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創作の悪魔(と、その「倒し方」)

4月6日夕方、僕は渋谷で行われていた歓迎会を1時間半で抜け出した。歓迎の機会はまたあるから許して欲しい、と言って。足早に向かったのは新横浜。アイスショウを観るために渋谷の街を急ぎ駆け抜け電車に乗ったのは、観られるタイミングと、観たい気持ちと、観たらどうなるのかという不安まじりのワクワクがあったからだ。

アイスショウを見るのは5度目。
しかし今回が特別なのは、本当は見るはずのなかったものだということ。
それでも当日券がある!という僥倖の情報を得て、いてもたってもいられなくなったのは、いまの心境が大きく影響していた。

正直、この1ヶ月とすこし、「心ここにあらず」だった。
何度か書いたからもうしつこいかも知れないけれど、
テレビ制作者史上最も過酷で大変な番組を作っていた。
そんなくるしさは、しかし番組が生放送だったこともあり、放送された途端、急に解放された。
でも、それは本当の意味での「解放」とはならなかった。

普段、どれだけ大変でも僕は自分が心の底からやりたいものしかやらないから、どれだけ仕事が重なっていようと、1つ1つに「別の仕事」という感覚はなく、「自分がやりたいこと」という1つの仕事の現場から現場へ、次から次へとジャンプして渡り歩くような気分でできていた。最大で8つまで被ったことはあった、でもOK。けれども、その史上最も過酷な仕事だけは、大恩人からの依頼で受けた、いわば「義務」である。時間がないため心の底からのやりたさを見つけ出すいとまもなく、スタッフたちにも無茶をお願いしながら、ひたすら駆け抜けるしかなかった。いつもはどれもつながる1つの仕事と捉えているから、階段を登っていくような(途中段階の)達成感があるのだけど、本当にその仕事はプツリと終わってしまって、そしてごまかしていた疲労がドッと来て、しばらく何も手が付かない状態となっていた。

―――こういう時は、何か「作品」を見るに限る。いまの自分の状態がポッカリと穴が空いた状態なのか、それともカラカラに乾いた状態なのか、分からないくらいヘトヘトだったけど、埋めてくれるものか潤してくれるものは、幸い、コンテンツあふれる現代、世間に山ほどある。だから僕は貪るように、映画やドラマを見、漫画を読んだ。
・・・実は、その辛すぎる仕事、時間が無さすぎる仕事の中でも、1つだけ、生存のために見た「作品」があった。それが、「GIFT」だ。

https://note.com/no_answer_butq/n/n50d20a4d9245

作品を見るのは、僕の場合、自分も作りたい!という意欲を盛り立ててもらうため、という即物的な必要に基づいていることが多い。もっと純粋に「見るだけ」「楽しむだけ」になれたらいいと思う時もあるのだけれど(子どもと一緒に見にいく映画などからもエネルギーを吸収しようとしてしまうのは、本当に悪い癖だと思っている/もっとただ子どもと一緒に楽しめばいいのに)、でも、映像や文章を「作る」という仕事を選んでしまったため、「作り手」の同業者として作品を作る人を見てしまい、分析的に見てしまう。そしてそこから「何か」を得ようとしてしまう。特に、「作りたい」ものではない、「作らざるをえなくて作っている」ものに関わって疲弊していた僕は、作品のエネルギーを渇望していた。「作りたくて作った」もののエネルギーをだ。

GIFTは、そんな僕の穴なのか渇きなのかを埋めてあまりある、潤してあまりある、圧倒的な、圧倒的なショウだった。
それは、生で見た時もそうだったが、映像で見た時も変わらなかった。
つらすぎる仕事を終えて、天の配剤で配信延長(このあとの特別編の公開も楽しみで仕方ない)された映像を見た時、度肝を抜かれた。その計算し尽くされた演出に。カメラワークも、照明も、音響も、すべてが制作総指揮を肩書きとする主人公のタクトのままに導かれている。映像を見て、興奮冷めやらず、書いた。

で、見た後にどうなったか。
まだ、「つくる」ところに戻れずにいた。「GIFT」から十二分にエネルギーは受け取ったはずなのに、なぜか。
それは、まだ詳しくは言えない(公にできるようになったら必ずお知らせします)けれど、この「次」の仕事と、「次」の「次」の仕事、、そしてさらにその「次」の仕事の3つが、いずれも僕にとって、「ここを掴めるかどうか」がこの先の人生を左右する、大事な仕事が立て続いてやってきたからだ。

一番やるのが苦しかった仕事のあとに、
一番やりたくてたまらない仕事が、しかも3つも続けて来て、
その急な「ギャップ」に、僕は眩暈のような感覚になって、
GIFTからもらった最高のエネルギーを無駄遣いもしたくなくて、
「足踏み」をしてしまっていた。

そもそも、「つくる」ことは難しい。常に、つくるだけでは完結せず、
「届ける」ことが伴うから。

https://twitter.com/noanswerbutq/status/1641795243950616581?s=20


ぼくの場合、評価基準を自分の「外」に2つ持っている時は楽だ。
2つとは、「相対評価」と「絶対評価(数字)」。
視聴率(絶対評価)が悪くても、作った時のプロデューサーの評価や、
観てくださった方のSNSでの評価(たくさんのものを並行して観ているという点で相対評価としよう)が良かった場合、心がなぐさめられる。この人たちのためにも次も頑張ろう、と思える。
逆ならもっと気が楽になる。誰になんと言われようが、ヒットしたんだからいいじゃないか、というやつだ。勝てば官軍の世界。

でも、ほんとうは気づいている。その両者はいずれも、「周りの評価」という点では似ていることを。誰になんと言ってもらおうと、どんな評価を頂こうと、そうした「外」の評価とは違う、厳然として存在してしまう「内」側の評価があることを。周りの評価とは違う、目を背けてしまいがちな評価。―――自己評価だ。

プロフェッショナルとは何か?
あの番組に準えてもし訊ねられたとすれば、こう答える。

ーーーーーー「自己評価のモノサシがブレない人」ーーーーーー

誰が「そこまでしなくても」と許そうとしてくれても、
「ここまでやらなければ自分が許さない」人。

誰に「もういい加減にしろよ」と怒られても、
「ここに達せない自分に怒りを覚える」人。

はたまた誰から「え?これでおしまい?」と驚かれても、
「これ以上はやらないと一線を引ける」人。

相対評価も絶対評価も下されるけれど、
それより何より、自己評価を重んじる人だ。

自分に厳しい、と言えば確かにそうだと思う。
けれど実はそんなにカッコいいものではなく、もっと怖いものだ。
ひとたび内側に潜り込むと、外、周りが見えなくなる。
心の声とばかり対話するようになる。
「コレデイイノ?」
―――もう限界だよ。
「デモコレデイイノ?」
―――わかったよ、やるよ。
という具合だ。

GIFTで貰ったエネルギーを無駄遣いしたくない、という吝嗇なマインドになった僕は、他の「作品」からとりあえず動き出すためのエネルギーを得ようとした。だが、そこで見た2本の映画が、これまた受け取るエネルギーがとてつもな過ぎるものだった。

1本目は「フェイブルマンズ」。

「スティーブン・スピルバーグの自伝的映画」と聞いて想像する、
天才のサクセスストーリーでも、今だから明かす秘話でも無い。
そうも受け止められるように最高の読後感を用意してあるのが
この監督の恐ろしさでもあるけれど、同じ(あえて同じ、という。おこがましくても)「映像の作り手」としてこの作品を見て、受け取った最大のメッセージは、

「簡単に手を出していいものではない」

ということだ。
作品を見た方が良いので詳述はしないが、スピルバーグが、サム・フェイブルマンという少年に仮託して体験させるのは、「カメラを持つことの残虐さ」。自分が進んだ道は、その道を選ぶと、もう後戻りはできない修羅の道だった、という物語。フェイブルマン少年は、最初の最初はカメラで撮ることは楽しいだけだったのに、だんだんそれが修羅の道になっていく。

―――これはまさに、羽生さんがGIFTで伝えたテーマと同じだ。
作品を作り出すこと、創作には、楽しさや充実感をもたらしてくれる「天使」だけでなく、つらく、苦しく、周りの他人も、そして何より自分を苦しめてしまう、「悪魔」がいる。

別の作品も見よう、と見た「次」の作品もなんの因果か、そんな「創作の悪魔」を扱う作品だった。

僕がこの十年で見た映画の中で最も好きな「スリー・ビルボード」の監督、マーティン・マクドナーが監督した「イニシェリン島の精霊」。
(なお、GIFTを見た皆様、Disney+で配信されているので観られます。
非常にキツい作品ですが、観ていただくと僕が何を伝えようとしているのか、より伝わるかも知れません)

この作品、ネタバレにならないように書くのは難しいのだけどなんとか心がけて書くとすると、物語は、主人公のパードリックが長年の飲み友達だったコルムに突然絶交を言い渡されるところから始まる。主人公は理由を聞こうとするが、絶交=話しかけることも絶対ダメ、と決めたコルムは、主人公がなんの気なしに話しかけた途端に、とんでもない凄惨な手段に出る・・・という物語。その凄惨ぶりについては是非本作を観ていただきたいが、この物語を見て僕が「あてられて」しまったのは、コルムの絶交の理由が、あっさりと、身も蓋もないかたちで明かされることだった。

(この絶交の理由は映画開始10数分で明かされるので、「謎」ではないのだけど、もし本当にネタバレを避けたい人はこのあと、☆☆☆で挟んだところだけは薄目で読み飛ばして欲しい)

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コルムが主人公パードリックと絶交したのは、2つの理由。
ひとつは、パードリックが「つまらない」男だから。
もう1つは、そんなつまらない男と交流している無駄な時間を避けて、
「芸術」に集中したいから。
人生の限られた時間を、何も生み出さない酒場の時間に費やすのは無駄であり、だから友情を絶ち、好きな音楽、作曲に専念したい。
このあとコルムが取る行動はとんでもなくやりすぎで、なんとパードリックが話しかける度に「指を切る」と宣言するのだが、僕も、そこまではいかずとも、同じように、関係をクローズしていく方向のことを考えてしまったことはある。
くだらない飲み会や、親族の行事などをやめて、ただ作品だけを作ることに集中したい、と。
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「フェイブルマンズ」と「イニシェリン島の精霊」を見て、
また悩んでしまった。こういう残酷な決断をしなければ、
本当に作りたい作品というものは作れないのか。
それはやっぱりとんでもないエネルギーが必要だ・・・

と、ここまでが今日の車中までの心境。
もちろん、notte stellataをライブ中継で見たりもしていたのだけど、
生でもらうエネルギーとはどうしても違う。

新横浜に向かう道すがら、僕はこのショウ、「スターズオンアイス」の舞台横浜アリーナを、砂漠の旅人がかけこむオアシスのような気分で目指していた。

・・・しかし。会場に入って、すこし驚いた。
これまで見てきた4回のショウとは、明らかに違うことがある。
(この先は有料にすることをまた許して欲しい)

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