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【短編小説】金木犀

2週間前の飲み会で友人が忘れたカーディガンを返すという名目で忘れ主と酒を飲んだ。思っていたより私の仕事が長引いてしまい、かなりの時間彼を待たせてしまった。


早く帰らなければという思いが脳みそ埋め尽くして、丁度溢れる少し手前でビルを出る。
外は想像よりも寒くなく、一度エレベーターで巻いたマフラーを外す。パンパンに資料の入った鞄にギュウッとマフラーを詰め込む。

順番を間違えた。
さらにパンパンに膨れる鞄をかき分けながら焦るように種を探す。奥底から発掘した種を咥えて、加熱式煙草に刺す。煙草の震える瞬間を逃すまいと固く握りしめながら、鞄から少し溢れたマフラーをまたギュッと詰め込む。震えた瞬間、待ちきれずに口に運び、一呼吸。冬の空気は冷たいから綺麗な空気と一緒に煙草を吸っている感じがする。
私は大きく吸った二回で脳が揺らぐ。



宣言した時間よりも一時間半ほど遅れて、新宿に着く。生まれてこの方、新宿で育った私にとってここはいつでも安心できる。新宿が好きとかそう言った話ではない。煌びやかな都会はたまに少し怖くなる。都会以外で育ったことはないが、それでもなんだか怖い時だってある。今すぐに逃げ出して早く暗い自分の部屋に閉じこもってしまいたい、煌びやかなところにいるとそんな気持ちが抑えきれない時がごくたまにあるのだ。その点、新宿からはすぐに逃げれる、そんな保険的な感覚が私を安心させているのだ。

昨日は深くまで飲んでしまったから、今日一日のほとんどが眠たかったし(いつもそうだと言われるとそうなのだけれど)、残業の後に飲もうという気持ちも生まれなかった。

でも結局夜は飲みたくなる。
彼とは定期的に会っているが今夜も話は尽きず、仕事の話から恋愛の話、最後には他の友人の精神状態を心配し合いながら店を出た。
ハイボール、ハイボール、緑茶ハイ。彼はレモンサワーを三杯。
軽い飲みのつもりだったが、酒の弱い彼は帰り道に嘔吐。ここが新宿で良かったと心の底から思う。やはり私は新宿が好きなのだ。

あれだけ深く話し込んだ二時間、私の中にだけ残ってしまった。



昨日は深く飲んで、酔って、タクシーで十分のところをわざわざ四十分も歩いて帰ったので、今日は大人しく終電で。都会の地下鉄はとても温かい。深くなればなるほど温かいのだ。
普段は暑苦しいと不満ばかり募るが、終電を待つ間だけは都合良く感謝の気持ちが生まれる。

終電を待つ五分間。
横で立ち話をするカップルなのか不倫相手なのか同僚なのか。とりあえず四、五十代の男女。それくらい彼らの関係性などどうでもよかったのだろう。ふと耳に入った。金木犀の話。香りがどうとか、どの時期とか、なんだか誰でも生きてて一度は誰かと話したことのあるような会話だったような気がする。
その時、たまたま大学時代の先輩へメッセージを送信しようとしていた。先輩と呼べるほど世話にはならなかった人だからこの人が正しくは私にとってどういう関係なのかはわからない。あまり思い出もないし顔もあまり合わせなかった。
坂本さんという人だった。坂本さんは不思議な人だった。当時は大学生なのに毎日重たいスーツを着て、四角いプラスチックの黒い鞄(キャリングケースと言うらしい)を手に持ち、私の所属していたサークルの部室の斜め前、大麻を吸ってると噂が立っていた空き部屋に出入りしていた。でも良い人だった。歳下の私に何故か常に敬語で、何回か同じ授業を横で受けたこともあった。

坂本さんとの一番の思い出は金木犀だった。昼下がりの大学で、あの時は覚えていないが何故か先輩数人と宝焼酎をガブガブと飲んで、部室で暇を持て余していた。恐らく暇ではなかった。大学生の私にとって、暇ではないときに生み出す偽りの暇が愛すべき時間だった。

その時もたぶん、あの終電待ちの男女のように他愛もない会話から金木犀が派生したのだろう。当時の私は金木犀という言葉とその香りが頭の中で結び付かなかった。今もまだ、なんだか言葉と香りが結びつかないが、当時はもっとそうであった。坂本さんの提案で酔っ払いの私たちはキャンパスで金木犀を探す旅に出たのだ。
まずは金木犀に詳しい方々より金木犀の生態を聞き出し、それがありそうな、あるべきだろうという場所を洗い出した。坂本さんは意気揚々と私の金木犀処女卒業のため先導し、確か三人、あと一人は誰だったか、そんなメンバーでキャンパス内を闊歩した。

私の通う大学は都心にあるにも関わらず緑の多いキャンパスだった。森も池も馬小屋もあった。山手線沿いにあるにも関わらず、非現実的な場所であった。

色々と練り歩いた。森の中をズカズカと進み、池を横断し、馬小屋を眺め、木陰から輝くテニス部女子を見学し、たどり着いたのはゴミ捨て場の裏。
そこに金木犀があった。

よくよく香り、記念撮影までした。だけれど、恐らく始めに飲んだ宝焼酎がいけなかった。私の記憶に金木犀は何一つ残っていなかった。(だからこんなにも金木犀の記述が少ないのである。)

そんなことを思い出すうちに、地下鉄は降りるべきところへ。金木犀は正直何も覚えていないが、懐かしく戻らない大学時代に思いを巡らせていた。さっきまで暑いくらいの地下にいたため、地上に出ると身体が少し驚く。声が出るほど身震いするが、あっという間に身体は慣れる。

やはり冬の外の空気を吸う。また焦るようにタネを出して加熱式煙草に刺す。
しかし煙草は何も言わない。
何も言わない?
よく見るとオレンジの光が点滅している。終わりの合図だった。
仕方なく加熱式煙草を鞄に仕舞い込み、家へ向かう。
空気が寒く感じた。

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