日本の終焉

この世界はどこかで大騒ぎしつつ、今までもそうであったように続いていくだろう。しかしそんな中で日本はどうだろう。

地震が起きた場所のニュースを見ると胸が痛む。先を生きなければならない、決めようのないことを決めていかなくてはならない残された人々こそ悲劇だから。こちらは外側から見ているだけで、可哀想がって、実はさほど生活は変わらない。こちらが被災してあちらが眺める側でも変わらないだろう。だから自分を責めるし許してもいる。

日本は輸入大国だ。輸入ラインのどこかが崩れるだけで、大騒ぎになるだろうし、事実なっているだろう。でも日本人は言わないのだ。家族にも言わないかも知れない。耐えられるだけ耐え、本当にダメになった時、急に社会的なニュースになったりする。それまで会社のトップの多くは手をこまねいていた訳ではない。抱えている社員のため、眠らず働いたこともあっただろう。この物価の上昇、働き方改革、自然災害、戦闘などは既に多くの会社に影を落としている。

住んでいる場所は本来なら物流トラックが週7日、24時間行き交う場所である。窓を開けていなくても、軽い慢性的な難聴だった。それがどうだ、4/1からトラックが全くではないが通らない。静かだ。静かにして欲しかった。でもこんな形ではない。休日、週末は本当に静かでソワソワする。以前の平時のまま静かにして欲しかっただけだ。いずれ早いうちにモノが滞りだすと思われる。

怖いのは、世界はなんだかんだで回っていくのに日本だけ力尽きる時だ。それでも世界のATMの役割を求め続けられるだろう。その時、近所の国はどう思うだろう。人命が軽い国ならどう思うか。そして終焉に至るにしても緩慢であろうということだ。拷問にも等しい。この場合の悲劇は日本人のほとんどが食料がなくなっていく中での飢餓を知らないことである。飢餓と溺死、どちらが苦しいだろうか。知らない。

台湾と日本は海の下で続いている。台湾以外も全て続いているが台湾は近い。台湾の地下のズレは必ず日本にもなんらかの影響があるだろう。台湾の地震が日本の揺れの前哨という可能性も充分あり得る。

誰だって普通の心を持っている人間はどうしても虫を殺さねばならないとき、動物を殺さねばならない時、眠るように、あるいは一瞬で眠らせようとするはずだ。

しかし我々には許されない。生きるため、これまでのプライドなんかなんの役にも立たない世界が迫っているのだろうか。そんな世界になっても心穏やかさが一秒でも続くよう今努力することができる。