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ぽんぽんの出産体験記 〜助産院から総合病院での緊急帝王切開にいたるまで〜


"Beyond" by Nozomi Teranishi 

32歳の誕生日を数日後に控えていた私の、はじめての出産体験記です。

出産の振り返りをお話したいと思います。2021年9月2日に初めての出産をしました。今、2021年の12月の22日で約3ヶ月と20日ですね。3ヶ月、赤ちゃん3ヶ月と20日すくすく育っています。これまでの経緯をお話ししたいと思います。ちょうど去年の今頃、お腹に赤ちゃんを授かりました。というのも、受胎したのが12月のおそらく14日頃だったと思うんですね。その瞬間、もう宇宙をそのまま受け入れたというような、感覚があって・・・



こどもを授かる瞬間を大切にしていた

私がいろんな本を読んだり、育児書だったりとか、教育の本を読んでいる中で、やっぱり、妊娠前ですね。その受胎の瞬間とか、妊娠前の事が、すごく大切だよっていうようなことを学んできたので、やっぱりその子供を授かる時には自分なりにその瞬間は大切にしたいと思っていたのですね。

そして、そろそろ、こどもも・・・結婚もして、こどもが来てくれたらいいなぁ、という考えがあったんですけども、去年の12月頃ですね、無事に授かりまして、1月に妊娠しているのが分かって、実は1月の12日にはじめて、産婦人科に行って、赤ちゃんがいますよ、袋のなかに赤ちゃんがいますよ、っていうのを確認したんですけど、実は1月12日っていうのが、私と主人がお付き合いをした日だったんですね。

それが、3年前の1月12日でした。そして、3年後に赤ちゃんがお腹に来てくれたというのがしっかりと分かって、妊娠期間に入っていきました。

妊娠期間の体調

最初の頃は、少し吐き気があるかな?はてな??ぐらいな感じなので、ほとんどないような感じと、あとは眠いっていうのはちょっとあったんですけども、殆どひどいつわりはなくて、本当に感謝、感謝の、親孝行なこどもさんだねーと、言ってもらったりしていました。
そして、順調に妊娠期間を過ごして、この時には私はスセディック・ジツコさんの「胎児は天才だ」という本を5年前ぐらいから読んでいて、ママの体調が全てだなーということを、本を読んで思っていたんですね。

お腹の中の赤ちゃんとのコミュニケーション

"In the Lights" by Nozomi Teranishi 

なので、妊娠期間中は、お腹の中の赤ちゃんに名前(=胎名)をつけて、「赤尊(あかそん)」という名前をつけていました。
名前を付けて、毎日ひらがなのフラッシュカードをやったり、カタカナ、アルファベット、それから暗唱ですね。論語とか俳句とか、あとは YouTube で “Number Blocks(ナンバーブロックス)”っていう 、BBC が作った数学の素晴らしい動画があるんですけども、それを見たりとか、毎日毎日、赤ちゃんにお話を話しかけながら、赤ちゃんが何を感じてるかなのかなっていうのもイメージで感じつつ、やりたいことをやっていくっていう時間を、しっかりと取って過ごしていました。

毎日毎日、毎日毎日、赤ちゃんのことを考えていました。本当に考えなかった時はないという感じでね、あと、日記もつけていました。

妊娠期間の日記。今日はどこどこに行きました、赤尊(あかそん)君は、ポコポコと動いていました。楽しいのかな?とかね。そんな感じで、毎日日記をつけていました。


わたしがなぜ助産院を選んだか

はい。そして、出産なんですけれども、通常、出産って病院で産むのが普通だと思うんですね。日本だと98%ぐらいですかね。それから、選択肢としては助産院、あとは、自宅出産とか、まぁいろいろな選択肢があって。水中出産もあったりとか、色々あると思うんですけど。まぁ、私は胎教っていうものに関わってきて、色々な妊婦さんのお話とか子育ての話を聞いたりしていました。

それから私の親友のレミちゃんが、バリで水中で出産をして、とても気持ちの良い出産をして、本当に素晴らしいんですけれども。
“It was goooood!” 「気持ちいい!」って言って、生まれたその動画を見せてもらったりして、そういう自然な分娩に憧れてましたので、病院ではなく、調べて近くに助産院があったっていうのを知りまして、近くと言っても30分ぐらい家からかかるんですけど。そこの助産院にしたいなと思って、連絡を取って進めていました。

当初、家族からは、まぁ、もう本当に家からなるべく近い方がいいと。私が、母に産んでもらった時は、陣痛が来て、そして、まぁちょっと...状況がね、ちょっと悪く。母は、自分でタクシーに電話をしてタクシーを拾って、自分で病院、産院まで行って産むという。
そして、それはもの凄く辛かったんだっていう話を聞かせてくれたりとか、してましたので、本当に家から近い方がいいよ。って。


家族の理解と協力を得るまで

そして、私と主人は、車がね、あの、今、森の中に住んでるんですけど、車がなくって歩いたり自転車の生活をしてたんですけども、車がないという状況がありましたので、里帰り出産をして、里帰りをして、病院で産んだ方がいいよっていう風な家族の考え方だったんですね。

"Round and Round"

でも、どうしても、自然な...なるべくお母さんが産む力を大切にして、そしてそれを引き出してくれるような助産院で産んでみたくって、助産院にしたいということをですね、家族に伝えて。まぁでもやっぱり、本当リスクもありますから、すごい心配されたんですけども、結局、家族、まぁ、私の父と母なんですけどね、全力でサポートするよって。で、私の父は母が、私の母が出産に望む際にですね、何もしてあげられなかった。自分は、ちょっと仕事とか、あと、そうですね、野球のコーチをしていまして、そのパーティーというか飲み会があって、そこで飲んでグターっとしてしまった。何も手伝えなかった、本当に人でなしだなあ、という思いがあったみたいで、私の時には、全力でサポートするよっていうことで、実家から1時間半かけて、今私が住んでいるところまで迎えに来てくれて、病院に検診もぜーんぶ言ってくれましたし、そして陣痛が来た時も、「俺がやるよ」って言ってくれて、助産院で産むことを決めました。

で、もう、イメージの中では助産院で最高の出産をするんだ、っていうイメージをですね、ものすごい持っていたんですね。さぁ、ここから、どうなるでしょうか。


いよいよ、出産のとき!

いよいよ出産です。出産を間近に控えてからのお話をさせていただきます。

2021年の8月25日。えっと、この時は、えっと、もう臨月に入って、いつ生まれてもいい時だったんですけど、朝、おしるしがあって。ちょっと生理の血がついたような感じですね。で、おしるしがあって、で、その日に助産院にお電話をして、えー、で、少し様子を見るようにということだったんですね。で、そこから、おしるしがあったら、だいたい一週間くらいで、通常は生まれるんですけど、中々生まれなくって、8月25日から私の父と私の妹が、私のこちらのお家に来て待機してくださっていました。

そして、中々来なくて、中々来なくて、そこから6日経った、8月31日に、そうですね夕方頃から少し「うーうー」ってお腹が痛い、痛いというか、こう、なんていうんですかね、うん、深呼吸を、こう、「ふーふーっ」とはかないと...ちょっと。うーんもう、忘れちゃいましたね。もう既に忘れちゃいましたけど。まぁとにかく、息をはかないと、辛いなぁっていう感じですかね。もう、本当忘れちゃいました。っていう感じが続いて来て、8時51分頃、その感覚が3分おきくらいになってきたんですかね。

いざ、想像を超えた陣痛長期戦へ。

“On the Way” 

陣痛かなぁと思って電話をして、そうですね、11時、夜中の11時頃にこうのとり助産院に行きました。そして、そこから、主人がまぁ、立ち会ってくれるということで、お部屋の中にいって、あの、助産院って2つ部屋があって、緑の部屋の畳貼りの部屋と、ピンクの部屋があったんですね。で、緑の部屋で産むよーって言われていたんですけど、なんか自分は「あー、このー、ピンクの方で検診だったんで、なんかピンクの方が落ち着くからピンクの方がいいなぁ」って思っていたんですね。で、助産院に行ったらなんとピンクの部屋に通されました。とうのも、もう一人の産婦さんが出産を終えて、2日目だったのかな?緑の部屋にいらっしゃったんですよ。ですので、空いていなかったので、ピンクの部屋の方に行って、「お、私のイメージした通りだ」と思いました。で、ピンクの部屋に入って、背中をさすってもらうんですけど、こう、なんか、どこかの大きな病院からもらってきたっていう、こういう椅子?えーっと、体を前のめりにこうして、で、自転車みたいなかんじですね。で、自転車みたいなところに、頭と腕をこう、前にして、背中をまっすぐにした状態で、先生が背中をさすってくれたんですね。

陣痛が来るたびに、本当に一生懸命背中をさすって、で、落ち着くと。で、その時はなんともないので、普通の世間話をして、えーっと、なんで、助産院にしたか、とか、えーと、なんで助産院をやってらっしゃるんですか、とかそういう話を永遠としていました。

で、自分は本当に、えーっと、親友、お友達のレミちゃんが、バリで気持ちのいい出産をして、その痛いっていうイメージがなくて、本当に自分にとって最高の感覚、自分の感覚を信じてイメージを持っていたら、必ずそういう風になるよーって信じきっていたので、絶対に病院じゃなくて、えっと、助産院がいいんです、というような話とか。

で、その先生は、その近くの大きな病院に長年、20年って言ってましたかね、病院に勤めていた方で、そこでその、なるべく自然な分娩をする、バースセンターっていうのを立ち上げられた先生が独立されて、えっとー、その助産院を開いてらっしゃたんですけども、なんで助産院を開かれたかというと、それを自分がしなかったら、えー一生後悔するから、ということだけで、病院を出て、自分一人で助産院をしていると。で、お母さんの産む力を最大限に引き出すっていうようなね、考え方をされている素晴らしい先生でした。

そして、えーっと・・・本当に夜中にも関わらず、その前日も出産でしたから、その先生は本当に寝ないでやってくださって、朝方までそれが続きました。で、そこから陣痛が激しくなることもなく、えーっと、朝の6時40分頃ですね、この時点で、まぁ10時間以上経っているんですよね。その時にですね、朝方になりましたので、もしかしたら、これで弱くなってきたから、一旦陣痛がなくなるといいね。だから、一回家に帰ってみてください、って言われて。

「え、陣痛なくなるとかあるの?」とか思いつつ、家に帰ることになり、また自分の父親の車で迎えに来てもらって、みんなもびっくりですよね。みんなももう生まれると思って待っているのに、え!?呼ばれたよ?みたいな感じで、迎えに来てもらって、お家に戻って来ました。で、そこから、まぁ、一日中陣痛が続いていくわけです。そこまで弱くなることもなく、大体、まぁ、7分、いや、3分とか、ずっとね、妹に記録してもらってたんで、まぁ、5分とか3分感覚くらいの陣痛が、えっと、そこからなんと、朝の7時から、ずーっと続いて、で、夕方とかもずーっと続いて、で、本当にその家の中での陣痛が苦しくて、あの、その陣痛が来るたびに、波が来るだに妹にしがみつきました。ね、もう一人ではどうしようもないので。

その痛みをぜーんぶ、妹が受け止めてくれたような感じだったんですね。で、温めたりとかもしつつ。で、夕方5時4分に破水しました。ベッドの上で「パーン」って音がして、で、2階のベッドにいたんですけど、その「パーン」っていう音は下の階にも響き渡るような破水で、私もびっくりして、「ふわぁああああーぁ、うぇーん、ぬれちゃった」みたいな感じで泣いてしまって、そして破水しましたので、すぐに電話をして、えー助産院に行きました。

そこで、「えー、いよいよだね」ということで、あのー補助の助産師さん、ちょっと年配の方でしたけども、そして先生と、主人と、えー、ピンクの部屋に通されて、最初激しく陣痛が来ていたので「いいぞ、いいぞ」っていう感じで、だけど子宮口がその時7cmしか開いてなかったので、まぁ、1時間に1センチくらい開くっていうような感じなので、まぁ、3時間以上かかるということで、あの、その、補助で来ていた助産師の先生も、「まだだね」とおっしゃて「あの、私お家でシャワー浴びて来るわ」とおしゃって、「えー、シャワー浴びて来るの?」とか思いつつ。。。はい。で、なんか、まぁ、ね。世間話が先生たちの間ではじまって、「那須町が、ここのパン屋は美味しいよね」とか「あのパン屋の名前なんだっけ」とかちょっとそんな話だったんで、私もなんだろう、自分のことに集中できなくって、その会話に「なんとかだよー」と答えて、陣痛きながらも、私が話してたんですけれども。

“Not Yet”

でー、えー、そこからね、そこからどんどん陣痛が激しくなったら、そこで産めたんですけど、もう夜の8時になってしまって、その時点でもう24時間以上経過してしまいました。で、赤ちゃんの心拍も60をきって、弱くなってくるときもあったので、先生はどうしてもねここで産ませてあげたいって思ってくださっていたので、あの、待っててくださって、「赤ちゃんがんばれー」とか「もう最後の望みをかけて生まれてきてくれー、おねがーい」ってお腹の中に言っていたんですけど、ちょっと願い叶わず、そして、あのー、んー妊娠期にサイババさんの、インドの神様のサイババさんっていう方がいらっしゃって、その方のガヤトリーマントラっていう奇跡を起こすマントラがあって、それを妊娠期間中から結構聞いていたので、好きでね、それを神頼みのようなかんじで、Youtubeで流して、って言ってガヤトリーマントラも聴いていたんですけども、それでもね、なかなか陣痛が強くならず、で、ちょっともうノリノリの曲かけて、ってデュア・リパかけてもらったんですけども、ま、それでもちょっと無理で。

「ちょっとー、残念ですけど、あの、救急車呼びます」っていうことで呼んでいただいて、で、そこからまだ歩けるのに救急車がやってきて、男の方3人ですかね、救急士さんたちがやってきて、もう、緊急事態!みたいな感じで、で、担架に乗せられて緑のシートでぐるぐる巻きにされて、はい。で、救急車に運ばれるんですけど、あの、雨が降り出していたんですね。真夜中。雨が降って、ピーポーピーポーあの赤いサイレンがなりつつ、緑のシートにくるまれて、あのー、もうすごい、なんか、大ごと、なにか大変なことが起きた!みたいな感じで、近所の方もでてきて、「何事があったんだろう」という感じで出てきていたんですけどね。で、それで運ばれて、えっと、コロナの時期ですのでPCR検査をまずされました。

鼻に入れて、もう陣痛きての、PCR検査しーので、もうすごい痛かったんですけど。本当にPCR検査が一番辛かったかなっていう感じでもあるんですけどね。で、あの、陰性っていうのが分かって「隔離なーし!」とか言って、次の部屋に通されて。

そしたら次の瞬間に、えー、大きな病院で検診を受けていたんですけど、そこでお世話になっていた先生がなんといらしゃったんですね。で、結構私よりも若いのか、私と同じくらいなのかわからないんですけど、すごく若くて、やさしーい先生なんですね。で、その先生が最後の検診の時に、「じゃぁ、今日はこれで最後ですね。助産院で出産頑張ってくださいね」という感じで、もう二度と会うことはないなと思っていたんです。なんですけども、救急車で運ばれてその病院に着いた時には、その先生がいらっしゃいました。そして「また会いましたね」という感じで「はい、お願いします。。。」みたいな感じで受け入れてくださって、なんとその先生、夜中にちょうど切り替えでいらしゃったそうです。なんか運命を感じました。

それでそこから、まずは、ね、あの、下から産めるようにします、とうことで病院の助産師さんたちが赤ちゃんの位置を確認したりとかして、あと、子宮口の開きとかを確認してくれてたんですけど、その時点でも7センチ。で、えーっと、赤ちゃんの位置が、ななめ、よこというか、位置おかしいよね、助産師さんがお腹の上にのって、「ばばばばばー」と叩きながら「こっちこっちー」とか言って、で、結構いい感じになってきて「うん、このままいけるかもしれない」ってことだったんですけど、そこからもう24時間経過していて、そこから3時間で、30時間以上とか超えちゃうと本当危険で、で、心拍も60をきってきたので、とてもちょっと危険な状態になってきたので、あの、促進剤を打ったんですね。

そしたらもう促進剤って、もうこう、結構ね、なんかイメージ的に何が起きるか分からない状態で促進剤を打たれて、で、あの、陣痛が強まりますよね。でその時、「はぁー」っとものすごく強いんですよね。で、それが続いたら即ぷるーっと生まれてるんでしょうけど、陣痛がきたけどこっから初産婦なんでね、時間かかると。で、ちょっと私の体力的にも、赤ちゃんの体力的にも厳しいんじゃないかーということで、で、帝王切開に、えっと、したいと思いますが、どうしますかと言われて、もう本当に、「赤ちゃんがんばれー」とか「赤ちゃん心拍弱くなってきたー」とか言われている状況で、本当に赤ちゃんが死んじゃうことだけは嫌だったので、「本当にお願いします!」となんの迷いもなく、帝王切開になりました。はい。

で、促進剤を打たれての緊急の帝王切開になりーの、だったので、強い陣痛がきていながらにして、手術台に移り、着替えをし、麻酔を打たれ、という状況があったので、まぁ、そこの状況の時はちょっとね、正直、大変でした。はい。

で、あのー、帝王切開になったら、あの、下のね、下半身の感覚はなくなり、なくなって、で、本当にあっという間ですね。いきなり、赤ちゃんの元気な泣き声が聞こえて、はい。


カイザー手術が成功して、「ぎゃー」と赤ちゃんが泣いた瞬間にね、「うわぁー、赤ちゃん泣いているー!」と思ってですね、で、周りの先生方も「おめでとうございまーす!!!」と手術室で言ってくださって、もうびっくり、感動的でしたね。で、本当にあのー、今思えば、迷いがなく、「帝王切開お願いします」って言えたのも、私の親戚の方とか、あと、すごく身近な私よりも若いお母さんが帝王切開で産んだ、帝王切開楽だったよーというお話をきいていたので、何もこわくないんだ、と思って、本当に委ねられたっていうのと、もう、なるようにしかならないでしょう、もう、全て天にお任せします、って思えたんですね。だから、本当、救急車乗るときも、病院に運ばれて激しい状況になっているときも、本当なんの不安もなかったですね。で、最近思ったのは、ガヤトリーマントラをかけて、もし助産院で、えーなんか奇跡がおきて、いきなり、ね、子宮口どんどん開いてきて生まれることになったとしたら、神頼みをしたら救われるんだ、なんとかなるんだ、全て神様の、神に頼めば大丈夫っていうような考えになっていたと思うんですけど、でも、もうそれすらも、何かに頼るっていうのも捨てて、全て委ねます、っていう、感じになれたんですよね。

出産のすべてを体験させてくれた

“I’ve been waiting for you!”

だからガヤトリーマントラで生まれなかったんじゃないかなぁと思って、あの、本当に、全て委ねる、なにかもう、誰かに気をつかうこともできない状況だし、もう、本当委ねます。私っていうものはもう何もないです、あのー、もう、赤ちゃんと天に全て任せますっていう感じになれたのが、私の、この出産で本当に大きかったことで、あの、赤ちゃんが生まれてからも、ね、帝王切開だと、あの1日2日は本当に体動けないんですけど、何もできないときに、看護師さんがいろんなころをお世話してくださって、ご飯もでて、赤ちゃんも面倒みてくれて、で、その時に、本当に、本当にそのままの自分で、自分で本当にリアルに感じているだけで、赤ちゃんも一生懸命おっぱいを吸おうとしてくれて、ね、あのーその、結構激しい元気な子だったので、その生命力に圧倒されながら、はじめての子育て、産後は、おっぱいが出るってことにすごくびっくしりて、あ、そっか出産がゴールじゃなくてここから始まりで本当におっぱいが出るんだっていうことに衝撃を受けました。

“The Joy”

という壮絶ミラクルな、だいたい3人分くらいのね、3人赤ちゃん産んだぞーってくらいの体験をさせてもらって、いろんな出産の方法をね、助産院もそうだし、病院もそうだし、病院でも促進剤とか普通に下から産むとか、帝王切開とか、あのーすべて経験させてもらえたので、あの、いろんなことに、いろんな出産のあり方とか、子どものあり方とかに興味があった私としては、全て経験させてもらった。そして赤ちゃんは病院で沢山の人に会って、看護師さんとか保育士さんとか、先生とかいろんな人に会いたかったのかなぁと思えるような出産でございました。

入院中に婦長さんがやってきて、「この度は大変でしたね。あまりに急な展開で心が追いついていないと思いますが、いかがですか。大丈夫ですか。」と心配してくださったんですけど、もう、私は、本当に心残りはありません。本当に感謝しています。と心から言えて、うん、素晴らしい経験をさせてもらいました。

生後1日でお目めぱっちり!

看護師さんたちみんながびっくりする、ぱっちり!!

で、あの、胎教をやっていた、あーおかげかどうか分からないんですけど、赤ちゃんは生後1日目から、普通は新生児だと目をつむってね、寝ているか泣いているかなんだそうですが、生後1日目から目をぱっちりと開けて、えーそこで、働いている看護師さんたちのことをじーっと見ているんですって。で、長年ね、あのー看護師をしている方が、「こんな赤ちゃん見たことがありません。胎教をされていると聞いていますが、どんなことをされているんですか」って言って、病室にきてくださって、で、次々と、3、4人の看護師の先生たちがやって来て「どういったことされているんですか。この赤ちゃん、ちょっと違いますよね。ほかの赤ちゃんが泣いてても全然つられないで、泣かないんです」とかね、おっしゃってくださって、お話シェアさせていただいて楽しかったので、本当にいい経験させてもらいました。

長い時間が経つと忘れてしまうので、忘備録として動画に撮った内容を記事として書かせていただきました。長文をお読みいただき、ありがとうございます。

“Gratitude”


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