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詩に至る病

異国の街のある民家で
スイスからやって来た
十七歳の女の子と出会った
彼女はその家で暮らす猫に
プシプシーなんちゃらと
声をかけていた
彼女の母語で
猫には通じるのだろうか
わたしたちは誕生日が同じだった
たまたま一緒だった
それを知った彼女は
 お互いの誕生日に手紙を送ろう
 約束だよ
と言った
翌年の誕生日
ほんとうに彼女から手紙が届いた
筆圧の強い青で
彼女の近況について
二枚の紙が埋まっていた
うれしかった
わたしは約束を覚えていた
誕生日が近づくころ
彼女の手紙を受け取る前に
その約束を思い出した
でもわたしは約束を果たさなかった
せめて返事を書こうと思いながら
数日が過ぎ、数ヶ月が過ぎ、数年が過ぎ、
数十年が過ぎた
今でも思い出す
わたしは約束を果たさなかった
彼女は今どこで何をしているだろう

異国の街のある大学で
留学中の友人と落ち合った
彼女は学生寮にわたしを招き
その国のスープをつくってくれた
キッチンに
他の学生さんが入ってきた
背が高くて色白で
黒髪のショートカットが波打つ
なんとなく落ち着いた佇まいに
ちょっと見とれてしまう
あいさつして、聞いてみた
 あなたはどこから来たの?
  私?  シリアから
その口角がさり気なく上がり
また見とれてしまう
   あんたシリアってどこか知らんやろぉ
友人のスープをつくる手が止まる
そのときシリアという国について
ほとんど何も知らなかったわたしは
シリアから来た彼女に失礼のないように
テキトーに知ったかぶりをした
友人と別れてから
辞書に載っている見開きの世界地図で
シリアの場所を確認した
わたしは子どものころから
地理が苦手だった
でもシリアがどこにあるか
覚えておきたいと思った
でもまたすぐに忘れてしまった
それから何年も経ち
シリアの映像を頻繁にみるようになった
辛かった
あの彼女は今どこで何をしているだろう

異国の島のある宿で
ひと月の間を過ごした
二段ベッドのわたしの頭上に
ロシアから来た女性が居た
白く細く長い脚が降りてきたので
声をかけてみた
 ハロー
蒼翠の目も、薄い唇も、
ぴくりとも動かない
 ……
      ……ハロー
ちょっとこわかった
数日後の夜
宿の食堂でたまたま彼女と同じテーブルになった
向かいの席に着く彼女に
また声をかけた
 ハロー
  …ハロー
蒼翠の目がわたしをじっとみた
  あなたは日本から来たのでしょう?
  私は日本文学が好きで
  特に好きなのはコボアベ
(コボアベ……? 
 コボ…アベ…?)
 ……
 あ、安部公房ですか!
 よく知ってますね
彼女の表情が動くことはなかったが 
それからは彼女のことを
あまりこわいと感じなくなった
頭上から
  グッドモーニング
と聞こえてきた朝は、少し雑談した
ずっとカーテンが閉まっている女だらけの部屋は
朝でも薄暗かったが
彼女の金髪はやんわりひかっていた
彼女は今どこで何をしているだろう

同じ宿の同じ食堂で
アメリカから来た青年と出会った
とても気さくでなんとなく賢そうな彼の
メガネの奥の瞳は澄みきっている
  君はどうしてこの国に来ることにしたの?
わたしは
この国の映画が好きで
この国で映画の勉強がしたくて
そのためにまず
この国の言葉を勉強していることを
彼に伝えた
  へぇ! そうなんだ!
  僕もこの国の映画好きだよ
  でもそれって日本で勉強できないのかな
  この国の言葉って難しいし
  僕は大学で
  キルケゴールの勉強をしたけど
  わざわざデンマーク語を学ばなかったな
  英語で勉強できたから
  でも君ははるばる日本から
  言葉の勉強までしに来たんだ
  えらいなぁ

「キルケゴール」
デンマークの哲人と
高校の倫理で習ったので
なんとか聞き取れた名前
パンチのある本の題名も、試験に出た
そう言えば、一度読んでみたいと思っていた
難しそうだけど
帰ったら日本語で読んでみよう
あれから数十年が過ぎた
わたしはまだその本を読んでいない
一頁も読んでいない
英語でキルケゴールを勉強したという彼は
今どこで何をしているだろう

今、どこで、何をしているだろう


 

最後まで読んでくださり多謝申し上げます。貴方のひとみは一万ヴォルト。