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そして、エッセイはつづく

会社でお詫びのメールを書いているときにふと思い浮かんだ。

そうだ、エッセイを書こう。

自分はよくこういうひらめきを仕事中に起こす。そして仕事中にもかかわらず、このメモ書きを作成しているわけだ。あ、お詫びのメールを別の人が出してくれた。あまりにも自分がメールを出すのが遅すぎて、しびれを切らしたのだろう。さすがにそろそろ仕事に戻らないとまずい。そんなことを書きながら仕事に戻るまでの時間をじりじりと稼いでいるわけだが。あ、上司が席に近づい

帰り道、行きよりも軽くなったリュックを背負ってテクテクと歩く。行きは本が入っていた。図書館へ返却する本が2冊。その中の1つが星野源さんのエッセイ、「そして生活はつづく」本当に面白かったのでぜひ日本語を読める人は一読していただきたい。読めない人は日本語を勉強して読んでほしい。素直な文章が脳にすんなりと入ってきて、喜びも哀しさも切なさも丁寧に綴られている。エッセイは普段読まないのだが、こんなに愉快で、感情が丁寧に綴られていて、愛すべき馬鹿馬鹿しさ(いい意味です!)が詰められているエッセイなら何冊でも読みたくなる。

というか、いい意味です!と書けば何書いても許されると思うなよと、自戒の意味を込めて残しておきたい。反省。

行きでは気にならなかったリュックの重さだが、図書館に本を返却したことで、軽いなぁとリュックの重さを気にしながら歩く。軽いことはなんと素晴らしいかと、万年ダイエッターの自分なら思わずにはいられない。なのに、今回ばかりは、軽いリュックに対して不安を感じていた。家を出た直後のような、財布を忘れてないかな、とか。鍵を忘れてないかな、とか。何か大事なものを忘れた気がして、そわそわが収まらない。ああ、自分はあの本と離れたくなかったのだと、本を自分のものにしたかったのだと、気づいた瞬間に本屋勤めの母親に連絡を取った。「星野源さんのエッセイ、まだ売ってるかな?」売られてなかったら、また図書館で借りよう。あ、母親から返信だ。「あったよ。もう買ったよ」……流石か?

不思議なもので、星野源さんが素敵なエッセイを書いてもエッセイだし、自分が初めてのエッセイを書いてもエッセイである。エッセイはエッセイ。逆から読んだらイセッエ。何万人もの前で歌を歌っている星野源さんが書いてもエッセイはエッセイだし、ぱちぱちとお詫びのメールや怒りのメールを書いている自分が書いてもエッセイはエッセイである。仕事相手、とっとと進捗連絡して来いや。

自分は「普通」であることに焦りを覚えている。焦っているくせに、何かを始めてはプロにならずに趣味として終わる。ベットの下に転がってるウクレレだって、封も開けずに放置してあるタロットカードだって、枕元にあるゲームだって、時々よそ事をしている仕事だって、趣味や普通。「普通」を継続することが難しいことは知っている。病原菌が蔓延し、普通に仕事も趣味も続けることが難しい人たちがいることを知っている。「普通」を続けられる環境に、人々に、感謝し、できるだけお礼を返そうともしている。

だけども、大学生の時の成績が万年2位で笑っちゃったように、一度でいいから何かに突き抜けたいと思う。その何かはきっと、スターとか、人気者とか、高見の世界という日本語なのだろうけど。その何かをずっと探している。

この「エッセイ」も星野源さんに近づきたいだけの欲で、衝動で書いているにすぎないのだけど。自分は文字を打つのが好きだし、発表するのも好きだ。ということはつまり、「何か」になるための手段を見つけたのかもしれない。素敵なエッセイを書く星野源さんが書いても「エッセイ」だし、星野源さんにあこがれる自分が書いても「エッセイ」それならもう、このエッセイを書き上げた段階で、自分は何かを突き抜けちゃったりなんかしちゃったりして。

なんてね。

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熱量高めのエッセイを続々更新予定です。お仕事の依頼はなんでも受けます。なんでも書きます。ただただ誠実に書く、それだけをモットーに筆を執ります。それはそれとしてパソコンが壊れかけなので新しいパソコンが欲しい。