で全共闘諸派以外による七学部集会が開かれました。大学の「健全な」自治を取り戻さんとした各学部自治会は、加藤総長代行との間に七学部集会における確認書、所謂「東大確認書」を結び、大学当局が全構成員自治を認めるとともに次々とバリケードを解体して授業への復帰を始めました。東大全共闘の占拠する安田講堂が1月19日に警視庁機動隊によって封鎖解除されて以降もこの「確認書」は効力を持ち、東大における学生自治の根拠となるものとして守られてきました。「大学の自治」は、二度目の死の危機を乗り越えたのです。

 しかし、時代がさらに下り、現代に近づくと、学生自治の運動が緩やかに衰退すると同時に、「大学の自治」もまた静かに死へと向かいつつありました。国立大学は独立行政法人となり、それまで「教授の自治」の象徴であった教授会選挙による総長の選出は廃止されました。実質的な大学経営の最終決定を行う経営協議会は半分が学外者で占められ、「大学の自治」のうち最も根源的な研究活動の自由すら脅かされています。大学における「知の集積」の象徴たる駒場の大学図書館には、企業体の看板が掲げられています。産学官連携という美辞麗句のもと、大学の収入は使途が限定された補助金ばかりになり、先人たちが守り通してきた学問の自由は、静かに脅かされているのです。

 そんな中で、藤井輝夫総長が今回の学費値上げ問題に関して、学生の声を聴かず、教授の意見すらろくに反映させず、あまつさえ学生たちの大学運営に関する、正当な権利の行使としての抗議集会へ警察力を導入するという決断は、明治の昔から連綿と守られ、受け継がれてきた「大学の自治」を、教授の自治を、学生の自治を、軽々しく踏み躙って、まるでなかったかのようにふるまうものです。学生自治会との団体交渉を拒否し、確認書によって明確に否定されている集会弾圧を目的とした警察力の導入を行う、この「東大確認書」に違反を続ける総長によって、「大学の自治」は、6月21日にとうとう死んでしまいました。戦争と学内紛争を乗り越え、「大学の自治」を守り通してきた日本の知の牙城たるべき東大は、もはやその責務を果たそうとせず、自治の精神の灯はまさに消えんとしています。

 最後に、明治10年以来、算えて150年弱もの伝統を誇った「大学の自治」という伝統の死を心から哀悼したいと思います。大学の自治よ、安らかに眠り給え!栄光と挫折に満ち満ちた君の歴史が語り継がれることを、そしていつの日か、学生と教授が知を守るために君を必要としたときに、その棺の蓋を開け、二度も死んだ自治の精神を再び燃え上がらせることを、ここに切に望んで、弔辞とさせていただきます。

厳粛な雰囲気の中での「嗚呼玉杯に花うけて」合唱のようす

合唱


 大学「自治」の葬送のため、二曲の歌が厳粛な雰囲気の中で合唱された。ひとつは東京大学教養学部の前身のひとつである旧制第一高等学校(一高)の寮歌「嗚呼玉杯に花うけて」。もうひとつは、東京大学運動会歌の「大空と」である。

 「嗚呼玉杯」は、戦前から続く学生自治の系譜に敬意を示し、自治の喪に服するための厳粛性を持った曲として選出した。集まった学生は、自治の歴史に思いを馳せ、沈痛な面持ちで合唱をした。「大空と」は、日本中の多くの人が憧れ、目指した「東大」の理想を表し、現在と対比させるための曲として選出された。

 歌唱順としては応援歌としても有名な運動会歌を後に置き、厳粛さの中に決意を込めた「嗚呼玉杯」から立ち上がり、復活を誓う力強さを意図した。

自治再生を目指して、おのおの手を高く掲げた


「自治」再生の催し


 いま一度「死んだ」自治をわたしたち学生の手で取り戻すため、最後にやなせたかし作詞の「手のひらを太陽に」が歌われた。自治の復活を強調するため、「生」を象徴する曲として選ばれた。

歌詞の通り、「ぼくらはみんな生きている」。大学の中で「生きている」学生の声を無視する大学当局へ対するひとつのアンチテーゼとして、この曲は声をあわせて歌われた。

参加者はおのおの、光るブレスレットと花を高く掲げて、じぶんたちが大学のなかで「生きているんだ」と主張した。


自治再生のために手向けられた花と光るブレスレット



参加者からのコメント


 式典終了後に、加藤陽子教授(人文社会系研究科・日本史学講座)から今回の悼む会に関して、飛び入りのスピーチをいただいた。その概要は以下の通りである。noteへのコメント掲載を許可して頂いた加藤先生にこの場を借りて感謝申し上げます。

 大学「自治」を悼む会を見て、自由民権運動の際の「民権葬儀」を想起した。安丸良夫(歴史学者)が言ったように、自由民権運動は、民権の側も国権の側も、言論や「公議輿論」を重視したという点では共通性があった。言論を通じて、この国を良い方に導こうという点。
 言論の中核をしめた演説会は、ときに勉強会や学術的なものとして、寺などで女性や子供も含めてなされた。しかしながら、勉強会といった体裁をとっても、集会条例などにより警察によって解散させられることがあった。そうした中で起こった抗議の方法が、「民権葬儀」。死んでしまった言論や演説を、諧謔をもって供養した。

 国立大学法人化から30年経ち、もう一度大学のあり方を問い直す時期に来ている。学問は「選択と集中」ばかりでは発展するはずもない。専門分野であっても、学振の推薦書に甲乙つけるのは正直難しい。専門外であればなおさらだろうと思う。大学のあり方を問い直す学生の動きに賛同したい。


マイクを握る加藤陽子教授


告知:署名のお願い!


学費値上げ反対緊急アクションでは、学費値上げに待ったをかけるため、オンライン署名(change.org)を開始しました! 学生の声に是非ご賛同ください!

何十名もの教員のみなさまからのアツい賛同文・意見文を賜りました! この場で改めて感謝申し上げます。 賛同文は下記リンクからご覧いただけます。ぜひご一読ください! 

署名への賛同お待ちしています!




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