果物屋の先生

 時計は二時半を指している。きれいに晴れた空と白い石で舗装された道との間を歩いていく。
 通りには僕以外には人も猫もいない。さらさら、と緩やかな風に吹かれた葉っぱが、まだらの影を揺らしている。
 ずっと歩いていくと、赤いポストのある曲がり角があって、その手前に果物屋がある。お日様の光を浴びているような人が、ベンチに座って機嫌よさげに雑草をくるくると弄んでいた。確かではないが見覚えのありそうな姿に、この人が店主だと思った。
「せんせー、こんにちは」
 僕が呼びかけると、顔を向ける。そうだ、こんな顔の人だった。猫背になった背中をぐっと伸ばして、持っていた小さな花のついた草を地面に落とす。
「んー、君かあ。久しぶりやなあ」
「久しぶりでしょうか。そうかもしれないですね。せんせー、何だか楽しそうです」
「私はもうここでは先生とちゃうんやけど、まあええか。ほら、お日さんが気持ちいいやろ」
 うなずいた僕は髪を耳にかけて、道の方を振り返ってみた。明るく光っている。
「ほんで、今日は何が欲しいんえ?」
「レモンバクダンありますか」
 僕の欲しいものを聞いた先生は、ワッハッハと笑って立ち上がった。立ち止まったままの僕と果物の置いた棚の間をぬるりと通り抜けて店の中に入っていく。棚には僕の知らないものがいっぱい並んでいる。
「今度は檸檬爆弾か。食べんのやったらもったいないからやめとき。見たことあるん」
「ないです。でも、レモンイエローって言うから黄色いのでしょう?」
「そうやな。チカチカ眩しい黄色やったり、ちょっと緑色の混じったやつもあるんやけど。大きさはこれくらい」
 僕の方を振り返った先生は楕円の形を手で作って見せた。一つ持ったところで僕の片手はいっぱいになるだろう。
「ありますか?」
「今日はない。あすこの本屋に持っていくつもりやったんか」
「違います。食べてみたかった」
 少しだけがっかりして、先生がさっき座っていたベンチに座った。通りにはやはり誰もいない。僕が来るときはいつも人がいないのはなぜなのだろう。
 先生は愉快そうな表情を浮かべたまま、店の中にまた入っていく。奥に何かを探しに行っているのだろうが、先生はそのまま遠い声で話し続けた。そういえば、先生の声ってこんな音だったような気がする。きちんと覚えておかなければ。
「檸檬はなあ、えらい酸いじょ。そりゃもう梅干くらい。いや、それよりやな」
「僕、酸っぱいの好きです」
 薄暗い店の中にも聞こえるように、いつもより声を張る。軽く笑ったような声色で先生は続ける。
「今度入ってきたら置いとくからそん時な。かわりに文旦あるけんこれで我慢し。こっちの方が美味しいわ。食べて行くやろ」
「良いですか」
「もちろんええよぉ。ちょっと待っとってな」
 文旦は知っている。あれはおばあちゃんがよくおやつにくれた。僕は先生が落としていった花をじいっと見ることにした。青くてちょっと黄色と白の混じっている花が緑の細い茎からぴょこぴょこ飛び出している。
 小さなナイフと使い古された丸いお盆を持って再び現れた先生は、台にいくつか乗っている文旦を見定めた。それから、いちばん大きくて薄黄色の皮がてかてかときれいなものを手に取ると、また店の外に出てきて僕の隣に腰を下ろした。僕たちの間に置かれたお盆の上で、大きなボールの分厚い表面にすすす、とナイフで切り込みを入れている。爽やかな柑橘の香りが溢れ出た。
「前に来たときは、蜜柑……じゃない、柘榴探しとったな」
「はい。ガーネットと同じ色でした」
「石と同じ名前なのに食べれるものがあるって言うなら食べたい、ってほん時も言よったなあ」
 果物を剥いている先生の手は、宝石を磨く人の手のようだから好きだ。僕はまたうなずいただけで、黙ってその様子を見ていた。取られた白いわたがもくもくしてお盆の端で小さな山を作る。
「オウトウって知っとるか」
 僕が首を振ると先生は、それも今度見てごらん、と言う。
「君は色々みたがるやろ。私のお勧め。ほれもくだもんやから、欲しいなったらおいで」
「どんな字を書くんですか」
「桜の桃。すぐ終わるわ。君は早いからな。ほら、ぼうっと見とらんで食べない」
 切った皮をお皿にして、向いた実をならべてあるものを小指でちょいと指す。
「ありがとうございます」
 お礼を言って、ひと房摘んで口に放り込む。冷たくて美味しい。
「きらきらして、きれいで、美味しいです」
「ちょうど食べ頃やろ。私には君の方がきらきらして見えるよ」
 僕ににっこりと笑って見せる。
 そういえば、先生のこの顔を覚えていようと思うけれど、なぜか家に帰ってしまうと忘れていて思い出せない。ぷちぷちと小さな粒が弾けるのを口の中に感じながら先生を見る。
「私の顔になんか付いとうで? 粒が飛んだかいな」
 布巾で手を拭いて、頬のあたりを探っている。僕は首を横に振った。
「僕、せんせーの顔が覚えられないんです。せんせーの顔はこれでしょう。それは知ってるんですけど」
 先生は剥きかけの実を手にして、筋を取り、また皮の皿に乗せる。そして剥いた薄皮に残った粒を器用に取って食べた。最後の一粒だった。
 先生は口をもぞもぞさせてから、今度は気の毒そうな笑顔を見せる。
「そりゃ大変ななあ。たまにそういう人もおるって言うのを聞いたことがあるけど、何かあるんやろう」
「僕、声も覚えてられないみたいで。せんせーが喋るのを聞いたらこれがそうだって分かるんですけど」
「私は君のことよう覚えとんのにね。奇妙なこともあるもんやわ」
「どうしてでしょうか」
「さあねえ」
 そう言うと話はこれで終いと言うように、先生はナイフを片付けに立ち上がった。
「ほれ食べたら帰りよ。あんま長いこと居ったら遅刻するじょ」
「はい。遅刻はいやです」
 先生は振り返ると目を細めて僕のいる外を見て、
「そうやろな」
 と言ってまた笑った。

  ☆

 学校についてから、先生の顔を思い出そうと躍起になっていた。全くどんな顔だったか、やはり思い出せない。笑うのが印象的なことくらいで、情報に乏しい。
 今日は曇りで、そのせいで気分も塞ぎそうになる。昨日の席替えで教卓の真前になったのも憂鬱を膨らませる。こっそり隠れて本を読むことができなくなってしまった。
 ペンケースの中に一際目立つ黄色をしたシャープペンシル。テーマパークに行った友達がくれた。
「檸檬爆弾」
 ペンをとって教科書の上において呟いてみる。このまま学校の建物だけ吹っ飛んで、みんな無傷で、今日の授業が全部なくなってしまえば良いのに。
「物騒なこと言うね」
 ちょうど教室に入ってきた先生が独り言を聞いていたらしい。こんな顔だったろうか。
「……おはようございます」
「おはよう。梶井基次郎を読んだのか。今日は何を読むつもりだったんだ?」
 先生は出席簿を開きながら聞いてきた。始業のチャイムまで雑談するつもりなのだ。本当は喋るのはちょっと苦手だが、黙って過ごすという選択肢はない。そういえば、先生の喋り方ってこんな感じだった気がする。
「えっと、桜桃です」
「果物シリーズか。この前は芥川の蜜柑も読んでなかったか?」
 先生というのは案外、生徒が何をしてるのかよく見えているものなんだなと口元が引きつる思いだ。スカートのプリーツを整えるふりをして下を向いた。
「はい……」
「俺の授業は迷惑かけない分ならいいけど、他の先生の時には内職はやめておきなさいよ」
 驚いて顔を上げるといつも通り無表情な先生がいて、変なメロディが今日の始まりを押し付けた。
 

(習作)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?