【短編小説】鉤括弧からの卑劣な逃亡
日本には「八方美人」という言葉があることをウィズは学内の図書館から借りた本で知った。その言葉は「四字熟語」というグループに属し四つの漢字で構成されており固定的な表現、つまり決まり文句的な意味合いで使われる。その漢字それぞれに意味があるのだがこの表現の場合、上の二文字と下の二文字で意味合いが分かれる。「八方」というのは八つの方角(東西南北及び北西、北東、南西、南東)を、「美人」というのは美しい人を指す表現。そのため「どこからみても美人である様子」が八方美人の意味の一つとされている。
しかしこの単語が日本において使用される際、ネガティブな意味合いを含むことが殆どである。先ほどの意味が転じて「誰に対しても好かれようと過度に愛想良く振る舞う人」という定義が浸透しているからだ。「八方美人」だと言われて嬉しくなる人はいない。日本人独特の陰口やじめっとした同調圧力から生まれる皮肉や侮蔑であることを、ウィズは書籍から学んだ。
深夜二時五十分、学生寮の二階の隅の部屋でベッドに横たわりながらウィズ・フリーはその単語とマックスを結び付けていた。マックスは同じ経済学を専攻するバスケットボールが上手いスポーツマンだが、彼は誰に対しても平等に、優しく、そして丁寧に接する。たとえ相手が友達がゼロで学内から疎まれているウィズであろうと変わらない。彼は学内のどこにいても一人でいることはないしInstagramのフォロワーはインフルエンサーでもないのに一万人を超えている。彼の八方美人ぶりが生み出した結果だったが、彼は利益とかやましい感情でそんなことをしているわけじゃない。良い行いは彼のルーティーンなのだ。つまり「八方美人ではない」とも言える。ウィズは彼が「八方美人であること」を祈っているのだが。
眠れないのは今に始まったことではなかった。初めて不眠を感じたのは六歳のとき、日本で起こった大きな津波の映像が原因だった。それから彼は不安障害に陥り友達ができても長続きすることはなくなってしまった。「本当に、今から言うことは誰にも言わないと神に誓って欲しいんだけどね」「絶対に、絶対に僕のことを嫌いにならないと、たとえ海に飲まれても助けてくれると約束してくれるのなら」そんなことを延々と言い続ける少年が人気者になれるはずがない。ウィズ・フリーは自分から何かが確実に崩れ落ちる音を感じ取っていたし、それは現実になってしまった。アイデンティティが崩れる音、そして鉤括弧を纏った新しいアイデンティティがのしかかる音。「不登校生」や「変わった奴」「嫌われ者」など、そんなふうに。高校生になってからようやく学校に通い始めなんとか大学に進学できたが、その頃には親さえ彼に関心を寄せず金を出すだけの関係になっていた。だから、ウィズにとってこの学生寮は非常に都合が良かった。生まれ育った街からの解放はこれまでの悲惨で見苦しい自らとの決別でもあるように思えたからだ。
しかしそんな簡単に物事はうまく運ばない。大学生になって一年が経っても彼の周りには友人はおろか、授業の合間に話しかけてくるやつもいなかった。そう、マックスを除いては。
静寂に包まれた街にエンジンが鳴り響く。リズミカルで甲高いエンジン音、それは地元の新聞社が購読者に朝刊を配達する音だった。スクーターを走らせながら周囲の住宅に新聞を投函していく。ウィズが住む部屋は大きな学生寮の西端に位置し部屋の窓からは容易にその配達員の姿を目視できる。寮と配達が行われる住宅の間には小さな交差点があって短い交差点を渡ればすぐに辿り着くことができる距離だ。配達員は必ず午前の三時ぴったりにやってくる、ウィズが一年間の眠れない学生寮での日々で得たものは午前三時を正確に把握する時間感覚のみだった。
ウィズはいつも紺色のカーテンの隙間から配達人の姿を覗いている。配達人はいつもヘルメットを被っていて顔は見えないし、男か女か歳を取っているのかどうかすらも分からない。いくら目視できるとはいえ分厚い新聞社お手製のジャケットを着ていたら体のラインまでは分からないからだ。けれどこの陰気で執念深い男は、配達員があのマックスであると確信を持っている。彼もまた学生寮に住んでおり(ウィズと違って賑やかな大部屋に住んでいるようだけれど)小遣い稼ぎに配達員の仕事を始めたことをInstagramのストーリーで確認済みだ。もちろんウィズとマックスは相互フォローになるような関係ではないし、ウィズは彼を監視するための匿名アカウントしか保持していない。彼の目的はマックス・ハイライトに鉤括弧を飾ることだ。
監視しているアカウントをメンションする投稿や学内での振る舞いから、マックスにはバラエティ豊かな言葉が飾られることをウィズは知っている。マックスは、矛盾している表現になるけれど、一言で表すなら多面的と言えるだろう。その多面性は彼のたくさんの趣味や友達の多様さ、経験の多さなどから紐付くといえる。バスケだけでなくゴルフや学生ボランティア、ルアーフィッシングやビブリオバトル、料理教室にまで通ったりもしてそのどれもから友を得る。だから彼のスケジュールはいつも分刻みだし、汗を流したあとは真剣に政治について語ったり友人とInstagramでライブ配信をしたあとは交際して二年になるモデルのガールフレンドとショッピングに行って夜は最近始めたサックスをバーで演奏する。マックスの友人や知り合いは接触するコミュニティによって異なる彼の仕草や言動を「チャーミング」と称賛するが、皆口を揃えて彼を「いい奴」だと言う。それはお世辞や社交辞令ではなく心の底から溢れ出る本音に違いなかった。
ウィズはそれが許せなかった。なぜなら彼だけがその人気者が主催する入学式直後の懇親パーティーに誘われなかったからだ。周囲の参加者がウィズを嫌っていたからに違いなかった。その時の罪悪感で今も丁寧に話しかけているに違いない、つまりマックスという男はあの頃の贖罪を行っているのだ。周りにはいい顔をしたいし人気は手放したくない、けれど君と仲良くするつもりはないから、このくらいの距離感を保っておいてくれよ。そう言わんばかりのマックス・グリーンノートの笑顔がウィズには呪いのように脳にこびりついていた。振り払い克服する必要がある。克服とは困難を乗り越えもう後ろを振り返らないと言うことだ。そのためには対象を見上げるのではなく同等か、もしくは見下げる位置にまで辿り着かなければならない。だから彼に自分と同じ冠を授ける、鉤括弧に括られた様々な悪口を。そしてマックスの信用と好感度が地に落ちたとき、ウィズはその冠を投げ捨て豊かなキャンパスライフを送ることができる。彼はそう確信していた。
配達員としてのマックスを把握していることは彼の計画にとって大きなアドバンテージだった。午前三時から三時五分までの五分間、ウィズは窓の枠組みにガムテープで小型カメラを設置し彼を撮った。階段を降りて信号を渡れば一分もかからない距離、平日の深夜とも早朝とも言える時間帯は完全に二人だけのものだった。街は静かに朝日が昇るのを待つだけでマックスと言えどその静寂さには勝てず、ただ一人の「配達員」として機能する。
ウィズはまず、紙幣を何枚か置いて釣ってみることにした。スクーターが停車し朝刊を投函するアパートの前に、ゴムで縛った十ドル紙幣を十枚置いて観察を行う。盗撮の準備はできていた。さあ、手に取るといい。周囲を確認しながらそのジャケットに隠すようにしまい込めばいい。小型カメラが録音状態になっていることを確かめると、ウィズはよだれを垂らしながら仕掛けた餌を見つめていた。顔を半分カーテンで隠していたが、日中には見せないギラついた視線が光の屈折と同じ角度でガラスを貫く。
配達員がやってきた。スクーターはエンジン音を止めて新聞を三部手に取りながらポストに投函していく。仕事を終えると道端の紙幣に気付いた配達員は数秒間、見下ろすようにその場に立ち尽くしたあと左膝を付いてしゃがみ込んだ。ウィズは息を止めて録画が続いていることを確認し、画面越しにその窃盗を確かに目撃した。スクーターはまた音を立てて次のエリアに配達へ向かう。
それは簡単に形容することのできない美しい窃盗であった。彼はやはり「八方美人」だった。ヘルメットを被ったままだったから表情までは見えなかったが、あれほど慌てた姿は誰もみたことがないに決まっている。ウィズは息を整え額の汗を拭い停止ボタンを押した。百ドルで買った人気者の犯罪は甘いウイスキーのような香りがして、気を抜けば卒倒してしまいそうだった。
数日後ウィズは新たな試みを行うことにした。あれから食堂でマックスを見張っていたのだが、いつもと変わらない様子で焦ることもなく仲間に囲まれている。彼はカウンター席に座って目前のガラスに反射するその喧騒をじっと見つめていた。もう少し、罰が必要だ。彼は窃盗を働いたにも関わらず「一般的」な日常を過ごしている。そう、日常は簡単に変わったりしない。観察者は相変わらず疎まれ続けているし周りには誰もいない。鉤括弧がついたままの日々。
彼を陥れる次の罠は成人向けの雑誌だった。裸の女たちが消費されている雑誌、国内だけでなくわざわざ海外から輸入したものもまとめて軽く紐で縛って、札束と同じ場所に置いておく。内容はかなりコアだから拾ってしまえば二度と女の隣を歩くことはできなくなる、ウィズはまたよだれを垂らした。マックスの欲情とその後の負け顔を想像する方が、あんな雑誌を読んでいるよりエキサイティングだ。午前三時、目撃者はいない。この街はまだ誰も起きておらず一台のスクーターが新聞を届けるだけ。それだけの早朝。
そして午前三時にきっちりとスクーターはやってくる。ウィズは興奮を抑えようと必死になりながら、またカメラが録画できているかチェックする。赤いマークは点灯している。現実よりも画素が低くなった画面の中でスクーターは静かに停止し配達人は足元に視線をやりながら、いつもより重い足取りで階段に向かおうとする。その歩みに隠しきれていない欲求をウィズは確かに感じ取った。そして彼が雑誌の束を手に取った瞬間、ガッツポーズを取って画角が少しずれてしまった。シャツが擦れる音も入った。けれどそれがまたいい味を出したのだ。画角を素早く修正すると配達員はその雑誌を抱えたまま雑に新聞を投函して、今度はこの前よりもキョロキョロしながらスクーターに跨った。
ウィズは机に置いていたスコッチで一人祝杯をあげた。朝がやってくるまでの束の間の、孤独な祝杯。しかし決して惨めでも哀れでもなく、優越感と前回を上回る興奮が味わえる最高の宴だった。マックスの野郎は確かに金と雑誌を盗んだ。これは立派な窃盗罪で誰もが彼を咎め非難するに違いない。アルコールに弱い彼には直ちに頭痛が走り、数多の鋭い視線と怒りと自分を侮辱する声が聞こえてくる。不眠による幻覚と幻聴に違いないが過去の経験がそれを助長させていることは明らかだった。金の窃盗もエロティシズムに対する敗北も、三年前、彼が実際に受けたいじめの一部だった。強引にホームレスから金を奪うよう強要されゴミ箱に手を突っ込み見つけた雑誌でマスターベーションを行い、それを学校の人気者へ報告する。そして授かった鉤括弧、個性のない惨めな王冠があの街を逃げた今でもウィズを苦しめていた。この冠を一日でも早く他の誰かに預けなくてはいけない。ウィズはたった一人、部屋にうずくまって彼らの声を振り払おうと踠いた。ウイスキーが机から落ちる、それが熟成され続けた十二年という期間は彼がいじめを受けた時間とぴったり重なっていた。
鉤括弧から解放される過程はとても心地良くウィズは本当に体が軽くなる感覚を覚えた。あれから一ヶ月が経つ。もうこれ以上必要ないと思っていたが私怨も含め何度か罠を掛けてみると、驚くほど容易くひっかかる。配達員としての「彼」は陰気でみすぼらしく狡猾で情けない。冠は確実に移動している。ある直感が彼の脳内を走った。「そろそろ頃合いだ、今日必ずマックスに盗撮の成果を披露しなければならない」人は直感と知的好奇心に従うべきなのだ。そうと決まると話は早い。不登校時代、あれほど遠くに感じた外の世界へウィズは容易く飛び出す。
時刻は午前二時五十四分、一分で向かいのマンションまで辿りつく。配達は必ず、五分後にやってくる。
エンジン音を待ち侘びた五分は彼が経験したどんな五分間よりも長く尊く、愛しいものだった。彼が授かった冠を次なる「彼」に渡す戴冠式。物心ついた頃から嫌われ者のウィズと違ってマックスは二十年間愛されてきた人生だ、つまりこの冠を被るのは初めてに違いない。しかし彼は必ず非難を浴びる、中傷も侮蔑も受けることだろう。そしてだんだんこの冠が似合ってくる、むしろ自分の頭にぴったりと合うよう設計されたんじゃないかとすら思えてくる。冠にぬめりのある足を持った寄生虫が脳と体を蝕む。殺す方法は一つだけ、他者になすりつけること。
スクーターがやってくる。ウィズは息を止めて「彼」が停止する位置に立って、静かにエンジンが停止されるのを待つ。配達人は彼に気付いてヘルメットを脱ぐ。「人気者」であるはずのマックスが快活に笑顔を見せる。
「やあ!ウィズじゃないか!こんなところで何してるんだい?ランニングをするなら付き合いたかったよ」
「もう『八方美人』はやめないか、マックス。君には今後一生、世間から忌み嫌われる鉤括弧が纏わりつくんだぜ」
「ウィズ、どうしたんだい?何が言いたいかよく分からないけど、とにかく配達を済ませなきゃいけないんだ。ご覧の通りだけど新聞配達の仕事を始めてね」
「そんなこと大学の誰よりも僕が理解してるさ。君のInstagramをフォローしている親しい友達よりも、誰よりもね」
ウィズは証拠となるビデオをマックスに見せた。マックスは普段よりかなり饒舌で興奮し息を荒げているウィズを訝しみながら、その映像を覗いた。配達員が金を拾い、いやらしいビデオを盗み様々な悪事を働く。マックスの表情は変わらなかった。ビデオにもウィズにも同じような顔をする。ウィズは勝利を確信した。
「君はいつもいい顔をしながら、人気者として地位を確立していた!しかし君の本当の姿はこれさ!金にも性にも目がない見窄らしい人間!これを今日大学で流してやるよ、嫌だと言っても無駄さ。もう覚悟を決めたんだからな」
マックスは目と口を開いてじっとウィズを見下ろしていた。彼が配達の仕事をサボって三分ほど経っただろうか、彼の予定通りの一日は午前三時にして狂い始めている。そして冠が崩れ去っていくのも時間の問題、であるはずだった。
「何を言いたいのかよく分からないよ。これは僕じゃない」
「嘘をつくな!これまでずっと見張ってたんだ!確かな情報を得てからずっと!」
「確かに配達の仕事はしているよ、でもこれは僕じゃない。だってここに配達に来たのは今日が初めてなんだから」
「……なんだって?」
「だから、ここに配達に来たのは今日が初めてだって言ってるんだ。これまでは隣町を回っていたんだけど先輩が辞めてしまったからね。そこに映ってるのが辞めた先輩だと思うけど……」
マックスは何も言わないウィズを横目にポストへ朝刊を投函し、立ち尽くす彼を他所目に正確に仕事をやってのけた。油絵を貼り付けたような粘っこい明朝の空が見守る中、マックスは遅れを取り戻すために小走りでスクーターに跨りエンジンをもう一度掛けた。動かないウィズに対して彼は一言だけ吐き捨てた。精悍なマックスは青い瞳で真っ直ぐに見つめたが、視線が合うことはなかった。
「なんというか、前から少し感じていたけど、やっぱり君って『変わってる』ね」
寄生虫が脳を侵食した瞬間、鉤括弧はもうウィズから一生離れることはなく寄生し続ける。マックスは寄生されたカレッジメイトの顔を忘れることができなかった、形容し難い虚な瞳。もう誰もウィズに近付くことはなかった。
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