大阪中之島美術館へ、本物のタローマンに会いに行った
なんだこれは
…………僕はなぜ、ここにいるのだろう?
大阪中之島美術館、という位置情報には覚えがある。今は「展覧会 岡本太郎」が開催中であると、あの『TAROMAN 岡本太郎式特撮活劇』本放送の短いCMパートで宣伝していた場所だ。
少しずつ思い出してきた。はじめは大阪に用事がある家族が「ついでに同行しないか」と僕に誘いかけてきた。
僕は一度は断った。別に全員参加の家族旅行じゃないし、そもそも鳥取でさえ件の新型感染症の何度目かの流行で大変なのに、より都会の大阪へ行ってもらってきたりこちらから潜伏していた病原体をうつしたりするかもしれない危険の中で、例え日本橋オタロードへ遊びに行ったとしても面白くない。
むろん、それが常識というものだ。
だけど下の記事を見せられてから、気がつくと僕は早朝の高速バスに乗り、ここまで来た。
〝袖振り合うも他生の縁、躓く石も縁の端くれ〟
奇しくも令和のヒーローが、祭りだ祭りだと囃し立てながらそんなことを言っていたっけ。
そう、タロウならぬタローマンだ。僕は彼に呼ばれてここに来た。
…………彼はどこにいるのだろう。
みんなでうたおう! タローマンのうた
タローマンは気軽な観光のようなお遊びを許さない。
文字通り看板ネコの「SHIP'S CAT (Muse)」(ヤノベケンジ,2021)のある玄関から入るとそこは2階だった。そのまま入場時間になり待機列に並ぶ。
すでに開場から数十分で長蛇の列になっている。階下で前日から大盛況のタローマンまつりも、きっと同じに違いない。
だが僕にはわかる。タローマンは僕をただ行列に並ばせるためにここへ呼んだのではない。倉吉円形劇場の海洋堂製フィギュアでしか岡本太郎を知らない僕に、本物の岡本太郎作品を見せてくれるのだ。
そしてその後で残りの滞在時間を限界まで、物販やタローマンまつりの行列に費やせばいいのだ。
事前に調べた情報どおり、展示はほとんどが写真撮影可能。リュックサックはロッカーに収納済み。
雨天かと思われたが嘘のような晴れ間に、作品保護のためのクーラーが涼しかった。
天の光は
僕はふだん絵画を見る目は基底材に塗られた塗料の厚み(つまり手を加えた量)くらいしかわからないのだが、そんなにベタベタと絵の具の層がわかるほどには塗っていないみたいだな……という印象が残った。特に晩年の筆を走らせるままに描いたような作品は、むしろ塗料のカスレ具合が味のようだ(自分が近くに寄って見た一部だけで、例外はあるかもしれないと予防線を張っておく)。
結局は阿部サダヲ(音声ガイド)の声に導かれるまま、会場を出た。再入場は不可。
白状すれば2フロアにおよぶ人の列を逆走してまで最初から見返す決心がつかなかった。といって、これらの作品をすべて写真に納めて満足、などと虫のいいことは言えない。
今回の感想を詩人っぽく言えば「岡本太郎という超新星爆発の光線が僕の目に届いた瞬間だった」、ということになる。
もう何十年も昔に亡くなった人なのに、今も輝き続け、調査研究され、こうして多くの人々の目に触れている。
近づくと火傷どころではすまない、まるでおほしさまのようなひと、というほかに例えようのない人物だったのだということが、作品の伝える歴史からにじみ上がってくる。
それでいて、岡本太郎も時には不安を抱き悩めるひとりの人間だったのだという証言もある。だから不思議なのだ。
何事にも真面目すぎた僕は、自分の意思と無関係に自分の外側──自分がいなくても回る他者の社会──で「らいがくんってこういうキャラだよね」と表象を決め付けられ、むしろそちらこそが本質なのだと思われることが大嫌いだった。
その他者に対しても同じ振る舞いをする自分の事は棚に上げ、もっと剥き身の、ほんとうの自分を見てほしくて、それでいてことばや衣装や化粧などで自分の姿かたちを上塗りしていった結果、さらに誤解を深めていったのもまた事実だった。
だが、岡本太郎は最期まで「岡本太郎」という他者表象(昔の岡田斗司夫ふうに言えば岡本太郎ex)を時に受け入れ、時に対決し、全存在、本質存在としてやり抜いた。
そこに照れや躊躇いがもしあれば一発ドカンと花火を打ち上げただけで終わっていただろう。だがそうではなかった。岡本太郎は岡本太郎であり、岡本太郎であり続けた人だ。それが宇宙まで飛び散るエネルギーの爆発、というものか。
だからきっと、僕はそこまでやる岡本太郎がこわくなって外へ出た。群れるイワシのような僕にはそれで精いっぱいだった。
未知のものから遠ざかり安全圏へ向かって離れていく本能と、もっと意味を知り取り入れたいと惹かれていく理性。そのふたつが岡本太郎の作品と向き合うことで眠っていた本来の力を一時的に開放する。それがここでは「元気をもらう」の正体なのだ。
5階の売店は買い物カゴがなくなるほど人が集まり、僕も下調べで計算した予算を一回りオーバー。だが倉吉では買えなかった岡本太郎グッズや本を入手できた。本当に来て良かった。
特に「ぬいぐるみ 午後の日」は目玉が空洞でないから家に置いてもほどよいユルさに皆がダマされてくれそうだと思ったのだが、暗がりで見るとやっぱり怖かった。
5,500円のポリストーン製「午後の日」が、売店で通りすがる僕を泣きも笑いもせず只じっと見ていた……
そんなにタローマンが好きになったのか、子供達
会場では食べればどことなく優雅そうなコラボメニューのチラシも見たが、昼飯をとる間もなく1階へ降りる。
いた……
タローマンだ。
誰もがカメラを向けて写真を撮っている。集団がいなくなる気配は一向になく、時折子供達が家族にツーショット写真を撮ってもらおうと裏に回る(タローマンに近づくのは実際にオッケー)。
すでにバッジを付けて臨戦態勢の僕はひるむことなく舞台の横で機会を伺い、周囲の写真撮影を中断させてタローマンの横に並んだ!!
あれ…………タローマン、でかくね?
僕の自撮りがでたらめ、ではなくへたくそなのでわかりづらいが、ほぼ174cm程度の僕より頭ひとつ高いので180cm近くあるのかもしれない。
それよりも衆人環視のプレッシャーに圧され僕は逃げる。タローマンはいったい何日これに耐えているのやら。
タローマンまつりの行列は疲れた足に重く響くが、途中のイスに座ってしまうとなんとなく列の割り込みを疑われそうな気がして我慢をした。
係の人が小冊子「タローマン大ずかん」を配ってくれたり、列の終わりでは小さなテレビでタローマン本編が流れていた(子供がマジに見入ってしまっていて先へ進むよう親が叱る一幕を目撃した)ので退屈はしなかった。
スクリーンの大画面で全10話+ツイッターで話題になった「ファミコン版タローマン」の上映を見るのはなんだか別の意味で凄まじいエネルギーを感じるのだが、そろそろ滞在時間を気にし始めた僕はそれに驚いてもいられなかった。
すごい、タローマンって本当にあったんだ……。
僕は事ここに至っても、触れるほどの距離にある「実物」に信じられないと感嘆する。
いや、明らかに無から出ているはずの番組の企画書云々はこの際関係ない。タローマンパンの幟についたシミ、CBGヘルメットの埃と劣化したプラスチックの色、何もかもにつけられた「1971-1972年頃」という年代表記……。
この番組は本気で架空の歴史をこの現実世界に生み出そうとしている。そしてその思惑にかかわらず、この会場にいるけして少なくない数のひとがこの番組を受け入れ、楽しみ、自分の人生の一部として──もはや当たり前にあるものとして──インプットしている。
「タローマン大ずかん」と展覧会 岡本太郎の実物を見比べて「タローマンに出てきた!」と叫び、逆に岡本太郎の実写映像に「誰この人?」と禁句を発してしまう子供達を目の当たりにして、僕は改めてタローマンという作品が広めた事の重大さを思い知るのだが…………僕とてこの番組なくして大阪までは来なかったのだから、同じ穴の狢だ。
タローマン見たさに、とうとうここまで足を運んだ。この奇縁に導かれし旅の果てに、僕は大人から子供へパスされるミームのバトンリレーを目撃した。
太陽の塔、大阪万博、岡本太郎というさまざまな触媒を通して人から人へ、昭和と令和というふたつの時代にパスが通される。
いまや〝時を超え愛される巨人〟タローマンは実在する。もちろんその虚栄的なかたちは本編ではあっけなく裏切られてしまうけれど、もう「タローマンは知る人ぞ知るカルト的人気の作品」という番組初期の枠組みを飛び越えていることは、この二日間で証明されたのではないか。
僕にとってそれは愉快なのだ。何かのコピーしか、どこかで見たようなものしか作りようがないと言われる現代にあって、またひとつフィクションの持つ現世と外世の交わる瞬間の爆発力をまじまじと見せつけられた。
〝令和の奇祭〟とすでに呼ばれているこのタローマンまつりに実際呪めいたものがかかっているとするならば、それは裏返せば希望の種をまく魔法の呪文、であったはずだ。この不確かでなにかを悲観してしまう時代に、正義も悪も絶句するベラボーな花を咲かせるための。
弾丸はあるべきところに帰る
最後に並ぼうとした山口一郎タローマンコレクションの列は、やはりどうしても皆が写真を撮るので流れが悪く、時間がかかりそうだったので諦めて「TAROMANと私」全尺版の方を見た。
個人的には大人になった北村少年の未公開シーンが(ほんの少しだけ)あったことに驚きだったのだが、それ以上に山口一郎さんの本業に絡んだ少しマジメっぽいトークの節々に出てくるタローマンのエピソードトーク(未公開を含む)に脳が溶かされ、話がろくすっぽ頭に入らなかった……。いずれ地上波で放送されれば絶対に録画するのだが。
最初に言った通り、タローマン以外には目もくれず帰路に着く。しかし不慣れな電車移動で家族との合流に思いのほか手間取り超焦ったのは、また別の話。
いずれにせよ最初から家族の協力と心遣いがなければ成り立たない旅だった。感謝の念は厚く伝えておく。
日が沈み、また米子での一日が始まる。現実に帰る。次の旅にこころを遊ばせるために。
そして次の旅まで備えよう。感染対策は厳重に。
(終)
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