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何者か、という人生の途中式 〜「少年とリング屋」感想

 TAJIRI(2023)『少年とリング屋』イースト・プレス.を読んで特に印象に残ったのは、第四話「全然満足していません」で浮気性の男・太一が小さな女子プロレスのエース・真萌瑠まもるに一目惚れをして段々と厄介者になっていく過程のドラマだ。

 華やかな世界で輝く儚げな美少女、その若く瑞々しい人生に分け入ろうとするオトナの危うい欲望、そうして「スゲえやつ」になろうとするオトコの野望。そのストレートな刺激が心に突き刺さった。

 ハレの日に演出された恋の駆け引きを楽しみながら、しかし女子プロレスラーの背後にある大人の事情にはいっさい思い至らないところが腹立たしくもあり、けれど門外漢が「自分だけが特別扱いされた」という勘違いからしだいに犯罪行為へエスカレートしていくところをこうして見ていくと、障子一枚ほどもない「あっち」と「こっち」の差を思い知る。
 その恐るるべき思考回路を太一の「一般ファン」という周囲に対する呼びかたで言い当てているところが、TAJIRIさんの筆致とその力を感じ取れて面白い。

 話を読み進めていくと、登場する人物の数と相関図がさほど複雑ではないので「この人とあの人がここで交わって、どうなったか」を頭の中でパズルのようにして読み解くことがしやすかった。
 全体は三人称視点の群像劇として描きつつ、第三話「かっこいい女」だけは太一の妻・琴絵の二人称によるインタビュー形式になっていることが、続く話で太一がその記事の載ったタウン誌を(見もせず)破り捨てるシーンにつながっていて、元はと言えば自室にプロレス雑誌を溜め込んでいた少年・翔悟という投石が生んだ波紋を見るようで興味深い。

 私事で恐縮ながら、書く。本作が幾度となく問いかける「何者か」という問いに、僕も一度正面からぶつかった経験がある。

 学校では蔑まれ、成績も年々落ちぶれ、みじめでしかなかったが自宅のパソコンでインターネットに触れ、華やかな知性と芸術と無責任な承認の情報雲クラウドに魂を浴した。ニコニコ動画で何万人という再生回数を背に胸を張ったこともある。

 文化祭のたび、メイド服の女装コスプレをしてステージに立った日のことは今でも栄光と考えている。周りのクラスメイトは「文化祭じゃない日も女装して登校してくればいいんじゃないか」と囃し立てた。僕もそれを話半分に聞きながら、自分がもしもそんな人物になればそれはきっと「何者か」になれた時なのだと夢想していた。ただ漠然と。

 けれど夢は夢のまま僕は何もしなかった。そもそも僕のコスプレは誰かを楽しませるものでなく自分の「美しい女性の姿に近付けば誰もがうらやむ『何者か』でいられるかもしれない」という願望の産物でしかなく、またその理想の達成と維持のための努力に関心はなかった。

 そのようにして無軌道に某専門学校を中退・某人材育成センターを卒業してから働くまでの「空白期間」に僕は心身ともに苦しんだ。

 日がな一日パソコンを叩いて過ごしているだけの僕はいったいなんなのか。世に言う「実家の太さ」──それが真実どんなに太いのか細いのかさえ僕は知らない──に甘んじて、生きながら家族を不幸にしているだけなのではないか。「就職してほしいが過労で心を壊してほしくはない」家族の生暖かい視線と優しさに堪えられず、朝も夜もなく家の外へ飛び出しては、どこにも行き場がない──この世に果てはなく、帰れる居場所は家だけだ──ことに絶望していた。

 そんな僕が働き口を見つけられたのは、2020年からここ3,4年で。スマホ(特にツイッター)を夜間に隔絶して朝型のリズムを整える生活を自分に課したことと、メンタルクリニックで正式に発達障害と鬱の診断書を受けて就労移行支援事業所で地道に求職することだった。

 10代の頃は人間関係の複雑さ(それはスキかキライかの二元論だったかもしれないけど)がとにかく苦手だったが、ただ黙々と日々の業務に従事することで公に出す自分と私に秘める自分の仮面を使い分け、仕事と職場の人に一定の距離感で接しながら無理のない社会生活を送ることができた。あまり人それぞれのプライバシーに干渉しない時代のおかげもあったかもしれない。

 こうして就職して半年が過ぎた今でも、自分が「何者かになれた」とは僕は思わない。むしろ未だに「ネット小説でひとつ当てたい」「プロレスゲームでYouTubeに興行動画シリーズを打ちたい」「筋トレとスキンケアをしてもう一度女装コスプレしたい」────そんな「何者か」になる夢は尽きることがない。

 逆に言うと、そんな「何者か」になった瞬間が自分にとってのゴールで、それからも人生が続いていくことに実感が無いのかもしれない。それとも「何者か」になるための闘いに、負けるかもしれないと悟った気で逃げてしまっているのか。

「少年とリング屋」は、世のサクセスストーリーが描くほど人生は甘くはなく、挫折も衰えも受け入れながら今この時を生きていく人々の柔軟さを教えてくれると同時に、何もしないでただ「何者か」になりたがる人よりも、そんな「何者か」にたった一度でもなろうとして、それ以外のものを投げ打つ覚悟で決断をした人の情熱を伝えてくれる。

 僕も少しだけ肩の力を抜いて、今この時を懸命に生きぬいてみたい。

(終)

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