中編ミステリ『脳髄の檻に眠るのは誰』第5話
Climbing Up the Walls
「詩歩?」
俯いたまま不気味に笑う詩歩に、衿来が不安げな声を恐る恐るかけた。
隣で赤眼を瞬かせていた朔楽も、身悶えるように面長の捜査員に抗っていた橘華も、超然たる警部補までもが各々の随意的な動きを止め、表情の窺い知れぬ詩歩を、息を潜めて見守った。
やがてゆるゆると面を上げた詩歩は、自分を見る一同の様々に思いの籠った眼差しを、照れ臭そうに手の甲で払い除けながら、
「いや、これは参ったな。あんたらのやり取りがあまりに滑稽なものだから、つい笑みが。ククク」
先程までとは全く異なる、別人のような溌剌とした口調でそう言ったのだ。薄笑いに唇を捻じ曲げながら。
度重なる緊張に、理性が崩壊したのか。誰もが脳裏に過らせたそんな解釈に、当の彼女は取り澄まして言葉を継ぐのだった。
「ああ、こういうときは、早めに自己紹介しておくのが得策というもの。僕は、名を北西と申す者です。北に西と書いて〈ほくさい〉。どうぞお見知り置きを」
ぽかんと口を開け、まだ涙の乾かぬ眼許もそのままに、朔楽がぽつりと、
「詩歩ちゃん、でしょ?」
詩歩のことを良く知る三人は驚きと戸惑いと僅かな恐怖を、警察から出向いた二人は全振りの不審をそれぞれの顔面に貼りつけ、一番大人しかった少女の豹変ぶりに総じて眼を丸くしている。
何故か北西と名乗った詩歩は、解離性同一性障害、いわゆる二重人格だよ、と丁寧かつ素っ気なく応じた。
「一つの人体に別個の人格が宿っている症状だ。症例としては珍しいかもだけど、言葉自体は人口に膾炙しているだろう。僕のケースは正しくは多重人格でなく、妄想性人格障害とでも呼ぶべきところだが」
「何を言っているのです、あなたは」警部補が口を挟んできた。顔つきも語調も怪訝な思いに溢れていた。「今は大事な捜査の最中です。下らないお芝居で我々を揶揄うのはやめてください」
「下らないだって? 僕に言わせれば警部補さん、あんたのほざく大事な捜査とやらのほうが、よっぽど下らないんだがな。無実の人間を加害者に貶める。これより下らない犯罪捜査が他にあるか」
「何ですと? 面白いことをおっしゃいますね。あなたは、こちらの佐藤橘華さんが無実だとでも?」
「無実も無実、彼女は潔白だ。窓から差し込む曙光の如き、窓を彩るレースのカーテンの如き純白そのもの」
そこで〈北西〉はつと立ち上がり、未だ驚きを隠せないクラスメイトらを順繰りに観察した。
「ああそうか。君ら友人連中も、詩歩が二重人格者だと知らなかったのか。致し方ない。詩歩自身思い至っていなかったのだからな」
「あなた、本当に、詩歩じゃないの」
安定しない口調で衿来が問いかけた。
声質はいつもの詩歩と変わらないが、知的な、あるいは知的ぶった〈北西〉の少年めいた言葉遣いは、確かに彼女本来のものではなくなっている。容姿からも、常日頃の陰影は取り払われ、溢れんばかりの自信が前面に現れ出ていた。
おかげで耳や眼では感じられないその人特有の気配までもが、新たな装いを帯びたかのようだった。局地的にはどことなくだが、全体として見れば確乎たる変化。
さっきまでの彼女とは、決定的に何かが違っていた。
「いかにも。僕は北西であって詩歩ではない。第一、彼女と僕とでは性別が違う。実証は困難だけどな。そうだろう警部補さん。薄気味悪いくらい美形の、性別不明の警部補殿。見当違いの推理をかまして、したり顔の警部補殿」
そう喜色満面で語りかける十代の少女の顔をした〈北西〉に、警部補が獅子奮迅と対峙する。
「何なんです君は。私の聞き込みを邪魔するつもりですか。これ以上つまらない口を利くと、君も公務執行妨害で検挙しかねませんよ」
「面白いことを言う。あなたから君に格下げされたのはさて置くとして、つまらんのはあんたが飽きもせず長々と喋り散らした迷推理のほうだ。橘華嬢を今回の犯行に結びつけることはできない。彼女には、動機の有無など関係なく、摩耶嬢を殺害することは不可能なんだ。その点があんたはまるで判っていない」
「何を訳の判らないことを。君、この子を空いている部屋に連れていきなさい」
捜査員の胸を叩き、警部補は荒々しく言った。
「え、ですが」
「いいから」
「橘華嬢は事件発生の際、家の外で彼氏と一緒にいた」
橘華に指を突きつけ、〈北西〉は先手必勝とばかりに言い切った。命ぜられた捜査員含め、室内の全員を圧倒せんほどの気迫に満ちた声で。
「考えてもみろ。この建物に存在しなかった人間に、どうやって摩耶嬢を刺し殺すことが可能なんだ」
一同の口が、不可抗力によってあんぐりと開かれた。
言い放った張本人だけが、無邪気と呼ぶにはどうにも気障ったらしい、露骨な作り笑いを口許に浮かべてみせた。
「家の外にいた?」思わぬ異説に、警部補はかなり面喰らっていた。「君は、何を、言ってるんですか。家の外にいたなんて、どうしてそんなことが判るんです」
「判らいでか」ここぞとばかりに〈北西〉は、「僕という人格が出てきた以上、凡て真相は明らかにせねばならず、かつまたそうあるべきなのだ。お判りか? 探偵とは、かくあるべきなのだ」
「探偵?」警部補の細眉が段違いに動いた。「君がですか」
「むろんだ。忌々しいのは、詩歩がその手の物語に疎すぎて、引き合いに出せるほどの衒学的トークを持ち合わせていないことだな。灰色の脳細胞辺りは知っているようだが。三毛猫とか。後は神通理気くらいか。偏りがひどい」
「何を言っているんです」
閑話休題、と手を振り、自称探偵は、
「とにかくだ、詩歩は今回のような殺人事件を解明するには気質が消極的すぎ、能力的にも見劣りする。僕の登場があんたらを驚かせたのは申し訳ないが、罪のない人間が的外れな推理で犯人扱いされるのを黙って見ているわけにもいかない。そこだけはご容赦願いたい」
やんわり警部補に釘を刺し、その弁舌が途絶えたところで、あの、と衿来が声を発し、怖々と挙手した。
「衿来嬢、何か」
「あなたの話だと、その、今までの会話全部、あなたが聞いていたように聞こえるんですけど」
奥歯に物が挟まったような物言いだが、当の〈北西〉は毫も気にする素振りがない。
「むろんだ。それが何か」
「その、話を聞いていたのは、あなたじゃなくて、詩歩のほうなんじゃ」
右の耳朶を無意識裡に指で弄びつつ、怯えがちに衿来は言った。
〈北西〉は心得顔で頷いて、
「あんたは僕と詩歩の関係を誤解しているな。僕らは一般に多重人格と聞いて思い起こすような、排他的な同等の関係ではないんだ。故に妄想性人格障害と呼ぶことにした。ジキル博士がハイド氏の人格を認知していたのと同じ具合に、否、もっと直接的に、僕は詩歩と知覚を共有しているんだ。一方的に」
「一方的に」
「そう。詩歩が睡眠等で意識を失っていれば、こうして僕が彼女の躰を支配し、僕自身の言葉で語りかけることができるわけだが、その逆は真に非ず。詩歩が目覚めている状態は、決して僕という人格が眠りに就いていることを意味するのではない。僕は詩歩自身も与り知らぬ意識の深部から、詩歩の身体器官を通して、ちゃんとここでのあんたらの会話を聞いていた。それも、詩歩以上に自覚的に。嘘だと思うなら、一つご清聴いただこう」
型通りの咳払いの後、姿勢を正した〈北西〉は、
「階下での殺人にどちら様も少しも気づかないとは。いやはや、昨晩はえらく熟睡なされていたご様子で」
通りの良い声を室内に響かせた。
主張の足りない警部補の眉が、不快な何かを捉えたようにぴくりと跳ねた。
「他のシーンをご所望か? どの台詞でも再現可能だ。ご心配なく、必ずや捜し出してみせましょう、とか。犯人はこの中にいます、なんてのもあったな。長広舌も朝飯前だ。本日午前六時十五分頃、この増鏡邸に泊まっていた同じ高校の同級生四名のうち、喉の渇きを覚えた山田衿来さんが、二階の寝室を離れ、階段を下りて一階キッチンへ向かったところ……」
「もういい、判りました」
人払いのジェスチャーをしつつ、警部補は苛立ち紛れに叫んだ。
〈北西〉の証言を前に、依然、衿来の表情には困惑が残っていたが、それはかつての詩歩とのギャップに起因するもので、証言そのものへの疑惑ではなかった。
「このように、妄想性の人格障害だと、人格間に歴とした位階、上下関係があったりもするわけだ。反比例の力関係が」
口調を戻し、生徒に向かう教師じみた態度で〈北西〉は続けた。
「詩歩は己の肉体に対する縛りが強い分、覚醒している間は僕の意思と何ら関係なく、自由に身体活動ができる。僕は彼女の上位人格として、彼女の胸中や感じている周囲の世界を体験できる代わりに、彼女が意識を持っていないときしか、こうやって躰を操ることができない。人格同士で対話可能なレアケースも中にはあるようだけど、僕らには無理だ」
「判った、判りました。二重人格だか何だか知りませんが、君の言いたいことはよく判りましたよ。しかしながら、君は相当混乱しているようですね。友人が殺されたとあれば無理もないですが」
警部補は腹蔵だらけの笑顔で言い、幾分フリーズ気味の捜査員を肘で小突くと、声を潜めて、
「ほら、この混乱している彼女を、早く別室で休ませなさい」
その言い様に、〈北西〉は途端に見下したような態度を取ってせせら笑った。
「おやおや、結局のところあんたはこの捜査から僕を外そうというのか。橘華嬢が全くの無実であることは疑いえないのに。僕の推理をいかなる理由もなく却下し、あまつさえ錯乱者扱いとは。これじゃ殺された摩耶嬢も浮かばれないな。無駄死にだ。これにて事件は迷宮入り確定」
「……言ってくれますね」
警部補の様子が一変した。
まず、目まぐるしく変転する状況に最前より唖然とし続けていた橘華の口から、彼氏なる人物の氏名・住所及び電話番号を聞き出し、素早く手帳に書き写すと、そのメモを捜査員に渡し、二つ指示を与えた。巡査部長に出向いてもらい当該人物への聞き込みを行うこと。捜査員自身にはその人物に前もって電話をかけ、取り急ぎ事件当時の橘華のアリバイを確認すること。
捜査員はダッシュで応接室を去り、警部補は眼前の聡明で少年びた少女を指差して言った。
「いいですか。これでもし、彼女のアリバイが証明されなければ、君の戯言には金輪際耳を貸しませんので」
「的確かつ迅速な指示。やればできるじゃないか。警部補の肩書きも伊達じゃないと」
「やかましいですよ」
両者の小競り合いに気を配る余裕もなく、橘華は垂心を失った人形のように上体と長い髪をふらふら揺らした後、背後の椅子にペタリと座り込んだ。また虚脱状態という意味では、衿来や朔楽も例外ではなかった。
捜査員がいなくなったからでもないだろうが、応接室の隅々まで緊迫していた空気は、休憩を言い渡された戦闘部隊の如き弛緩ぶりを見せ始めていた。
「あの住所、ここからだとかなりの距離ですね」
隣室の現場検証は相変わらず他の連中に任せきりで、警部補はふとそんなことを呟いた。
「橘華さん、夕べその付き合っていた男性と、どこで落ち合ったのですか」
尋ねられ、橘華は焦点の明確でない眼をテーブル上の日記帳に泳がせながら、彼の家、とだけ答えた。
「では、ここを発った時刻と相手の家に到着した時刻を教えてください。あとその逆、向こうを離れた時刻とここに戻ってきた時刻も」
咄々と橘華が言うことには、部屋のテレビをつけたまま密かにこの家を後にしたのが深夜一時五十分頃で、彼の家に着いたのが四十分後の二時半。午前五時を過ぎた辺りで彼と別れ、再びここに着いたのは三十分ほど後の、午前五時半だという。
この証言が真実なら、摩耶が殺害されたとき橘華はこの家におらず、凶行は当然不可能となる。
「昨日ここに来たときの時刻は、記憶にないと先程おっしゃっていましたよね。何か都合が良すぎる気もしますが、まあいいでしょう。こういう場合の記憶力は特別ということで」
音もなく玄関側の戸口に現れたスーツ姿の刑事二人が、警部補に軽い会釈をし、そそくさと表玄関の方向へ去っていった。どちらかが指示を承けた巡査部長だろう。
「それはさて置き警部補さん、彼女の移動手段があんたに判るか。徒歩は時間的に不可能、電車が走っている時間でもない。タクシーでも利用したのかな」
「私をからかっているのですか。タクシーを使う必要はありません。彼女は昨日、自転車でここに来たのですから」
「夜半過ぎに彼氏の家へ行くのを考慮した上でな」
「橘華さん、彼のお宅に、どなたかご家族はおられましたか」
わざとらしく〈北西〉を無視し、橘華に更なる質問をぶつける警部補。
彼氏はマンションで独り暮らしのため、普段から家人は不在らしい。
「警部補」
折も折、本日二度目の登場と相成った面長の捜査員が、上司たる逆神警部補に対し、聞き込み先へ電話連絡を入れた旨を告げた。応対に出た橘華の彼氏なる若者は、橘華が本日午前二時半から二時間半もの間、自宅マンションにいたことを証言した。
「確かに時間は一致する。しかし、しかしですよ」
取り敢えずそれだけ聞き出すと、警部補は退屈そうに室内をうろつき始めた〈北西〉のほうへすかさず向き直り、
「橘華さんの証言は、君の自信たっぷりな言説に少しばかり反していますね。現在交際中の彼は、彼女の証言を裏づけたようですが、口裏を合わせた可能性も含め、当時のアリバイとしては弱いと言わざるをえません。傍証が必要です」
〈北西〉も負けてはいない。壁際の戸棚に置かれた写真立てを物珍しげに見上げながら、とぼけた口調で、
「そりゃそうだ。事件当時のアリバイを握造しようだなんて意図は、彼女にはこれっぽっちもなかった。彼女はただ、夜中にこっそり外出した事実を隠蔽したくて、自分の部屋にいたというアリバイをでっち上げたに過ぎない。別に摩耶嬢の殺害嫌疑から逃れるために、この家の外にいたアリバイを作ったわけじゃないんだし。事件に関するアリバイが堅固でないのは自明であり必然。本来なら、敢えて説明するほどのことでもないんだけどな。あんたの考え方は自説に拘泥する頑固者、またはひねくれ者のそれだ」
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