中編ミステリ『脳髄の檻に眠るのは誰』第6話
Bodysnatchers
十数分前までしおらしく着席していた、寡黙で可憐な少女の面影はどこにもなかった。
これが〈北西〉との初顔合わせである点は警部補や捜査員とも共通する〈五人組〉の面々だが、詩歩との付き合いが長い分、気持ちを切り替えるのに並々ならぬ苦戦を強いられているようだった。
〈北西〉の畳みかけに憤慨交じりの咳払いで応え、警部補は毅然として橘華に問いかけた。
「何故に、あなたは警察官の私にまで、あんな見え透いた嘘をついたのです。こちらの友人方も、あなたがその男性と付き合っていることは承知していました。ならば、こそこそ隠れるようにして逢いに行く必要などないでしょう。何故黙っていたのです。夜中に家を抜け出て、彼の所へ向かうことを」
答えたのは、またしても〈北西〉だった。
「警部補さん、あんたは論点がズレている。昨日の夜、摩耶嬢はまだ生きていたんだ。橘華嬢は、他の友達ならまだしも、摩耶嬢にだけはどうしても隠密行動を伝えることができなかった。摩耶嬢の元彼と付き合い始めて以来、彼女との仲はギクシャクしていた。だからなおのこと、橘華嬢は彼女の耳に情報が入るのを恐れた。結果、橘華嬢は誰にも伝えずに出立したんだ」
「となると、夕べ彼女がここに泊まったのは、彼との逢引のための、親御さんか誰かに対する口実でしかなかったわけですか。摩耶さんは体よく利用されただけと」
「それがどうした」非難がましい警部補の意地悪い言葉にも、〈北西〉は顔色一つ変えない。「事件に直接関係ない発言は、差し控えてほしいな。さっきも言ったが、彼女の供述を殺人におけるアリバイ証言と見做すのは全くもって不当。二時半に寝たとする証言が、摩耶嬢の殺害に対し何らアリバイ効果を持っていないことは、あんた自身確かめたはずだ」
「いえ、確かにそうですが、それは」
「彼女が生配信の音声を聞いていたのは、彼氏の家に着くまでの、自転車を漕いでいる間のことだ。運転しながら画面まではチェックできず、芸人コンビの交代劇にも気づかなかった。僕はお笑いに興味ないし心底どうでもいいけど、さて置き彼氏と別れ、ここに帰ってきた橘華嬢はこっそり部屋に戻り、テレビの電源を切って眠りに就いた。起床後間もない彼女が寝不足で疲れて見えたのも、一晩のうちに強行日程を済ませたせいだろう。テレビについて付言するなら、オフタイマー機能でも用いて、部屋にいなくても適当な時刻に電源が落ちるよう細工したのかもしれない。いいか、警部補さん。この家にいたというアリバイ工作は、クラスメイトに対してのみ有効であれば、それで充分だった。ところが、奇しくも本来のアリバイが崩れたおかげで、幸運にも殺人事件についての彼女のアリバイはこの上ない形で立証されたわけだ」
少女の外見をした自称探偵の長たらしい状況説明に、警部補が更に何か言い返そうとしたとき、脇に控えていた捜査員が上司の腕を突ついて、形のいい耳に何事か囁きかけた。警部補の細い眉が、そこだけ生き物じみた動きで持ち上がると、しわぶき一つ立てずにテーブルの日記帳を取り上げ、部下の言に従い頁を繰っていく。
紙を捲る指がふと止まり、開かれた横書きの文面を舐めるように見やった警部補は、険しい形相を浮かべて、
「先程この捜査員が二階でこれを見つけた際、二ヶ月ばかり前の記述を偶然眼に留めた、といいますか、捲る側を上にしたらその頁が勝手に開いたくらい、力強く折られていたらしいのですが、そこにですね、山田衿来さんと、そちらの田中朔楽さんのお二方に対し、摩耶さんが何やら不信感を抱いていたような、そんな描写があったとのことで」
名を告げられた二人は不意に顔を上げたが、直後、申し合わせたように弱々しく俯き、口をギュッと引き結んだ。お互いに一切眼を合わせることなく。
「私もたった今、問題の箇所を確認しました。あなた方の仲が大変よろしいのを揶揄い半分に冷やかしたところ、お二方の態度が妙によそよそしくなったと書かれていますね。単なる冗談以上の意図はなさそうな書きぶりですが、言われた側までそのように受け取るとは限りません」
「やれやれ」
警部補を遮ったのは、衿来でも朔楽でもなく、やはり詩歩の別なる人格、〈北西〉だった。
「今度は彼女らを疑おうというのか。そうやって嫌疑対象をポンポン変えるのはあまりにご都合主義的だし、第一嫌疑の根拠が稀薄すぎやしないか」
「何を小癪な。それなら、橘華さんの心理に関する君の解釈はどうなのです。君とて我々と大差ないでしょう」
「違うな、全然違う。僕のはあくまで現実に採った彼女の行動に立脚したもので、実際の出来事に背反していない。あんたは現実も何もない、ただ絵空事を囀っているに過ぎない」
「絵空事とは何ですか」
「警部補のくせにそんなことも知らないのか」
「そういう意味じゃありませんよ」
「なら何を訊いているんだ。訳が判らないな」
呆れたように頭を振る少女。返す言葉もない警部補だが、心境は似たり寄ったりだろう。
広い歩幅で室内を歩き回りながら、〈北西〉は噛んで含めるように言葉を紡ぎ出していった。
「ともあれ、殺人疑惑を衿来嬢ら二人に向けたからには、完全ではないにせよ、橘華嬢のアリバイをあんたは認めたわけで、僕にとっては好都合だよ。僕の戯言にも、少しは耳を傾ける必要性が生じたと解釈できるからね。願わくば、より一層のご傾聴を希うところだけど」
リビングからの微かな物音と、〈北西〉の規則正しく歩く音だけが室内の滞りがちな空気を微妙に揺らす。椅子に畏まる三人の表情は、なおも暗澹たるものがあった。
額に手を突き、独り考えに耽っていた警部補が、フムと鼻で息をつき、ようやく口を開いた。
「橘華さんの部屋は北西の方角にあり、下り階段に一番近い。いわば門番的なポジションでした。彼女がいなかったとなると、摩耶さんを殺そうとしていた何者かには思わぬ僥倖だったでしょうね」
「むべなるかな。結果論ながら、本当に室内にいたら耳にしたかもしれない犯人の跫音を、橘華嬢は聞くことがなかった」
〈北西〉の言葉には何の感懐も述べず、衿来たち二人のほうへ上体を寄せた警部補は、気を取り直して声をかけた。
「午前零時に寝室に引き取り、その後すぐに寝ついたのが朔楽さん。衿来さんは零時四十分頃二階へ上がり、寝入ったのは一時頃と、それぞれおっしゃいましたね」
朔楽がコクッと頷く。衿来は微動だにしない。
「本当にそうだったんですか?」警部補は急に声を張り上げた。「お二人のうちどちらか、あるいは双方共、偽りの証言を我々に語ったのではありませんか?」
声量の強弱による威嚇は、思惑以上に効果があった。はっと息を呑んだ朔楽の円らな双眸に見る見る涙が溜まり、衿来は視線を下に落としたまま、嘘じゃありません、とアルトの声を震わせ呟いたきり、何一つ新たに語ろうとしなかった。
「怪しいですね」率直な意見を口にし、警部補はぐいと背を伸ばした。「どうも皆さんには、自分の証言だのに何故かそれを強く主張できない、奇妙な符合が少なからず見受けられます。橘華さんの場合は、そうせざるをえない事情があったのですが、はてさて、こちらのお二方はどうなのか」
散策めいた徘徊を続ける〈北西〉を無視して警部補は言ったが、その疑問形は正しく徘徊者に向けられたものだ。
当人は路地に面した出窓の前で歩みを止め、雑木林の遥か向こうより眩い姿を現した朝日の輝きに眼を細めながら、躊躇いを思わせる意外な表情を一見柔和な白い顔に浮かべた。
「その件に関しては、そう、検証が必要なようだ」
静かに踵を返し、窓に背を向け腕を組む。感情のない乾いた瞳は、叱られたように面を伏せる衿来を見据えていた。
陽光を受け、耳許を飾る衿来の真珠色のピアスが鮮やかに輝いた。
「検証とはどういう意味です」
「上の部屋の調査は」
〈北西〉に問われた警部補が、横目に部下を見る。
捜査員は面長の首をコクコク上下に動かし、終わってますとだけ告げた。
「では二階へ。捜査員の方も、僕についてくるように」
言うが早いか、〈北西〉は玄関廊下に通じる戸口へ大股に歩き出した。
「待ちなさい、君、勝手な行動は」
「そこな二人の昨夜の動向を検証するには、寝室を見ておく必要がある。早く来てくれ、時間がもったいない」
応接室を離れた〈北西〉の後を、ドタバタした男たちの足取りが騒がしく続く。
「待ちたまえ」
警部補の制止も聞かず、廊下に出た〈北西〉はすかさず歩調を速めると、そのまま二階への階段を軽やかに駆け昇っていった。
「待てと言うのに、なんて逃げ足の速い」
「ですね、早く追いましょう。おい待てコラ。勝手な真似は」
「いやいや、待った」
階段の中ほどまで来ていた警部補が、はたとその場に立ち止まる。急停止した警部補にぶつかりそうになり、捜査員も慌てて足を止めたが、その拍子に片方の爪先を段差に打ちつけ低く呻いた。
「参考人のあの子たちだけ残すわけにいきません。君は部屋に戻りなさい。特に左の席の二人からは決して眼を離さぬように」
足の指を押さえて涙目の捜査員にそう命じ、警部補は速度を緩めず踊り場を通過した。階下に引き返す捜査員には眼もくれず、勾配のきつい階段を昇り詰め、二階の長廊下へ。
先行していた厄介者は、すぐに見つかった。
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