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『ウィトゲンシュタイン入門』1章〜2章_第6回哲学読書会

11月初旬、『ウィトゲンシュタイン入門』を扱う読書会を行った。今回の範囲は1〜2章。

参加者は7名。前期ウィトゲンシュタインの写像論、論理形式の話がメインだった。

ウィトゲンシュタインの哲学的自我

まず初めに、ウィトゲンシュタインが言及する「哲学的自我」という概念が話題となった。

ウィトゲンシュタインが言及した哲学的自我は、「すでに意味に満ちた世界に対して、私の存在を持って一挙に実質(それが実現するための素材)を賦与することによって、形式としての世界を現実のこの世界(=私の世界)として存在させる主体」であると本書では述べられている。

それに対置する形で、「超越論的(先験的)主観」という自我の概念も取り扱われる。超越論的(先験的)主観は、「素材としての世界に意味を賦与することによって世界を意味的に構成する主観」である。

この二者の違いは、自我の主体性にある。前者は、意味に満ちた世界が先に存在し、私が顕れることによって非意図的に実質が賦与される。後者は、素材としての世界に、私が意味を賦与する。ここには、常に人間を主体と見てきた西洋哲学への批判も含まれているように思われる。

対話の中では、社会構築主義やポスト構築主義といった概念も提起されながら、「私が世界に意味を与える」とは、「意味としての世界に私が顕れる」とは、といった論点が話された。そこから語り進んで「言語で世界を捉えている、とは(言語が世界と論理形式、写像形式を共有しているとは)」といった対話も発生した。

言語の限界が世界の限界となる

その後、話題は言語の限界に移る。

五・六 私の言語の限界は私の世界の限界を意味する。

ウィトゲンシュタイン

私たちは言語によって世界を捉えている、とウィトゲンシュタインは言う。いや、言語のみが世界と写像形式を共有している故に、言語のみが世界の事象を表しうると述べる。そして、その写像関係それ自体は言語では捉えられない(語りえない)。

言語の限界が世界の限界であるという主張について、対話の中で「今まで意識していなかった他者からの支えに気づいたとき、世界が変わるような感覚がある」という発言があった。これは「言語で表しうる事象の発見により、世界の様相が変更された」と捉えられるだろうか。

ウィトゲンシュタインは「幸福な人の世界は不幸な人の世界とは別の世界である」と述べる。また、ウィトゲンシュタインの独我論において、「他者とは、自分とは別の意味付与を行なう別の主体のことではなく、この世界とは別の限界を持った別の世界のことでなければならない」と述べる。

(論を拡大することにウィトゲンシュタインは賛同しないかもしれないが)わたしたちは、それぞれ世界に対して異なる認識を持つ。それは意図的にそうしているというよりは、「自らが理解し、扱うことができる範囲の言語認識」によって世界限界が設定されていると言えるのではないだろうか。独我論とも合わせて考えると、「私」は、形式に過ぎないこの世界空間に対して、世界と形式を共有することができる言語を持って「私の世界」を築いている。また、読書会の対話の中で述べられた通り、言語認識(言葉でどのように世界を捉えるか)は可変であり、個々人に属するものである。それ故、私の言語の限界は私の世界の限界を意味すると言え、幸福な人の世界は不幸な人の世界とは別の世界であると言えるのであろう。

私にはこの論が、希望ある世界解釈のように見える。なぜなら、人間には無限に思える語りうることの獲得や再解釈を用いて、世界限界もまた、拡張・再解釈していくことができるからだ。このことは「語りえぬこと」に主眼を置くウィトゲンシュタインにとって副次的なものだろう。しかし、この世界解釈の可能性は、死や孤独、生きづらさによる苦悩の再解釈にも開かれていると私には思われる。読書会で参加者のみんなと話す中で、私自身が『ウィトゲンシュタイン入門』に惹かれた理由のひとつを思い出すことができた。

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