見出し画像

どこだれ②昭和歌謡のサイズ感

2023年の紅白歌合戦では、昭和歌謡がたくさん歌われた。この年、丁度私も昭和歌謡をたくさん聴いていたので、思いがけず嬉しい年の瀬となった。大掃除の手を動かしながら流れる歌を聞いていると、今年出会った昭和生まれの方々の顔がいくつも浮かぶ。

それは、左近山団地に滞在しながら、作品づくりのために住民の方に話を聞いていた時のこと。ベンチに座っている高齢男性と目が合ったので、挨拶がてら話をした。男性は集団就職で16歳の時に東北から上京、そこからずっと東京や横浜を転々としているという。

「なんのお仕事をされてたんですか?」
「電気系の仕事」
そう言ったあと、「仕事なんて選べないよ。田舎は仕事がないもんでさ、お前電気やれって学校に言われたら、はいって勤め先に行くしかないんだもん」としゃがれた声で話した。上京して以来、ずっと電気系の仕事をやってきたのだと言う。そりゃあたくさん働いたもんだよ、と笑った。
その後、ふいに新型コロナウイルスの話題になった。
「俺6回も打ったんだよワクチン」
己の肩をぱんぱんと叩く。7回目の知らせも来ているというので驚いた。高齢の人たちは、そんなに多い数ワクチンを打っていたのか。
「7回目はさすがにどうしようかなあって迷ってるのよ。でも、かかって死んじゃった人もいるしね。ほら、志村けんとか」
ああ、そうでしたね、と相槌を打つと、それまで朗らかに話していたその人の表情が曇った。
「だってさあ、志村けんだよ。あの志村けんがなあ...。あんないい、おもしろい俳優が死んじゃうなんてなあ。ほんとになあ...」
顔を見てびっくりした。その目には、うっすらと涙が浮かんでいたのだ。正直戸惑った。その人が亡くなってしまったことを思い出すと涙が出そうになるくらい、ある芸能人を大切に思う気持ちがわからなかったのだ。

その考えに変化があったのは、展示場所でもあるアトリエで、住民が自由に弾き語りできるイベントが開催された日のことだった。その日はたまたま「病気をしてからなかなか外出しなかったけど、話をするために外に出てきたよ」と、数日前に知り会った方が来てくれていた。話していると、途中でギターを弾きに来た方の演奏が始まった。
その時歌われたのが昭和歌謡だった。
すると、隣で聞いていたその人が、曲に合わせてゆっくりと身体を左右に揺らし始めた。時折うんうんと頷きながら、目を閉じてじっくりと味わいながら、一曲終わると拍手をし、また一曲終わると同じようにした。静かな歌ばかりなので、ギター仲間からは「暗いなあ」とか「しょぼくれちゃうよ」という声が上がりながらも、しっとりした昭和歌謡が続く。そういえば、昭和歌謡はつぶやくように歌い出す作品が多いなあと思った。隣で聞いていたその人は、数曲が終わったのち、「なんだかあの頃を思い出したわねえ」と言った。「生の音楽ってこんなによかったのね」と目を潤ませ、「今日は本当にいい日になりました」と何度も頭を下げ、ゆっくりと帰っていった。

その夜、滞在していた団地の台所で昭和歌謡を小さく流しながら料理をしていると、曲が美空ひばりの「川の流れのように」に変わった。そのとき、急に色々なことがぱっと腑に落ちた。団地の、狭い部屋に小さくかかる昭和歌謡。その歌詞をちいさく口ずさみながら進む家事。つぶやくように歌い出すこうした歌たちは、この大きさの家屋のために、この規模の暮らしのためにあったのではないか。「川の流れのように」という歌詞が来るたび、滞在中に出会った、何人もの集団就職で横浜に出てきたんだと言う方が思い浮かんだ。「仕事なんて選べないよ」という声、行きついた場所で、割り振られた仕事を懸命にして生きてきた人たちのために、こういう歌はあったのだ。
故郷を出て見知らぬ街で暮らしていくのはどんな覚悟だったのだろう。心細くなった時、TⅤのスターにどれだけ助けられただろう。きっと志村けんはそういった人々の孤独を何度も笑いで救っただろう。その存在が、ああもあっけなくいなくなってしまった時の、喪失感はいかばかりか。

リバイバルブームもあって、「昭和歌謡はいいね」という言葉をよく聞いたし、私もよく言った。しかし、本当にその時代のことは想像できていなかったし、これからも理解しきることはできないと思う。ただ、その暮らしを続けてきた人の話を聞いて、団地に暮らして、はじめてその時代の残り香のようなものに触れられた気がしている。