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◎瞽女さを追いかけて見えてきたもの


今回の制作は、新潟県にあるゆいぽーとのアーティスト・イン・レジデンス事業「招聘プログラム2024春季」の支援の元で実施した。瞽女についての知識はほとんどないまま新潟を訪れ、制作を始める際、方向性を考える上で大きなきっかけになったのが、同時期に滞在していた全盲の美術鑑賞者、写真家の白鳥建二さんの存在だった。
滞在開始から数日後、白鳥さんの出演された映画が自主上映されると聞き、観に行くことにした。以前、白鳥さんについて書かれた本『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく(著:川内有緒)』を読み、さいたま国際芸術祭2023で白鳥さんの写真を見ていたので少しは知っていたが、実際の生活の風景や、美術鑑賞の様子を観るのは初めてだったのでとてもおもしろかった。おや、と思ったのは上映後のトークを聞いた時だ。主催者の方は白鳥さんの本と映画に魅せられて自主上映を企画したらしく、終始楽しそうにお話をされていたのだが、その中で出た「白鳥さんは、私たちに素晴らしい景色を見せてくれる」という言葉が引っ掛かった。「目の見えているはずの私たちの方が何も見えていないんだと思うことがある」という話にも違和感を覚えた。以前白鳥さんの写真を見たというご婦人も、「白鳥さんの切り取られた世界は素晴らしい。目が見えないというハンデがあるにも関わらず、すごく才能のある方なんだなと思った」と熱っぽく語った。なぜこの類の言葉にもやもやするのだろうか。それは、根底に「見えない人が見える人に何かを教えてくれる」という「見える側からの一方的な願望」が透けて見えるからではないかと思った。相手を「見えるか/見えないか」で区切るところで思考が停止していると感じるのだ。本当はもっと作品自体や、なぜそれが生み出されたのかまで考えなければいけないのではないだろうか。
 
これに似たもやもやは、瞽女についてのリサーチを始めた後にも頻繁に出会った。瞽女について書かれた本は複数存在するが、そもそも記録され始めたのが遅かったということもあり、生活や風俗に関する内容はどの本も似たような記述となっている。特に瞽女本人に聞き取って書いた本は、小林ハルさんや杉本家のキクイさん、シズさんのものがほとんどだ。参考にする瞽女たちの発言が数人に偏っているという問題もある。彼女たちの発言を用いながら、毎朝家を掃除していたという習慣や、針仕事や基本的な家事は人を頼らずに行っていたこと、そして「何にでも感謝する心」を称賛して書いているものも多く見られた。瞽女文化を継承する人に説明してもらう際にも同じことがあった。「瞽女は素晴らしい人たちだった。なぜなら~」という言葉を幾度も聞いた。なぜこういった言葉にいちいち引っ掛かるのか。それはおそらく「そうならざるを得なかった事情が無視されているから」ではないかと思う。
あの時代に、盲目であり、女性であるという状況で生きていくために芸を身につけ、米や宿を恵んでもらわねばならなかった事実。あらゆる理不尽の中で、それでも自分の中で折り合いをつけるために習得した「何にでも感謝する心」ではなかったか。目の見える人がいつ何時来ても恥をかかぬようにと、必要に駆られて行っている毎朝の掃除ではなかったか。農家の労働力になれず、一人で生きていかなくてはならないと必死に覚えた針仕事や家事ではなかったか。本人の気持ちや彼女たちに降りかかっていた状況を差し置き、習得したものだけを見て他人が容易に「素晴らしい」と手放しで称賛してしまうことの危うさを感じるのだ。
一方で、瞽女を「素晴らしいもの」として語らねばならない状況が生まれているのは、私たちの社会の中に差別意識が存在するからではないかとも思う。そう考えるに至った出来事が、滞在中にあった。
それは、瞽女を泊めたことがあるという人にお話を伺った時のことだった。「今の社会ではこんなこと決して言ってはいけないけど、でも事実として、当時農家には、瞽女だけじゃなく乞食もいっぱい来たよ」。そう言って取り出したのは、古い茶碗と小皿だった。「これなんだと思う?」。答えられずにいると、その人は「小皿は『てしょ』と言って、乞食用。茶碗は瞽女用。家に来た時に、これに米を盛って渡したんだ」と言った。
器を前に、言葉が出なかった。「瞽女は芸を持っているから茶碗でもらえる、ただ乞食は何もできないからてしょ程度しかもらえない」と聞き、衝撃を受けた。瞽女の人々の状況が、ここまで残酷にありありと想像できたことはなかった。芸を身につけなければ、施される食糧にも、人としての扱いにも差が出てしまう。今では「素晴らしかった」と言われる瞽女も、物乞いと紙一重のところにいたのだと知った。「うちの村は比較的やさしい家が多かったけど、周りの村なんかひどかった。『うっせえ、門付けなんかせずにどっか行け』と瞽女を追い払う人もいたな。そういう村は先頭の手引きがちゃんと覚えていて、二度と行かないようにしていたようだけど」。
このような事実を聞くようになって以来、不思議なことに、私は別の場で聞いた「村の人が瞽女と親戚のように交流する話」や「瞽女の唄をまた聞きたいという人々の話」をよく思い出すようになっていた。もしかすると、差別していた事実を知ればこそ、そうでない側面を残さねばと思うのかもしれない。人間にも優しい面があり、困った者には手を差し出せる存在なのだと信じたくて、「素晴らしい」と称賛したくなってしまうのかもしれない。
でも、やはり人間の弱さとして差別は実際にあったのだ。生活が苦しいあまり、「自分より下の人間を見てみんなが耐えていた時代があった」のだ。この部分を無視して、瞽女の素晴らしい面や、村人に歓迎されていた話ばかり書き残してしまっていいものか。

しかし、最終的に仕上がった今回のテキストの中に、あからさまな差別の描写はない。正直に言うと差別の部分まで調べて書く十分な時間がなかった。重要かつデリケートな問題ゆえに、今後もう少し時間をかけたいと思っている。もちろん、瞽女というテーマ自体も、やはり一か月程度でまとめられるものではない。今回は、この滞在中に出会った人や聞いた話から11本を構成した。今後も引き続きリサーチを続けることで、瞽女を知る最後の世代の声を、後世の人々へ残す一助になればと思っている。
 


※文中には現在では差別用語にあたる言葉も使用していますが、当時の状況を伝えるためであり賛同するものではありません