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言葉にできないものこそ 『怪物』(ネタバレ)

監督:是枝裕和
2023年
126分

大きな湖のある郊外の町。息子を愛するシングルマザー、生徒思いの学校教師、そして無邪気な子どもたちが平穏な日常を送っている。そんなある日、学校でケンカが起きる。それはよくある子ども同士のケンカのように見えたが、当人たちの主張は食い違い、それが次第に社会やメディアをも巻き込んだ大事へと発展していく。そしてある嵐の朝、子どもたちがこつ然と姿を消してしまう。

映画.com

『そして父になる』『海街diary』『万引き家族』の是枝裕和が監督を、『東京ラブストーリー』『大豆田とわ子と三人の元夫』『花束みたいな恋をした』の坂元祐二が脚本を、そして今年の3月に他界した坂本龍一が音楽を手掛けたヒューマンドラマ。


本作は三幕構成となっており、それぞれの人物の視点から同じ出来事が描かれる。
①息子・湊が担任教師から虐待を受けているのではないかと疑問を抱くシングルマザーの麦野早織
②生徒たちと真摯に向き合おうとするがクラスで起こる問題に巻き込まれていく新任教師の保利道敏
③クラスメイトから加害されている星川依里と学校の外では交流を深めていく麦野湊

同じ出来事を異なる人物の視点から描いたものといえば、もはや「羅生門スタイル」という言葉もあるくらい、ひとつの殺人事件を巡って複数の人物の異なる証言を描いた黒澤明の『羅生門』が代表的である。
この黒澤の映画は、正確には芥川龍之介の『羅生門』と『藪の中』を足したものになっている。
ただ、本作『怪物』はその羅生門的なのかと言われると少し微妙なところで、これは映画『羅生門』のネタバレになるが、あの映画では異なる証言をした人々(盗賊・多襄丸、被害者の妻・真砂、被害者※巫女が被害者の霊を呼び出して証言を得るという、現代の感覚だとその証言有効なんですかと言いたくなる)の言ったことはどれもそれぞれが自分に都合のいい、見栄のための嘘であった。
一方、『怪物』で描かれたそれぞれの視点は、異なる立場から見ると受け取り方が変わってくるとはいえ、起きていることはどれも事実だろう。

『羅生門』より

こちらのフラストレーションが溜まる(ように狙って作られている)のが第一幕で、保利先生による虐待疑惑についてはっきりしない学校の対応に、こちらも早織と一緒になって苛々が募っていく。
そして第二幕、ホリセンこと保利先生パートになったところで、彼側の事情が分かってくる。
彼の「書籍の誤字を見つけて出版社に知らせる」という、何も悪くないし正しいことだけどそういうことに自分の時間使う?という絶妙な趣味の設定は、坂元祐二が描く人間らしい。

ちなみに第二幕で保利の人となりが分かったところで、だからこそ第一幕の彼の行動に疑問が残る部分もある。
例えば、いくら恋人が「焦った時に落ち着けるように」と渡してくれた飴でも、保護者が話している前で唐突に開封し舐め始めるだろうか(早織の逆鱗に触れることは分かり切ってる)、など。しかし、それこそが本作が観客に警鐘を鳴らす部分なのかもしれない。
人間の行動とは矛盾だらけで、時には想像の範疇を越えることがある。
あの人が○○をするわけがない、言うわけがない。
例えそう思うことがあっても、本当にそうだろうか。
私達は誰かのことをイメージで勝手に決めつけていないか。
少し話が飛ぶが、おそらく本作を観終わって一番しこりが残る部分として、なぜクラスの女の子は保利に嘘をついたのか(一度証言したことについて「そんなこと言ってない」と言ったのか)、なぜ保利が湊を虐待したり豚の脳発言をしたことになっているのかがあり、やけに保利が気の毒なことになっているのだ。
それも同様で、もしかしたら女の子は普段から保利に思うところがあって良い機会にちょっと先生を困らせたのかもしれない。もしくは特にあの発言に意味などないのかもしれない。
真相は定かではないが、どちらにしろ「子供があの状況で嘘を言うわけがない」「子供が大人を混乱させるわけがない」わけはないので、人間の行動の分からなさや説明のつかなさを描く本作だからこそ、全てがすっきりはしない作りになっている。
子供だって、未熟なところがありながらも立派にひとりの「人間」なのだ。子供を自分と同等の人間扱いしない大人は、痛い目を見ることになる。

確かに、保利は生徒たちとなるべく近い目線で寄り添おうとしている良い先生に見えるが、体育の授業での「男らしく」発言、トイレから出てきた男子生徒に「出たか?」と軽い感じで声をかける場面など、少しきつい表現で言うと無神経なところがあるようにも思える。

また、早織は車内で湊に「湊が大人になって結婚するまで頑張るんだってお父さんに約束した」と語りかけ、「特別じゃなくていい、"普通"の家庭を築いてくれればそれでいいの」とも続ける。
結婚が普通。
普通でいい。
普通って何?
まだ自分でもはっきりとは分からない、説明できない自らのセクシュアリティに何かが込み上げた湊は、走行中の車から思わず飛び出す。

予告では、坂本龍一の美しい旋律に続いてシューベルトの『魔王』が印象的に使われ、不穏な予感を与えている。
思えば、この曲は子供がずっとSOSを発しているが大人はそれに気付かない、最後になってようやく異変に気付いた時すでに遅し…という内容である。


是枝監督は、これまでも一言では言い表せないような、すぐには結論が出ないような、何とも言葉にできない気持ちになる作品を生み出してきた。
人間を白黒はっきり分けることはできない。
そこには100%の善人も、100%の悪人もいない。
第一幕で早織にとっての怪物とも思えた存在の校長は、第三幕で湊にとって救いの存在になるのだ。
ずっと「これは何の音?」と観客に疑問を抱かせていた金管楽器の大きな音の正体が分かる場面は感動的。

分からなさ、簡単に言葉にできないものについてこそ私達は考え続けるべきなのだろう。
安易にこの物語の登場人物について決めつけることはできないし、その「他者が勝手に決めつけること、カテゴライズすること」の危険性をこそこの物語は描いている。
一応ヒューマンドラマと前述したが、この映画は何を描いた作品ですか?テーマ・ジャンルは何ですか?と聞かれた時、一言ではっきり答えられるものではないだろう。

炎で始まるこの物語は、激しい雨と風、そしてそれが去った後の快晴で幕を閉じる。
大人たちのさまざまな思惑、怒り、悲しみ、後悔…それらに構うことなく、湊と依里の世界はあまりにも美しく、輝いている。
本作をつくった者たちの願いのようなエンディングである。
この終わり方は、以前是枝監督が子役の演出について述べていた作品も思い出した。

黒澤の『羅生門』も、人間は嘘ばかりで本性は醜いものであるが、せめて子供が生きる未来には希望があって欲しいと願うラストになっている。
自分たちより若い世代が生きるこれからの世界は、今よりも良いものであると信じたい。
自分たちの世代にある苦しみに悩まされない、壁を感じることのない世界になって欲しい。
想うに、希望というものは一体所謂「ある」とも言えないし、所謂「ない」とも言えないものだ。それはちょうど地上の路のようなものである。本当を言えば地上にはもともと路はあるものではない、行き交う人が多くなれば路はその時出来て来るのだ。…なんて、魯迅の『故郷』と同じようなメッセージを私はこの作品から受け取った。


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