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どこだれ⑩ 子どもたちを尊敬している


芸術関係のことをしていると、度々ひょっこりと現れるのが「ワークショップ」の機会だ。
中学の頃、はじめてこの言葉を調べた。そのときはワークショップ=「体験型の講座」と認識した。受けるばかりだったそれを、今では自分がやる側になっているのだから人生はわからない。
劇場や公共施設からの依頼や自主企画で何度かやっているが、いままで縁遠かったのは「子ども」に対するワークショップだ。劇団や個人ではたびたび対象を「子どもから大人まで」としているのだけど、中学生から大人までが参加する形になることが多かった。

子どもが参加するワークショップ。そろそろ自分もきっちりできるようにならねば、と思っていた矢先、滞在先で小学生たちとリサーチを兼ねたワークショップを行うことになった。どうやって進めるのがいいのか不安があったので、しばしば子どもたちと協働しているダンサーに助言を求めた。
「これまで子どもたちと一緒に作品つくったりワークショップをした時、どんな感じでしたか」という質問に、「楽しいですよ!」と間髪入れず答える姿を見て、ああこれは参加した子どもたちもさぞ楽しかっただろうなあと思った。一方で「やっぱりうまくいかない時もある」のだそうで、学校の授業で「噛み合わないなあ」と思った時には、その後行きたい方向へ誘導するのは一苦労だと言う。それでも子どもたちと共に動くのが楽しいというので、理由を聞くと、思わぬ言葉が返ってきた。

「私は、子どもたちを、尊敬してます」
尊敬...?その意味がわからなくて、詳しく聞いてみるも、本人もそれ以外に言い表す言葉が見つからないようで困っている。
「うーん、子どもっていう存在を、尊敬してる...してますね」
子どもを尊敬している、とはどういうことだろう。あの小さな身体で、この世界を生きていることに対してなのか。それとも子どもならではの、いわゆる好奇心とか、純粋無垢な感じとか、そういう部分を言っているのだろうか。言葉の意味をよく掴めないまま、ついに滞在の日を迎えた。

そこは放課後に子どもたちが自由に集まっていい場所で、自習したりゲームをしたりと思い思いの時間を過ごしていた。その日も小学生から高校生たちが数人いて、一応ワークショップという名のゲームを用意してきたものの、女の子たちはおしゃべりに夢中になり、男の子は柔らかいボールで遊んでいた。どうやら異物(わたし)の存在にすこし緊張しているようだった。
「えーっと、ゲームをするのでちょっと集まってくださーい」
そう声をかけると、みんな素直に机に集まってきて、まっすぐな目でこちらを見ている。今日の目的は、用意してきた身体を使ったゲームをして緊張をほぐしつつ、合間にこの街のことについて教えてもらうことだった。
自己紹介をして、準備してきた遊びをしようかな...と思った、その時だった。座っている子たちの足が、ぶらぶらと揺れていることに気づいた。こちらを見ながらも、揺れは足から身体にまで広がっていく。その様子を見た瞬間、やろうと思っていたゲームは頭の中からすっ飛んだ。

「じつは、私は先週はじめてこの街に来て、ここのこと全然わからないから、みんなに教えてほしいんです」

自分の中にあった工程や小細工を全部吹っ飛ばして、願いがそのまま口から出ていた。すると、子どもたちはぱっと立ち上がって、「いいよ!」と元気よく言った。
「どんなことが聞きたいの?!」

その返事を聞いて、私は思わず感動した。こんなに、こちらのお願いにまっすぐ答えてくれるのか。紙とペンを渡すと、好きな公園、給食、遠足、それらをイラストで描いて見せてくれる。「ほら!これだよ!」と見せる声に、楽しんで描いてくれていることがわかる。そうか、子どもたちの「遊び」って、こういう風に発生するものだった...!

一通りイラストを描くと、関心はすぐに移って、おにごっこやかくれおに等次の遊びが始まった。その遊びに混ざりながら、たまに「高校生にも話を聞いておきたいな...」と思ってよそ見をすると、かくれんぼを要求する男児がこちらをビシッと指さして「裏切らないでね!!!!」と叫んだ。そのあまりの真っすぐさに笑ってしまう。

めいっぱい遊んだ後、帰路に着く子どもたちを見えなくなるギリギリまで見送りながら、ふと「子どもたちを尊敬している」という言葉が浮かんだ。
目の前にいる人に、全力で要求したり、関係を築いたりする子どもたち。彼ら彼女らには小細工や打算がひとつもなかった。ただまっすぐに目の前の人に向き合うのだ。
「ああ、これは尊敬するわ」
すっかり暗くなった空を見ながら、思わずそう呟いた。

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