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歴史読書記録、歴史メモ

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#平安時代

日本仏像史メモ(木彫像)

日本仏像史メモ(木彫像)

※勉強のためのメモにつき不完全。『日本仏像史』美術出版社を参照

奈良時代8世紀後半

仏像の製作技法に変化。カヤ・ヒノキを用いた木彫の出現
天平勝宝6年の鑑真渡来にともなう、新たな唐の影響によるものと考えられる。唐製の檀像(インドで最高の造物材料として尊重される白檀を用いた木彫像)との密接な関係
白檀の代用材としてカヤが使用された 60-61ページ参照

平安時代前期             仏

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歴史的事象に関するメモ(随時追記)

歴史的事象に関するメモ(随時追記)

転載・流用禁止

【縄文時代】
・縄文時代とは、土器の出現から灌漑水田稲作が開始されるまでの日本列島域において、狩猟採集漁労を主な生業とし、本格的な定住生活を始めた人々が残した文化群の総称。この時期を指す。p8
・「戦争」を「集団間による激しい争い」と定義するのであれば、東日本の中期以降のように人口が集中し定住性の強い地域には「戦争」があった可能性がある。p21
・縄文時代・文化は戦後の新しい歴史

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疑問ストック(大学の勉強用)

疑問ストック(大学の勉強用)

戦場における「氏文よみ」
「源平合戦期までの戦場では、自らの出自を名乗るのが戦いの作法であったが、そこでは先祖以来の武勲が高らかに誇示されていた。」
『中世史講義』ちくま新書、p17

この部分、『保元物語』の引用を言及しているが、あくまでも物語の世界の話であって、本当に名乗りを上げていたのか?

戦いの作法はどこに書いてある?

樋口健太郎『九条兼実』戎光祥出版、2018年

・摂関家は院政が開始された後も国家の最高意思決定に関与。
・平清盛の一族は、清盛以前から朝廷に仕え、五位の位階を保持していた。武芸や軍事を専門とする軍事貴族。
・摂関家では、藤原道長以来、摂関とは別に、引退した前摂関が「大殿」と称して家の実権を持つことが多かった。清盛は後白河の院宣によって、この「大殿」の地位についたと考えられる。
・清盛が摂関家の家長であったとすれば、娘を入内させて天皇の外戚にな

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元木泰雄『源義経』吉川弘文館、2007年

・義経が平氏追討から除外された理由→伊賀・伊勢で平氏の大規模反乱が発生。治安維持に忙殺されたため。検非違使補任もこれと関係すると考えられる。p91
・瀬戸内海の制海権を失った平氏に対し、鎌倉側は降伏の交渉を行うことも可能であった。しかし、義経は平氏の討伐を優先した。飢饉に苦しむ京を救うため戦争の早期集結を図った。また、平氏側も決戦に挑む姿勢を見せた。p119
・壇ノ浦合戦は義経と畿内・西国の武士が

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元木泰雄『武士の成立』吉川弘文館、1994年

・奈良時代、律令制下では指揮官にも官僚制の原則が適用。武士は武芸に優れた一般官人を指していた。しかし、政争の激化に伴い専門的な軍事知識が必要となり、坂上氏のような武門も現れた。p9
・平安時代になり、武芸を家風として軍事的な官職を歴任する一族を軍事官僚と称する。p12 しかし、後の軍事貴族とは異なり、未だ兵の家という性格が十分に確立されていなかった。一族から文官を排出したり世襲したりする。p13

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