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喫茶店のうるさい人たち

ソロ活動が基本のわたしなので大体どこに行くにも1人だ。わたしは聴覚過敏傾向がある気がするし、話し相手がいないので、人の話す声が“気になる”にとどまらず異常に耳障りな時がある。

今日は左隣の老人軍団のおしゃべりと、右隣の若い男子の虚勢がうるさかった。ボリュームだけなら老人軍団が勝つが、耳障りだったのは男の方だった。

彼女とのデートでいいところを見せたいのだろう。コーヒーについてやたらこだわりを語っているが、ブルーマウンテンを知らなかった。これ、すごい高いね、ブルーマウンテンって、有名なのかな。だって。

ブルーマウンテンも知らずにコーヒーを語るなんて。わたしはコーヒーは酸味が強くなければオッケーという味オンチだが、ブルーマウンテンは知ってるぞ。ジャコウネコの糞から出てくるすんごい高いコーヒーも知ってるぞ。という謎のマウントを無言で取りました。名前は思い出せなかった。


昔からこういうくだらない虚勢を張る人が馬鹿馬鹿しくて嫌いだ。呆れる。くだらない。なのにイライラする。なんというか、父親を思い出すのだ。自分の弱さもミスも認められず、キレてその場から逃げ出す父親を。


会社にも同じような男がいて心底嫌悪していた。誰でも知っているようなことをさも長年の努力で発見した難しいことかのように話す男。自慢げでもイライラしただろうが、自己肯定感の低さからくるであろう淡々と、だが承認欲求が隠しきれない独特の湿度と粘度の高い話し方をする男から、中身も何の発見もない話を聞くのもなかなかにイラついた。
心の底から時間の無駄だと思っていた。

こういうイライラ製造マシンを面白がれたら人生どれだけ楽しめるだろうか。出会った中では圧倒的に若い男が多かったが、中にはマウンティングおばさんもいた。
こういった類の人が大概見た目に無頓着で清潔感のない太った人ばかりなのはなんでなのでしょうか?なんでこういう人が醸成されてしまうのでしょうか?誰か教えて。

できないならできない、わからないならわからないって言えばいいのに。知らないことは恥ずかしいことじゃないのに。できないことはあって当たり前なのに。誰に何のためにカッコつけなきゃいけないんでしょうか。

今、整理しきれないので書かないが、こういうしょうもない輩に苛ついてしまうのも、結局どこか幼少期の嫌なことに繋がっているからなのだと思う。


隣の男は声がでかい。指輪を膝掛けにカンカン打ちつけている。声もうるさいし行動もうるさい。なんだこいつ。何かの鼻に抜ける香りについて語っているが、彼女のリアクションは薄い。目を瞑れば男の独り言かと思うくらい、彼女の声は場に合わせて控えめだ。

綺麗なメイクが可愛い彼女と、伸びかけの髭が小汚い彼氏。彼女、この男の何がいいの?もっといい男、いるんじゃない?などと内心思っているわたし。どっちもどっち。


ケーキとコーヒーを注文し、もう少し味わいたくてコーヒーをお代わりした。両隣がいなくなってようやく、この店にクラシックミュージックがかかっていたことがわかった。食器を洗うカチャカチャという音が気持ちいい。
そうだよ、コーヒーってちょっと静かに味わうもんだよ。やっと、求めていた時間が来た気がする。


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