西村二架

精神保健福祉士、文筆家、講師。主な関心領域は「死、孤独への恐れに人はどう対処しているの…

西村二架

精神保健福祉士、文筆家、講師。主な関心領域は「死、孤独への恐れに人はどう対処しているのか。楽器/チェロ、ギター。下鴨ロンド/哲学読書会、生きるためのファンタジー読書会、休む人のためのカフェ、自分の本をつくる会。09/08文学フリマ大阪参加(写真撮影:渡邉耕希)

マガジン

  • 七十二候にまつわるエッセイ

    季節の小分類である七十二候をきっかけにしたエッセイを、ほぼ毎週週末に更新しています。

  • 詩、散文

    短歌を中心に、詩や散文を挙げています。

  • 記録

    日々の活動などの記録です。

  • 夢だと思ってください

    現実と空想の境のような小説です。なかなか更新できないかもしれません。

最近の記事

  • 固定された記事

“休む人のためのカフェ”の紹介記事が公開されました。

昨年から、関西を中心に活動している「任意団体あわひ」さんの活動に参加させてもらっています。 あわひでは「社会に間の選択肢を創り、 一人ひとりの心に、ゆとりと安心を届ける」をテーマに、ラジオやカフェ、畑などの活動をされており、今回、カフェの活動についてまとめた記事が公開されました。私は、京都担当としてご紹介いただいてます。(ちなみに、代表の方と私の苗字がたまたま同じなのですが、代表は西村征輝さんという方です) ちなみに、あわひのラジオ「あいだの生き方ラジオ」の第44回にもお

    • 第三十二候 蓮始開(はすはじめてひらく)

      若葉の柔らかさを、優しい友の手のように感じる。早朝、蓮が花開くこの候、増し土をしたフィカスも元気に青葉を繁らせている。その葉に軽く触れていると、ふと、気持ちのやりとりが仄かに閃くように感ずる。遠くでなくとも、木霊(こだま)は聴こえるのかもしれない。 少し前、小暑に入り、暑中となった。合歓(ねむ)の木が、薄桃色の刷毛のようなふわふわした花を咲かせる。綺羅めく瑠璃色をした大瑠璃(オオルリ)が、人には聞きなすことのできない、高く澄んだ声で話す。空に筆を滑らすように飛ぶ燕が、二度目

      • 第三十候 半夏生(はんげしょうず)

        「そう考えると、死ぬということも、キノコがまた菌糸に戻るように、「ひとつ」に戻っていくことかもしれない。ただ、この「ひとつ」の概念というのが難しくて、ひとつであるんだけれども、なんて言うのかな……。ちょっとまだこの辺が上手に表現しきれないです」* 梨木香歩さんの『やがて満ちてくる光の』を読んでいて印象的な一節があった。死ぬことを「ひとつ」に戻っていくと捉えながらも、輪廻の枠組みを取らないそれは、おそらく私にとって親近感ある死の理解に近い。 また、『終末期がん患者のスピリチ

        • 第二十九候 菖蒲華(あやめはなさく)

          最近、増し土をした若木の枝先から新芽が出てきた。植え替えや増し土、なんとか夏に間に合ってよかった。暖かくなって、光が出て、植物たちは嬉しそうにしている。人間たちは、夏越の祓え(なごしのはらえ)やらなにやら、これから来る夏を乗り越えようと準備している。とはいえ、その前にこの梅雨を乗り越えなければならない。湿度が高いのも、濡れるのもあんまり好きではない。けれど、植物たちが元気なのはいいなと思う。人の憂いと関わらず、葉は萌芽してくれる。黄色いお腹を膨らませて黄鶲(きびたき)は鳴く。

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        記事

          第二十八候 乃東枯(なつかれくさかるる)

          夏至。一年の中で最も昼が長く夜が短い日。夏の短夜、夜が短くなるにつれて、人の睡眠時間も短くなりがちらしい。私自身、最近は夜の時間が惜しく、眠るのが遅くなっている。 眠れないとき、たまに、軽井沢の定点カメラの映像を見ている。お昼間に撮影されたニホンリスやヤマガラなどが、食事や会話、休息のためにカメラの前に立ち寄るのが愛らしい。 こんなふうに、ふと立ち寄り、なんとはなし仄かに共に過ごしては去っていく、心地のよい場所がたくさんあってほしい。彼ら彼女らにも、わたしたちにも。 参

          第二十八候 乃東枯(なつかれくさかるる)

          第二十六候 腐草為螢(くされたるくさほたるとなる)

          演奏表現とはいったいなんだろうかと、大学の頃からずっと思う。いま、入梅となり、夏の香がする。今度ある演奏で久石譲さんのsummerを弾くとき、どうすれば夏の香を、夏のひかりを込められるだろうか。 思いを演奏に反映させる、ということが、具体的にどういうことなのか、どういう作用機序なのかは、まだほとんど分からない。でも、どうすれば感情を演奏にたくさん載せることができるのかは、経験則として少しわかる。表現したい感情をよく見つめ、その質を掘り下げて理解することは、必要な要素のひとつ

          第二十六候 腐草為螢(くされたるくさほたるとなる)

          第二十五候 蟷螂生(かまきりしょうず)

          今年は梅雨の気配が遅いような気がする。紫陽花(あじさい)が好きな身としては、外でゆっくり花を楽しむことができて嬉しい。 梅の実が熟す時期である梅雨には、蟷螂や蛍たちが草の間に、花の間に現れる。他の虫たちも盛んになり、暑くなり、雨が降り、良いことばかりでもない初夏が来る。 夏は、暑いので苦手だ。でも、その暑さの元である陽のひかりは、緑を際立たせてうつくしい。いつか、「夏の陽の緑に浮かぶ木々を見て」と上の句詠んだことを思い出す。 陽光、紫陽花、蟷螂、蛍、それぞれがどこか、私

          第二十五候 蟷螂生(かまきりしょうず)

          第二十四候 麦秋至(むぎのときいたる)

          真鴨は春に北へ帰る。 遠く姿を遥(はる)かせる。 どこへ帰るか。 どこに帰り、どこに居るか。 何を見、何を思って暮らすか。 遠く独り*で、私は決められるだろうか。 軽鴨は春に北に帰らない。 近く姿を悠(はる)かせる。 *独り:「そうだ、僕はずっと、ずっと、ずっと、「独り」だった。そのことが体の隅々まで冷たい液体が流れてゆくように僕を満たした。静かだった」梨木香歩『沼地のある森を抜けて』96/100%地点 ーーーーー 第二十四候 麦秋至(むぎのときいたる) 5

          第二十四候 麦秋至(むぎのときいたる)

          第二十二候 蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)

          麦の穂が実り、小さく満ちる。卵から孵った蚕が桑を食む。世界が在り、自分がまだ死んでいないということを思う。 以前、読書会で「友人と深い部分で痛みを分かち合え、お互いの欠けがえの無さを想ったとき、もう死んでもいいと思ったことがある。今でも、音楽を心から愉しめたとき、同じ心地がする」と語ったことがあった。それに対して「生きていけるじゃなくて、死んでもいいなんですね」と応答してもらったことがある。 わたしは自分が死んでいないということを、世界がまだわたしを生かしていると解釈して

          第二十二候 蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)

          第二十一候 竹笋生(たけのこしょうず)

          立夏も末候となり、青葉の耀(かがや)く季節。植物たちの元気さに気押されるような心地もする。先日お庭掃除をしたときも、新しい芽や葉、花を見やりながら、そんなことを感じた。 京都でも葵祭が執り行われ、新緑、開花、祭と、少し騒がしいくらいに思う。けれどどれも、小さい子の朗らかさのようにも思う。 明るいものに鬱陶しさや煩わしさを初めて感じたのはいつだっただろうか。記憶にある限りでは、幼稚園児の頃だったような気がする。運動会か何か、そういったハレの日で、私は「ハレの日に求められる仕

          第二十一候 竹笋生(たけのこしょうず)

          初夏の風物を詠んだ詩、2首。

          ふと見(まみ)ゆ夏の翠(みどり)に掬われる木苺のようにあなたを見る 詞書:初夏の緑の色は豊かに感じられる。木苺を見つければ仄かに心明るむ。そんな心を、日常の風物に照らしていく。 中空の洞(ほら)を虚しむこの身もて 空木(うつぎ)から身を包(くる)み出す卯の花を 詞書:私たちは虚しい。それでも且つ花を結ぶ。精神性に根ざす花を。空木からふくらみ出る卯の花のように。

          初夏の風物を詠んだ詩、2首。

          第二十候 蚯蚓出(みみずいずる)

          初夏の風物を詠んだ詩、2首。 ふと見(まみ)ゆ夏の翠(みどり)に掬われる木苺のようにあなたを見る 詞書:初夏の緑の色は豊かに感じられる。木苺を見つければ仄かに心明るむ。そんな心を、日常の風物に照らしていく。 中空の洞(ほら)を虚しむこの身もて 空木(うつぎ)から身を包(くる)み出す卯の花を 詞書:私たちは虚しい。それでも且つ花を結ぶ。精神性に根ざす花を。空木からふくらみ出る卯の花のように。 ーーーーー 第二十候 蚯蚓出(みみずいずる) 5月10日〜5月14日頃 陽光に

          第二十候 蚯蚓出(みみずいずる)

          第十八候 牡丹華(ぼたんはなさく)

          夏の足音が聞こえてきた。先日、『贈与論 資本主義を突き抜けるための哲学』第2回の読書会を終えて、世界観再構築における愛の自覚、受容の自覚ということを考えた。 心身が生きることを可能にする、愛されているという自覚を人は何から得るのか。それは自己からではなく、他者からである。人は他者を代理として(他者を通して)自らを愛することができる。ただし他者を、生きている人間にしてしまっては、不安定性が高く危険でもある。 そうすると現れるのが、神や仏といった揺るがぬ超越者による代理である

          第十八候 牡丹華(ぼたんはなさく)

          春を契機に浮かんだ詩3首

          ふと見ゆるひとのやさしさ明日葉のごと 詞書:ふと出逢う、ひとのやさしさに救われる。そんなことが、明日葉のように今日も明日もあればいい。あらゆる人のもとに。 今出逢いかつて出逢いし君の影 忘れな草に記憶のひかり春霞 詞書:死をもって全て終わりに思うべきだろうか。君の面影は忘れようと思って忘るるものでもない。おぼろな霞の中に漂うように、あなたのくれた眼差しのひかりは時の中を響き続けている。 祈りとは存在のくすみの緩和薬あらいやすりに抗するやすり 詞書:(過去の詩作から)。水か

          春を契機に浮かんだ詩3首

          第十七候 霜止出苗(しもやんでなえいずる)

          先日、青木海青子さんの『不完全な司書』を読んでいて、目の留まった文章があった。それは、本という窓を通して、また、図書館を営んでいる古民家を通して、死者と生者がともにある感覚がする、といった表現だった。 私は季節の風物に対して、同じような感覚がある。この七十二候をきっかけとしたエッセイを書いてみようと思ったのも、生きる時代は違っても全ての人が、四季を、季節をともに観ていることを書き表したいと思ったからだ。 わたしはずっと、時折この身を貫く孤の感覚と、彼岸への憧憬ともに生きて

          第十七候 霜止出苗(しもやんでなえいずる)

          第十六候 葭始生(あしはじめてしょうず)

          春を契機に浮かんだ詩、3首。 ふと見ゆるひとのやさしさ明日葉のごと 詞書:ふと出逢う、ひとのやさしさに救われる。そんなことが、明日葉のように今日も明日もあればいい。あらゆる人のもとに。 今出逢いかつて出逢いし君の影 忘れな草に記憶のひかり春霞 詞書:死をもって全て終わりに思うべきだろうか。君の面影は忘れようと思って忘るるものでもない。おぼろな霞の中に漂うように、あなたのくれた眼差しのひかりは時の中を響き続けている。 祈りとは存在のくすみの緩和薬あらいやすりに抗するや

          第十六候 葭始生(あしはじめてしょうず)