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他者に理解される意味、自分だけの価値

世の中に"意味のあることがある"という前提にたつと、"わかりやすい意味のあること"の代表例としては"人の役に立つこと"や"人により価値を感じさせるもの"、"お金"などがそれがあたると思う。

そういうものに意味があると思いこんで、我々は経済活動を行っている。でも時々、特に精神的にやられているときに自分がこれをやる意味とはなんだろうみたいなことを考える。

ここでいう"意味"という言葉には、2つの方向があるのではないかと考えた。

1つは、"所属組織にとって社会にとって"自分がやっている活動は何か価値を与えているのかという外向きの方向、もう1つは、"自分にとって"この活動がどんな意味を持っているのだろうかという内向きの方向。(後者は最終的に”意味”という言葉を使わないこととしたいが、一旦意味という言葉を使うことにする)

これについて考えたい。

外向きの意味、これは大多数の人が価値を理解できるもの、客観的な価値基準が可能なものである。
つまり、これを求めるのは自分という存在の価値を、他者に理解してほしいという願望の現れなのではないかと考えた。
自分は仕事において価値ある活動ができる人間でありたい。人より豊かな暮らしを送りたい。
この事自体は、社会的な生き物として当然の思考だと思う。ただ、そこによりどころを求め過ぎると価値基準が自分にないため、自分がそこに至れないと気づいたときに辛いことになりそうである。
学歴厨はこの代表と言えそう。

次に内向きの意味の方だが、これは主観的なものの見方で、突き詰めると自分にしかわからない面白さ・価値、大多数が理解できる意味から離れたものである。
「"自分にとって"この活動がどんな意味を持っているのだろうかという内向きの方向」という言葉で内向きの意味の話を始めたが、この時点ではまだ多く他者と共有可能な外向き成分の意味が残っている。
例えば、自己成長というものの根底にあるものが、金銭的なものや打算的なものである場合である。
そういったものを取り去って最後に残るものは、理由を他者に説明できないその人の根源的な部分、もしくはそこに存在するそのものの面白さである。
これが、ここで紹介したい内向きの意味のことである。
これの辛いところは、突き詰めると他者と共有できないところにある。また、危険な思想のその自己相似的な魅力にはまり込むと破滅する。

筆者はエンジニアだが、プログラミングは何かを成し遂げる道具でしかないみたいな言説をよく見かける。そういう言説は、目的がはっきりしていないといけないみたいことが書いてあったりする。これは前者の外向きの意味に重点が置かれた話であると理解できる。
一方でプログラミングそのものの魅力からどこまでも探求できる人もいる。これは後者の内向きの意味を追求していくことと理解できる。

「内向きの意味を追求していく」ことには、実際には意味がない。他者と共有できないし、理由もない。自分だけの意味づけとは言えそうだが、ここでは意味という言葉を他者と共有可能な価値基準という、これまで説明してきた外向きの意味の意味合いで使っていきたい。
では、内向きの〜に対しては、自分だけの価値と一旦名付ける。

では、この意味を追求していくことと、自分だけの価値を追求していくのがどちらが正しいのか、どちらが良いかという話になりがちだが、これは優劣ではなく、自分が各々の場面で生きやすい丁度よいパラメータを見つけていくものである。
程度問題かつその程度は人や場合によって異なる。

そして、このパラメータを見つけていく営みが、人生かつその人にしかわからない価値なのだろうと考える。
この自己相似的な関係が面白いところである。

ここまで、持論を展開してきたように見えるが、これは上野雅也さんの、センスの哲学という書籍で述べられている考え方を自分なりにアレンジしたものだと思っている。


この本の中で芸術作品の見方の話が印象に残っていて、私は元々芸術鑑賞は作品を作った作者の背景からその意図を汲み取る見方をするものと思っていた。
そうではなく、純粋にその作品そのもので行っている表現やそこから感じた自分の感情を大切にしてもよいという考え方をしてもよいのだと思えた。

前者は作品と作者理解の意味の追求、後者は作品そのものに在る自己相似的な魅力の追求だと思う。

互いに相反するものであるが、お互いが存在しているからこそ意識できるものという関係であり、やはりどちらが優れているという話ではない。

極端なところに答えはなく、自分の中のちょうどいいところの答えを探していく。その過程を楽しむ。これくらいで人生はよいのではないか。と最近思うのだった。

あとがき

ChatGPTに上記の文章を考察してもらった。


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