「Sea Lane - Connecting to the Islands 航路―島々への接続」に行った記。
小ぶりだけれど勢いのついた雨が降っていた、はず。
金沢を訪れたのは3月の18日、もう5日も前になるので、しょうみまったく覚えていない。
この日のことを思い出そうとしたけれど、21世紀美術館の看板を撮った写真を見るまで天気さえまるで思い出せなかった。
そうたしか、バス停から美術館までがすこし距離があって、小雨ていどなら走り抜けたけど雨脚は強くすぐに濡れてしまいそだったから折りたたみ傘を開いた。
バスに乗る前はまだ降っていなかったような気がする。降りる時をめがけて降り始めたかのようでなかったか。
たびたび金沢に訪れているけれども、いつもこんなふうだ。「不機嫌な天気」とわたしは呼んでいる。
いまにも雨か雪になりそうな、といってどす黒く力を秘めた暗雲が立ち込めているわけでもなくてむしろ光をたたえてまだらになった雲が高みに横たわっていて、不穏な灰色に包まれている。
いつ気まぐれを起こしそうか不安になる。気まぐれは誰のものなのか。不機嫌なのは誰なのか。
そんなこんなでなんとかかんとか着いたのが金沢21世紀美術館。「フェミニズムズ展」以来だった。見たのは「Sea Lane - Connecting to the Islands 航路―島々への接続」。後半は単にタイトルの邦訳で補っているだけなのか、副題なのか微妙だ。
ロゴの水面の残影のような溶けたフォントが美しい。
ポスターデザインにあしらわれている、点々とランダムに並んだ作家の名前は洋上に浮かぶ島々をイメージしているのだろう。今展覧会はオセアニア〜東南アジア、沖縄の作家や当地を取材した作品を集めて、太平洋西部地域の現代アートのコレクションのようになっている。のみならず、作品は海を渡ることや金沢という内陸の地から海の向こう側へ思いを巡らすように、地理的な海を介在させる想像力へコンセプトをあてた作品がテーマに取り上げられている。
フェミニズムズ展よりもなんかずっとひとが多かったように思うな。そちらがテーマ的にとっつきにくかったのもあるかもしれないし、時節柄いまではコロナ禍での移動制限や心理的な障壁がほとんど失せているから、観光地はどこもそんなものかもしれない。つけ加えるなら、なんとなくだが家族連れやカップルが目についたように思う。
今週どこかの記事でも触れたけど、そうした多くの客足が押し寄せた結果、館内は非常に混雑していて、彼らの話し声や衣擦れの音、靴音、人間が生きる上で発している音が、コンクリートの床にひびいて、それらが展示室の入り口で一同に反響して、こぽこぽと水音のようになっていた。それも趣向のひとつだったのかもしれない。作家が、作家が思い描いた作品のなかの世界がすぐそばで聴いていたように、わたしたちもまた水音のなかにいた。
わたしはミヤギフトシさんの作品が好きで、彼を知ったきっかけである「American Boyfriend」シリーズに連なる映像作品「How Many Nights」がかかっていたけれど、記憶の中のそのシリーズのものとだいぶ異なる趣向だったので驚いた。
例えば「物語るには明るい部屋が必要で」という作品は、半生をとつおいつ、素朴に話している人物を真正面から映さず、風景や音楽に目配せしながら彼のいる/いた環境と合わせて、下手な表現だがパッケージングして作品化している、「語る」ことそのものをメタ的に捉えた映像連作だったが、今回はシングルチャンネルの37分超の長編映像作品だ。そして同じく女性のひとり語り――誰かにあてて書いている手紙の朗読のようだ――を背景に、彼女がいると思われる場所をランダムに映してゆく映像が流れていたが、今回のは定点観測というより点景に近い。描写を絞ることで象徴性、抽象性を高め、フィクションの精度を上げていると思った。つまり今作は特に物語らしい。花や岬、洋上、室内。それぞれのうつろいゆく様をありのままに捉えた映像は、それ自体リリカルで情感に訴えかける。自然、マテリアルの声が聞こえてくるようなのだ。
ここでも海が何度もあらわれる。海のむこうに思いを馳せる、憧憬や望郷といったものではなくて、暗く重たく、蠕動しているような波間の映像は崩れることのない壁のようだった。今作は独立した物語なのかと思ったけれども、海で隔てられているだけで実はやはり繋がっている、同じ「American Boyfriend」の話ということなのかな。
展示室2「民族と土地の歴史」にある4名の作家の作品はどれもよかった。民族の技術、民芸の手法を転用して描かれた絵や織物は、一作家の作品というよりはその大地が生んだ芸術で、それがその土地のプロフィールを語りかけてくる。言わば、手法ひとつ取り上げても、汎用可能なものでもなければ反対に作家や土地に固有なものでもない。手法自体が土地を語り、語るための歴史を持ち、また語るための文法それ自体である。特にジュディ・ワトソン「グレートアーテジアン盆地の泉、湾(泉、水)」を見てそう感じた。深い水色と藍が層をなして染めこまれた地に書き込まれた土地の名前と地形。島があって人間がいて、土地に名前をつける、そのはるか前に海がまずあって、逆はない。わたしたちはいまもなお海の上にいる。
わたしがもっとも感激したのが展示室3のザイ・クーニンの作品群だった。ペインティングのひとつで、キャンバスではなく一枚の大きな紙に、ワンテーマの、シンボルのような図案のようなモチーフをひとつ描く。画材は鉛筆、墨、そして朱砂。とても素朴だ。
「殺戮」は船のような盆のような、輪郭線だけの帽子を逆さにしたかたちのうえに、投げ込まれているかのように浮き上がって人間たちが積み上げられている絵だった。その人間たちは顔がなく、服も着ておらず、また四肢のむきもそれぞれに自在で変形している。動物のようでもあるが、その姿形には表情も躍動感もなく、無理なかたちを否応なく取らされているのだと思った。すでに命はないのかもしれない。個々の人間から命や顔を取り上げてなお、彼らが人間だとわかってしまう記号の暴力のような絵だ。そしてかれらは、生命の色であり、大地の色でもある濃い赤色の輪郭線で描かれている。
恐ろしかった。
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