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小ホラ 第41話

薄紫色の女


 重く垂れ込めた雲からぽつぽつと雨粒が落ちてきて電車の扉にいくつもの線を引き始めた。
 エアコンが入っているにもかかわらず効きが悪くて蒸し暑い。
 のどが渇き、立ちっぱなしの足の指が引きつり出した。
 もうすぐ駅に到着する。
 あと少しの辛抱だと祐明は自分に言い聞かせた。
 かんかんかんと警報機の音が近づいてきた。
 駅近くの踏切の音だ。
 祐明はほっとし、すでにびしょぬれになった雨の滴る窓を眺めた。
 踏切を通過する時、薄紫色のワンピースを着た女が遮断機の前に立っているのが見えた。ふと気になったのは傘を差していなかったからだ。
 せっかくおしゃれしているのに雨に降られて――
 以前、おしゃれをしてショッピングに出かけた妻の奈美子と娘の晴海が土砂降りに合い、ずぶ濡れで帰ってきたことを思い出す。迎えに行かず呑気にテレビを見ていた祐明は奈美子だけでなく、まだ小学三年生の晴海からもこっぴどく叱られたことまで思い出し、苦笑を浮かべた。
 ホームに到着した途端、さらに雨足が強くなった。駅から自宅まで徒歩で十五分ほどかかる。
 この雨じゃ、スーツどころか下着にまで染み込んできそうだ。小降りになるのを待つか――
 祐明はそう考えながら、他の乗客とともにホームに降りて跨線橋の階段を上る。
 駆け足で下りてくる人の群れを避けて上っていると人々の間に薄紫色の肩がちらりと見えた。
 さっき踏切にいた女性?
 同じ色だったのでそう思ったものの、あの踏切から今ここにたどり着くのは女性の脚では至難の業だ。
 不可能ではないが、あの位置で踏切を待っていたということは駅の反対方角へ行くはずだから違うだろう。わけあって戻ってきたのかもしれないが、それよりもよく似た色の別人だと考えるほうが自然だ。
 そんなことを思いつつ振り返ってじっと見ていたが、ホームに下り分散していく人々の中に薄紫色の姿はない。
 死角に隠れたまま、すでに電車に乗り込んだのか。
 祐明は首をひねったが、それ以上は興味をなくし、跨線橋を渡った後、今度は改札に向かって階段を下った。
 足早に追い抜いていく若い男の肩がぶつかる。
「あ、すんません」
「いえいえ」
 詫びに返しながら祐明が顔を上げると離れていく男の向こう側に薄紫色がちらっと見えた。また死角で全身が見えず、彼と他の客の隙間から薄紫色の肩だけが見えている。
 なんで毎回全体が見えないんだ? なんかイライラするな――
 こう何度も遭遇すると尾行されてるんじゃないかと勘繰ってしまう。
 だが、自分は尾行されるような人間ではないし、通り過ぎているのだから尾行でもない。
 これはいったいどういうことだ?
 考え込みながら、IC乗車券で改札を通り抜ける。
 前から歩いて来る男の後ろに、またも薄紫色の肩が見え隠れしていた。
 よし、今度こそ。
 祐明は足を止めて男を待ち、通り過ぎる男の背後を確かめた。
 だが、薄紫色の女どころか誰もいない。
 ああ、これは見てはいけないものだったんだ――
 思い起こせば、踏切に立っていた女の顔は滲んだようにぼやけていた。なのになぜか目が合った気がした。
 ふと気になったのは、傘を差していなかったからではなかったのだ。
 祐明は家まで憑いて来られないように、薄紫の女のことは考えないようにした。無心で構内のあちこちをぶらつき、人の向こう側に薄紫を見ないよう視線にも注意し、必死で憑き物を落とそうとした。
 どんっと肩に衝撃があり、
「痛えな、おっさんっ」
 と、ガタイの良い若者に肩をつかまれた。
 視線を曖昧にしていたので気を付けていたが、とうとう人にぶつかってしまった。しかもたちの悪そうな男だ。
 だが、それが憑きものを落としたのか、頭の中がすっきり晴れたように祐明は感じた。
 若者の背後やこちらを見ながら通り過ぎていく人々の死角に恐る恐る視線を向けても、もう薄紫色は見えない。
「ありがとう、ありがとう。ほんとにありがとう」
 見えなくなったことが嬉しくて、つい感謝の言葉が出た。それに面食らったのか、若者は「ちっ」と舌打ちして去っていく。
 やっと帰宅の途につける。
 祐明はほっと息を吐き出口を目指した。
 雨のせいで出入口付近は人々でごった返している。
 その中に奈美子の横顔が混じっていた。
 おっ、迎えに来てくれたんだな――
「奈美――」
 手を上げかけたが、薄紫色の肩が見えて、その手を途中で止めた。
 奈美子の死角に見えたのではない。彼女のTシャツが薄紫色なのだ。
 あんな色のTシャツ持ってたか?
 禍々しい色をまとった奈美子が祐明に気づき、手を振って近づいてくる。「迎えに来たよ」と、滲んだようにぼやけた顔をぐにゃっと歪めた。
 その瞬間、駅構内の喧騒が消え、耳元でギギギィィィッと電車のブレーキ音が響いた。

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