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英会話について④教える実感、教えられる実感


英会話のレッスン中、一度真剣に怒られたことがある。授業が終盤に差しかかった頃、講師が静かにこう言った。

「結局、あなたはこのレッスンを通じてどうなりたいの?」

うーんとしばらく考えてから、ただ話したいだけなんだ、と言うと、相手は顔をしかめる。「そんなんじゃだめだ」「目標を作って取り組まないと上達できないよ」ときっぱり言った。

「他の生徒は、TOEICのためとか、ビジネスのためとか、目標がきちんとある。ただ話したいだけでもいいけれど、やはりきちんと何か目標を決めないとだめだと思うよ」

そして、おすすめの勉強法とか、上達のためにどのように講師に注文するべきかといった方法を話す。私は逐一頷きながら、そうかあ、そうかもなあと思いつつその日の授業を終えた。

以後、やはり何か少し心に引っかかるところがあって、この件について考えてみた。
確かに目標に向かっている生徒の方が講師的には教えやすいのかもしれない。やっぱり何かしら決めた方が(そして相手に伝えた方が)いいのだろうか。


その頃、フィリピンに住む同年代の女性に初めて講師をお願いした。
大学院に通いながらアルバイトで英語教師をしているというその女性は、序盤で「さて今日は何をする?」と尋ねる。フリートークで、と言ったら目を丸くした後、「なんでもいいの?」というので、頷いた。じゃあ…と言って話し始めたのは話題は最近の生活についてで、(ちょうどそのころ日本ではたしか第二波か第三波だった)、フィリピンでは陰性証明書が発行され始めたよ、それがあればスーパーとかに出入りできるんだよねと言った。

「でもそれがさあ…」

何かをいいかけて、そうだ、と手を打った。立ち上がり、「せっかくだから見せてあげる」と言って何かを取りに行く。

「見て、これが証明書なんだけど…」

彼女がそう言って画面越しに差し出したのは、ぺらぺらの薄い紙だった。

「こんなの自分で勝手に作れそうじゃない?」と言うので笑う。実際に勝手に偽の証明書を作ってしまう人も出てきているらしい。げらげら笑いながら、ロックダウン中、他国にいる恋人に会えなくて辛かったという話や、学校に行けないので勉強が丸一年遅れた話などを聞いた。


終盤、彼女が「あー楽しかったな」と言うので、「私も楽しかったよ」と伝え、実は最近レッスンの進め方について迷っていて、私はこういう内容がとても好きなんだけどと話した。
すると彼女はうーんと大きな目を宙に泳がせた後、「まあ、その講師が言ってたこともわからなくはないかな」と言う。


「人によると思うけど、正直講師にとってはフリートークってかなり簡単なのよね」


その一言を聞いて、私は「ああ、なるほど!」と合点がいった。
自由に話していい時間は、こちらからすると訓練になるが、相手からするとただ自分より語学力が劣っている人とただ話すだけの時間になる。あまり「教えている」という実感が持てないのかもしれない。

「私はフリートークの回はラッキーって思う。だからその講師は、教えたいって気持ちが強い人なんじゃないかな」

その一言を聞いて、ふと「教える実感と教えられる実感」について考えた。確かに、フリートークの後に「楽しかったな」と思える授業はむしろ稀で、ほとんどが「生産性のないことを話したなあ」という感じで終わっているかもしれない。それは、教える側からすれば味気ないのだろう。


授業というものが二方向の関係性で作られるものである以上、やっぱり私も「何を教わりたいか」について明確に言葉にした方がいいのかもしれない。
いや、でも……。
結局迷いは続く。
しかし、結局は「教える、教えられる」の関係性について考えること自体が、つまりコミュニケーションなのではないかとも感じるのだった。


(あなたも生きてた日の日記⑬:英会話について④)