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ファッション徒然

序段

地方在住者にとって、ファッションはあまりに孤独な趣味である。洋服屋の絶対数も少なく、特に古着屋はろくに存在しない。大手セレクトが存在しない代わりに、あるのは妙に攻めたブランドをセレクトする個人ショップばかりである。ある程度知識がある者ならば、都心で即完売したような服やブランドの掘り出し物に出会える利点はある一方、初心者が直接見たり触れたりできる服の量も振り幅も少ない。結果、知識は極端な方向に偏っていき、服好きの基礎教養である基本的な仕様やディテールの名称、素材についての知識はほとんど持っていないにも関わらず、特定のブランドにだけ妙に詳しい狂人が生まれることになる。

そういう環境の中で、雑誌を読み、自分のしたいイメージを作り上げ、自分のためだけに褒められもしないクソ高い服を買い続け、着続けてきた。私のファッションへの関心は常に表層、10年以上ミーハーでいたに過ぎず、「他者からの評価をモチベーションとするファッション好き」でなければ、「モノとしての洋服に対する内在的な知識欲、所有欲をモチベーションとする服好き」でもないのである。一方でファッションへの関心は留まるところ知らず、洋服について腹を割って話したいと思う気持ちは日に日に高まって、如何ともし難くなった頃にTwitterと出会った。言いたいことが溜まったら穴を掘ってそこに吐き出していた平安朝貴族の如く、洋服やブランドについて考えている事をつぶやき始めた。始めたばかりの頃は「こんなんしばらくしたら話せること無くなるだろ」と思っていたら、あれよあれよと言う間に10年が経った。Twitterでは書ききれない心に移りゆくよしなしごとはnoteに書き付け、noteでも掬い切れないカオスはスペースで言い散らすなど、アウトプットの方法は多様になったが、本質的な所は何も変わっていない。このnoteも、そう言ったものの一端として書き記したものである。


第一段 「リセール」というノイズ

着用しない洋服を処分することが簡単な時代になった。一昔前、中古品を手放す方法というのは、知人に譲るか、古着屋に買い叩かれるか、燃えるゴミとして捨てるかしかなかった。趣味として洋服を購入してきた自分にとって、購入した洋服を手放すことは一種の屈辱・敗北感を伴った。5万円で購入した洋服が500円で査定される。これを陵辱と言わずなんと呼ぼうか。しかしそれは、己の罪。購入直後に感じた洋服の寿命まで添い遂げたいという思い、「エッチだってしたのにふざけんなよ」「ずっとスキだよって言ってたじゃん」という洋服の声、それらを裏切ったことの当然の報いなのである。

時代が変わり、メルカリ等の普及により、洋服の処分は格段に簡単になった。しかも、「価値ある」洋服には相応のリセールが期待できるようになった。このリセールという欲望は強烈である。なにせ、ブランドやアイテムによっては数回着用の新古品ならば購入金額の6~8割近く、10年近く前の洋服であってもそれなりのブランドならばブランド古着店査定の5~10倍程の金額を回収することができるのである。洋服たちが、現実的な金策に使える資源としての意味合いも持つようになったのである。

メルカリを利用するようになって洋服の向き合い方について大きな変化を二点感じた。一つはクローゼットに遊びがなくなり、入れ替わりが激しくなったことだ。かつては「着用はしないが、捨てるには惜しい服」が多数クローゼットにあったが、それが先述の理由で全て淘汰され、コンスタントに着用する服しか残らなくなった。新たに購入する服は、「今後着用し続ける服になるか、手放すことになるか分からない服」のカテゴリーに分類され、以降着用を重ねる中で残るか手放すかのジャッジを待つことになる。自分で書いておいて何だが、薄情過ぎやしませんかね。

もう一つはリセールという情報が、想像以上に着用時のストレス源になると気づいたことだ。リセールが高ければ、購入したもののうまく生活にマッチしなくなった服、則ち失敗した買い物による金銭的リスク(もとい罪悪感)が軽減できるが、その反面、手放すつもりが無い服にまで、このリセールの呪縛がチラつくようになってしまったのである。服に対して見出した価値とリセールが常に天秤にかけられているような感覚がノイズとなってスッキリ着られない。「ずっとスキって言ってたじゃん」から「美しいところだけ見て欲しいの」へ。恐ろしいことである。このリセールノイズに嫌気がさして手放した服も少なからずあり、服を手放した時に、安心している自分に気付いて戦慄した。リセールによる恩恵は、このノイズと等価交換だったのである。そんなこんなで最近はリセールの良いブランドは意図的に避けるようになった。値段が高いのにリセールが悪いブランドというものは、供給が安定しており、簡単にモノを手放さない熱心なファンが多数を占め、購入側も中途半端な中古を買うくらいなら新品を求めているブランドということだ。ヴェイランスでしょうね。

第二段 ベストバイより愛用品?

高級品を短期間で売却すれば、定価の3割程度の出費でそのものを「所有」することができる。品物を手放し易くなったことにより、高級品を購入することの敷居は大幅に下がったが、これは高級品を所有していることの価値の低下と表裏一体である。洋服とは個人のパーソナリティを色濃く反映するものである以上、何を選び、そして買っているのかというのは、多くの関心を集める話題である。しかし、「ベストバイ」として紹介したものが、翌月にはメルカリに並んでいても不思議でも何でも無いこの時勢においては、買った物ではなく「手放していない服」にこそ、その個人の趣向や思想が色濃く反映されたものとしての価値を持つ。と偉そうに言うものの自身のクローゼットを振り返ってみると、そこにあるのは「手放してない服」ではなく、「手放しそびれた服」と言った方がより正確である。そういう服はリセールが低く二束三文にしかならないし、たまに着るので捨てるつもりもない服。身も蓋も無い言い方をすると「地味で絵にならない服」なのである。「手放していない服」にバリューを提供できるのは、「いくら金を積まれても手放す気はないぜ」と言える服を所有するごく一部のファッション求道者だけである気がしてならない。時の流行をふらふら追い続けているだけのミーハーである私には非常に困難なテーマなのだ。

第三段 服はいつから自分のものとなるか

気に入った洋服を購入するのに大金を払うことを厭わない人間たちは往々にして「購入したばかりの服をいかに御するか」という命題を抱えている。ジーンズの例を持ち出すまでもなく、着用者にとって洋服は新品状態が最も優れた状態とは言い切れない。着用を重ねるということは、布が自分の身体に馴染むという物理的なものだけでなく、その服を「自分のもの」として統御下に置いたという心理的なものも多分に含んだもので、要は新参者に我が家の流儀を教育する行為に他ならない。これは、私が観測する限りでも「一緒に旅に出る」や「下着と一緒に洗う」などの比較的想像が及ぶ範囲のものから、「一緒に風呂に入る」とか「着用して自慰行為に及ぶ」といった集落が部外者にひた隠しにする奇習の如き行為まで、個人によって実にバラエティに富んだ教育方針をお持ちで大変味わい深いものである。ちなみに、私の場合はまず手洗いで洗濯し徐々に洗濯機へとシフトしていく「甘やかし」タイプである。これらの行為や日々の着用を通じて、洋服が着用者を理解すると共に、着用者もその服のことを理解していき、その相互理解がある程度完了すると、その服はそう簡単に手放されることは無くなるのである。(ここまで読んでお分かりだと思うが、気に入った洋服を購入するのに大金を払うことを厭わない人間たちは、どこか洋服を意識を持った主体として取り扱っている節がある)

では、その相互理解が完了したとする基準を定めることはできるのか。この問題について、スペースに参加いただいた筋金入りのオシャレボーイは「10回着用する」くらいではないかと喝破した。10回と言うと一見少なく感じるが、実用目的で購入した衣服ではない、所謂オシャレ着のワンシーズンの着用回数を振り返ってみると、決して少なくないことが分かり(週末に一度着たとしても2ヶ月弱。Tシャツやアウターなどの季節性の強い服ならば着用シーズンが終わる)、その慧眼には脱帽するばかりであった。なので洋服を購入するに当たって「10回着るか」という観点を用いると「ヤリ捨て」になる危険をある程度回避できるのではないだろうか。まあ、「一夜の過ち」も魅力的だとは思うが。

第四段 生活と趣味

洋服を趣味としているうちに、就職し、結婚し、子供ができた。この趣味を止めるには充分な生活スタイルの大変化であったが、私の場合は、寧ろこの現状とファッションを共存させることがモチベーション源となった。その結果辿り着いたのは、自分が好きな服を着る場面、時間を最大化するために、自分の生活スタイルに合う服が好きになる、という主客転倒であった。

生活の様々な場面のTPOに合わせてかつ、その状況に妥協せず服を選ぶ。子供との散歩にはプリントTにアクティブなボトムを。雨の日の買い物には高性能な雨具を。厳しい冬にも耐え得る防寒着を。誤解されがちだが、実用とファッションは必ずしもトレードオフであるとは言えない。子どもを抱っこしてよだれ塗れになったり公園遊びで砂塗れになったりする場面にドレッシーなシャツやジャケットはそぐわないが、デザイナーズのカジュアルなアイテムならば着用者の覚悟さえあれば問題ない。またそれらの服は、現実的な場面に即して選んだ服であるので必然的に着用回数も多くなり満足度も高い。そもそも用途に合う着方さえしていれば服はそう簡単に壊れないもので、高価だからといって着用することに躊躇する必要は無い。洋服が壊れていくより余程早いスピードで我々人間は老いていくのだ。

ファッションというものはそもそも生活に根ざしたものであり、ある意味環境の変化に適応させ易い類の趣味であると私は考えている。所謂コレクターのようにモノそのものに執着しているわけではないので、目の前に現れる必要性が変わればワードローブは一掃される。必要性に合わせて(例えそれが状況に対して明らかにオーバースペックであろうと)服を買っているので、配偶者を始めとした周囲の人間からの理解も得やすい。我が家では欲しい服と必要性をちゃんと説明できれば、購入を止められることも、嫌味を言われることもない。大変ありがたいことである。

第五段 過情報通販

ネット画像を見て鼻息荒く「購入」ボタンをタップした瞬間の熱量と、現物を見た時の「あれ?こんなものか?」という違和感とも落胆とも言える気持ちのギャップを最近妙に感じるようになった。現物を見る前の期待値を実物が超えてこないのである。

そもそも現物を手にした瞬間の高揚感のために洋服を買っているわけではなく、ファッションへの関心が減退したわけでもない。先述の違和感を覚えたとしても、その服とは普通に付き合うことができている(むしろ変な気兼ねすることなく使い倒すことができる)。
つまり、これは「現物」に対する要求水準が上がっているのではなく、モニタに映る画像やブランドイメージそのものに対して、私が過剰な幻想を抱くようになっていたということである。

ここ最近、実物を見るまでに得ることができる情報量が増えた。ここで言う情報量とは、たくさんの洋服についての情報を得られるようになったという意味ではなく、ある特定の洋服について「過剰な情報」が与えられるようになったということである。

高価格帯ドメスティックブランドの現在の有力な勝ち筋は、発信力のある小規模セレクトショップに商品を卸し、その店の看板店主にブログなどで雰囲気ある商品画像と共に素材やディテール、コンセプトを丁寧に紹介してもらうことだ。

センスある画像や蘊蓄を語る文章を用いて情報量を増やすことで、SNS上においてその洋服の「他とは異なるオーラ」を可視化しようとしている。これは、メゾンブランドが模倣され得ない権威の象徴であるロゴを前面に出すことによって、SNS上において差別化を果たしているのと本質的には全く変わらない営みだ。

こだわりの画像こだわりのコンセプトこだわりの素材やディティール…厄介なのは、それらの情報は実物から直接見て取ることができるものを遥かに超えた過剰さを備えてしまっていることだ。しかもロゴとは違い、いかにも実態を伴っているかのように偽装された虚構である。雰囲気ある製品写真をそのまま身に纏うことができると、こだわりのコンセプトがそのまま実物のオーラとして存在するかとしばしば読み手は誤解し、その虚構が購入の決め手になる。現物も見ていないのに、その服のことを知りすぎて期待しすぎている。
当然ながらその期待は梱包材を開き、ありのままの現物が目の前に現れた瞬間に打ち砕かれる。目の前にあるのが高品質な洋服であったとしてもだ。これが冒頭に書いた違和感の正体だ。

めちゃくちゃ趣味が悪いことは承知しているが、私はこれら高価格帯ドメブラの洋服をメルカリで見るのが好きだ。高尚なコンセプトもこだわりの素材やディティールもメルカリに並んだ途端、素人が撮影したのっぺりした画像と何とか高値で売りつけたい出品者の購買あおり文章によってその神性は剥ぎ取られ、剥き出しの商品となる。
洋服に「オーラ」を与えるあらゆる虚飾を剥ぎ取っている以上、逆説的ではあるが、実店舗に足を運んで直接見る商品よりも、メルカリの写真の方がその服の実像に近い、とは言い過ぎだろうか。


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