人に地図を読んでもらって出かけたときの七首

日記がわりです。風の強い一日でした。


さらわれた値札の行方を教えてよ寝相の悪い子どものくちびる

道中に古民家の一角を使ったパン屋が開いていて、タルトと天然酵母パンが美味しそうだったので一つ二つ注文した。値段を計算しようとした店主が「値札が風にさらわれていってしまって」と本当に困った顔で料金計算をしてくれた。

オレンジとアプリコットの区別もできないくらいずっとわたしをめちゃくちゃにして

翌日の朝、私は作り置きのシチューと一緒にパンを食べ、弟にタルトを与えた。どんな食事をしても「味がする」としか感想を言わない弟は「このアプリコット的なタルト、生地がしっかりしていて旨いね」と言った。
店主はたしかオレンジのタルトと言っていたはずなのだが。

復讐をしたいなここで唐突に人気の絶えたる鋭角のみち

商店街から外れると、路地の向こうまで気配がなくなって、きん、と耳の奥が澄むような瞬間がある。

「恋人と通りの名前を覚えないから地図が読めない大人になったの?」

なにかの地図で初めて『明治通り』を見渡したときの、(お前、通りを名乗っていいのか……? この世にある通りとは一体……?)という気分が未だにわだかまっている。
その違和感のせいかどうかは知らないけれど、紙の地図を読むのが遅い。方角の確定が遅いのだ。知り合いの中ではマシな方だと思って生きてきたけれど、得意な人がいるなら完膚なきまでに優劣がついてへらへらしながらついていく。この日はそういう日だった。
覚えないと言えば、私はよく弟の誕生日を忘れてしまって、「あれ、23日だっけ?28日だっけ?」と聞いては訂正される(正解は22日)。
引っ越した後の住所の番地も1か2か3か4か分からなくなって適当に書く時がある。
メールのパスワードを復元しようとして『よくある質問』に、『学生時代はじめて付き合った相手の名前は?』と聞かれて、漢字を間違っていたり平仮名にひらいているかどうかで間違えたりしてロックをかけられたりする。
あんなにも忘れてはいけないって思った瞬間がかつてあったはずなのに。

喉奥の木乃伊に暇を申し出てサバ揚げを切るあめつちの狭間

同行してくれた方が、化物(褒めています)のように話題が広範で、行動範囲もすごくて、エジプトミイラから即身仏から古生物までシームレスに話が移り変わっていって(こちらは)飽きることがない。
地図も読めるし。すごい。サバサンドを切る手も震える。その微震がいまだに収まらずに続いている。

牡蠣のごときしんとして牡蠣ついばむそこな春よしばし遅れろ

世情のせいか、最後に寄った居酒屋は閑散としていて、私たち以外に一組客が来たかどうかという状態だった。途中でバイトも帰されていたし。もうその日の商売は諦めたのだろう。ホタルイカの沖漬けの余分をサービスしてくれて嬉しかった。

すみません助かりましたありがとうお気になさらずさよならまたね

結局、私たちは別れ際に交し合う『またね』が嘘にならないように生きていくことしかできないのだ。

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