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どこだれ20 ホタルを知らずにいたかった


ある滞在先であてもなく歩いていると、田畑が混在する広々とした場所に出た。抜けるような青い空がどこまでも続くなか、視界の隅に違和感があった。見ると、ぽつんとコンテナが建っている。何だろうと思い近づくと、コンテナはどうやらお店のようだ。たまたま出てきた男性に聞くと、農業を営む一家でやっているレストランだと言う。話をしてくれたのはそこの父親で、数年前に農地の一角にあるコンテナを改装して、週末だけオープンするお店を始めたそうだ。自分の作った野菜が購入され、料理され、人の口に入るまですべてを見届けたいという気持ちからお店を始めることを思い立ったと言う。見た目が悪いだけで廃棄せねばならなかった野菜を使って、サラダやシチューなどを作り提供している。調理は主に男性、接客は娘さんや息子さんが担っていて、手作り感あふれる店内装飾と、和気あいあいとした雰囲気が魅力だった。今は明日の営業に向けて仕込みをしている最中だという。伝票のようなものを持った娘さんが、笑顔で「こんにちは」と言いながら近くを足早に通り過ぎて行った。

「自然豊かな場所ですね」と言って周りを見渡すと、男性は「何にもないでしょう」と言って笑った。「この店の裏なんか電灯も何もないので、夜なんか本当に真っ暗なんですよ」と指さす先にはうっそうと茂った森があって、電気がつかないとなると夜はさぞ漆黒だろうと思った。その方角を見詰めていると、「そうだ」と思い出したように言った。「ここ数年すっかり行かなくなっちゃったんですけど、ちょっと行ったところに細い川があって、夜になるとホタルが飛んで綺麗ですよ。よかったら見に来ますか?」
思わぬ誘いに心が弾んだ。ぜひ、と言って一旦別れ、夕刻にふたたびその場所を訪れた。

いざ行ってみると、その場所は思っていたよりも距離があった。いや、足場が悪くて草を折ったり木の枝をよけたりしていたので、そう勘違いしたのかもしれない。しばらく足を運んでいないのは事実だったようで、ぼうぼうに生えた草木が何度も行く先を阻んだ。草を踏みしめるたび、夏のはじめの生命のむっとしたにおいが立ち込める。
「あらー」と、数歩先を歩いていた男性が声を上げた。近づいて見ると足元には草に覆われた隙間からちょろちょろと水が流れていて、かなり幅は狭くなっているようだが、確かに川があった。しかし、そこに光る生き物はいなかった。
「年々数が減ってるなとは思ってたんですけど、とうとういなくなっちゃったかあ」
男性はなぜかすみませんと謝り、ここ数日ホタルが見られているという近くの川を教えてくれた。
「昔はね、ここ一帯にぱあーっと。信じられないくらい辺りが明るくなってね。綺麗だったんですよ」
視線の先に男性のかつての記憶の風景を探したが、やはり目の前は真っ暗で、様子を自分の中に呼び起こすことは難しかった。自分にとってはその場所が何となく「本来はホタルが見られるのに見られなくなった場所」という認識になってしまったのが口惜しかった。

そんなことがあったことすら忘れかけていた頃、金沢の市街を歩いていた時のこと。角を曲がると視界にふわふわと浮く小さな光がいくつか目に入った。驚いて二度見すると、それはやわらかな光を発しながら飛んでいる。一瞬、なぜ光が浮いているのか理解できなかった。見詰め続けていたらこころを持っていかれてしまいそうな、優雅で、はかないながらも怖さをはらんだ光だった。近づくと、ふわふわと遠ざかっていく。それはまぎれもなくホタルだった。
「わあ…」と思わず声が漏れた。なぜこんな街中にホタルがいるのだろう。しばらく歩いていくと、細い小川が道の端にちょろちょろと流れているのが見えた。この川辺に彼らはいて、みじかい命をふり絞りながら辺りを飛び回っているのだと思った。
その時、以前案内してもらった川でホタルが見れなかったことを思い出した。あの時の完全な暗闇の中に、いま見たホタルたちが漂っている情景を思い浮かべる。それは、まぎれもなく素晴らしかった。ホタルの飛ぶ範囲に合わせて、草木や、川の流れや、岩々のくぼみが見え隠れする。
急に、この世界で最初にホタルに出会った人間のことを考えた。もしこの小さな生き物の存在を知らないままその景色に出会ったら、きっと心の底から驚き、世界の見え方がまったく変わっただろう。感動したかもしれないし、畏怖の気持ちが湧いたかもしれない。人の魂の形があったとしたらこんな形をしていると思ったんじゃないだろうか。

そんなことは不可能だとわかりつつ、それ以降、私はホタルの存在を知らないままホタルと出会いたかったと強く思うようになった。これは何もホタルの話だけではない。現代は、どんなに離れた国の景色でも、珍しい状況でも、美しい景色でも予め知ってしまうことが多過ぎる。その情報があるがゆえに、暗闇の中の川は「ホタルの見えなかった川」になってしまうし、絶景を確かめるために絶景スポットに行くことになってしまう。

友人の子や、滞在先で子どもたちと出会うことが多くなってきた最近、とくにこのような気持ちを抱くことが多くなった。何を知っていて、何を知らない方が世界はより楽しくなるだろうか。ホタルを知らずにいたかった私は、知らずにいて楽しいものをひたすら探している。

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