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七十二候にまつわるエッセイ

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季節の小分類である七十二候をきっかけにしたエッセイを、ほぼ毎週週末に更新しています。
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#エッセイ

第四十四候 鶺鴒鳴(せきれいなく)

今年の京都は夏が長い。いっときふと涼しくなったかと思ったが、また、夏顔負けの日々が帰って…

第四十二候 禾乃登(こくものすなわちみのる)

晩夏の風、百舌、再会に着想した詩、3首。 風薙ぎに草葉も陰も目を細め穂波を眺みついつしか…

第四十一候 天地始粛(てんちはじめてさむし)

天地始粛(てんちはじめてさむし)。静粛の粛には、静まる、弱まるという語義があるそうだ。ま…

第四十候 綿柎開(わたのはなしべひらく)

今年はじめて、京都五山送り火の点火を見た。小さな赤い灯が滔々(とうとう)と明かるい大の字…

第三十八候 寒蝉鳴(ひぐらしなく)

蝉の寿命は短い。 短い? それでは私たちはどうなのか。 わたしは、ひとのいのちも夏のかげ…

第三十七候 涼風至(すずかぜいたる)

立秋を過ぎた。まだまだ暑いが、それでも朝晩には秋の香りを仄かに感ずる。 育てている植物た…

第三十五候 土潤溽暑(つちうるおうてむしあつし)

夏はその生命の溌剌(はつらつ)さの中に、どこか死を匂わせる、と誰かが言っていた。 この印象を聞くのは初めてではない。前にまた、別の人からもそう聞いた。 夏は、その暑さに草木も匂い立ち、草熱れ(くさいきれ)を起こす。入道雲がくっきりとした輪郭を持ち、空に立つ。蝉が、この世の限りとばかり声を張り上げる。新芽が至る所に芽吹きいで、ぐんぐんと枝葉を伸ばしていく。 生きるということ、生まれるということを強く感じさせる。そのことが、表裏一体である死をもまた意識させる。 2、3日経

第三十四候 桐始結花(きりはじめてはなをむすぶ)

大きな蝉の声で目が覚めた。 昔から、意図的でない大きな音が苦手で、車や電車の音が近くで聞…

第三十三候 鷹乃学習(たかすなわちわざをならう)

暑い。暑くて、外に出ると体力気力が失くなっていく。太陽の強さに、いつもより日月(じつげつ…

第三十二候 蓮始開(はすはじめてひらく)

若葉の柔らかさを、優しい友の手のように感じる。早朝、蓮が花開くこの候、増し土をしたフィカ…

第三十候 半夏生(はんげしょうず)

「そう考えると、死ぬということも、キノコがまた菌糸に戻るように、「ひとつ」に戻っていくこ…

第二十九候 菖蒲華(あやめはなさく)

最近、増し土をした若木の枝先から新芽が出てきた。植え替えや増し土、なんとか夏に間に合って…

第二十八候 乃東枯(なつかれくさかるる)

夏至。一年の中で最も昼が長く夜が短い日。夏の短夜、夜が短くなるにつれて、人の睡眠時間も短…

第二十六候 腐草為螢(くされたるくさほたるとなる)

演奏表現とはいったいなんだろうかと、大学の頃からずっと思う。いま、入梅となり、夏の香がする。今度ある演奏で久石譲さんのsummerを弾くとき、どうすれば夏の香を、夏のひかりを込められるだろうか。 思いを演奏に反映させる、ということが、具体的にどういうことなのか、どういう作用機序なのかは、まだほとんど分からない。でも、どうすれば感情を演奏にたくさん載せることができるのかは、経験則として少しわかる。表現したい感情をよく見つめ、その質を掘り下げて理解することは、必要な要素のひとつ