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適応障害とわたし@2020/5/23

一度、夜中に目が覚めてから朝までちゃんと眠れていただろうか?そう不安に思ってしまうほど、朝の目覚めは悪かった。
スマホで時間を確認すると6:30。週末に起きる時間としては早すぎる。でも12時からネイルサロンだし、今夜はラジオ初放送の日。放送前の準備や最終チェックが必要な作業もある。
だからといって、休日の朝っぱらから早起きして作業に邁進するエネルギーは今のわたしには無い。昨日の金曜ロードショーの「名探偵ピカチュウ」は観たかったけれど、もう夜更かしする余裕がないほど疲れきっていた。別に観てなくても死にやしない。そう言い聞かせて睡眠薬を飲んだ後、少し読書してから眠りについたのだった。

結局、そのままスマホを枕元に放って二度寝した。いや、今日は珍しく三度寝してしまった。
7:10くらいに目が覚めて「まだあわてるような時間じゃない」と思い、再びまぶたを閉じた。
で、最終的に起きたのが8:30キッカリ。体が「起きるなら今だぞ!」と叫んでるような声が聞こえたので、素直に体を起こした。

カーテンを開けると、やっぱり今日も曇り空。そのかわり、昨日より青空がところどころに見えていていた。たったそれだけのことだけど、少しだけ仕事へのモヤモヤ感が薄らいだ気がした。

顔を洗って朝のストレッチ。もう1ヶ月くらい続けているのに、まったく体に肉がつかない。変わったことといえば、足の指を自力で広げられるようになったことくらい。以前は全然、足の指でジャンケンのパーに広げられなかった。無理に広げようとすると痛いくらいだった。
昔、何かの番組で「足の指がパーに広げられないと、老後に歩けなくなる」とか言ってたことを思い出した。そう考えたら、朝のストレッチは全然無駄じゃなかったんだな、と思えた。

朝食のプロテインを飲んだ後、ネイルサロンの時間まで読書して過ごすことにした。
今読んでいるのはV・E・フランクルの「夜と霧」。昨日、読破した五木寛之氏の「大河の一滴」の中で触れられていたことと、大学生時代に中途半端に読んだっきりだったので改めて読むことにした。
心理学者である作者が、アウシュヴィッツ収容所で生活していた当時を心理学者の目線で、時には1人の人間として語られた一冊。わたしは正直「アウシュヴィッツ」という語だけで恐怖を感じてしまう。だからこの手の本や番組などは苦手だ。
けれども人間が究極的なまでに追いつめられ、それこそ他人の「死」を目前にした時、人の心や精神はどう変貌してしまうのか?その疑問を明らかにしたくて本を手にした。

読んでいる途中、何度も目を背けたくなる描写や被収容者の言葉が次々と出てきた。それでも読むのをやめなかった。やめられなかった。こういった事実が歴史上に存在していたことを、自分の中で軽々しく「こんなにひどかったなんて知らなかった」で終わらせたくなかったから。
一度読んだだけでは本の内容を飲み込みきれないだろつ。受け止めきれないだろう。だからこそ何度も読み返す努力をしなければならないと、出かける直前に自分に言い聞かせた。

ネイルサロンに行くと他のお客さんは1人もおらず、途中まで貸し切り状態だった。やっぱり人の手に触れる場所は行きたがらないんだなぁ、と思った。でも駅前には人の数がこれでもか!というくらいに溢れかえっていた。駅前のショッピングセンターは休業中なのに、一体みんなどこに出かけるんだろう?と不思議で仕方がなかった。
サロンのお姉さんは最近まで「あつまれ!動物の森」をやっていたけど、友達がいなくて自分の島に来ないからつまらなくて飽きてしまったと残念そうに話していた。心の中で「めっっっちゃ分かるっ!」と思ってしまった。

ただでさえ友達が少ないわたしにとってSNSは、時に心の支えや拠り所になる。けれど、中には弱い人間を標的に冷酷な言葉で詰る人をたくさん見かける。顔が見えないのをいい事に、自分の支配欲を満たすためにSNSを利用しているのだ。
だからと言って、そんな心ない人たちに「今すぐ止めろ」とか「自分がされて嫌なことはするな」と言うつもりは毛頭ない。その人は、自分の悩みや鬱憤の晴らし方が分からなくて、ただ空回りしてしまっているだけだと思うから。

世間はネガティブよりポジティブを良しとする。
「笑う門には福来たる」
「口角を上げていれば脳が嬉しいと勘違いする」
「いつも笑顔でいなさい」
「泣くのは弱虫のすることだ」
「降りかかった不幸は良いことだと捉えなさい」
「ネガティブなツイートは見たくない」
あなたは宗教団体”ポジティブ教”の信仰者ですか?と食ってかかりたくなる。

人間には感情がある。喜怒哀楽がある。喜び、怒り、哀しみ、楽しみ。すべての人間に平等に備わっているもの。喜びと楽しみはポジティブ。怒りと哀しみはネガティブ。この二つの糸が縒り合わさって、はじめてわたしたちは人間になる。
ポジティブな糸しか持たない存在、それはポジティブな言葉しか紡げないロボットだ。

わたしはネガティブや不幸のどん底に突き落とされた人間ほど、その先で得られるものに計り知れない輝きや強さが宿っているのではないかと思う。しかも、決してポジティブな人間には見えない何か。
自身のネガティブを見て見ぬふりをする人間は、時として大事な何かを失うだろう。それは、人間関係かもしれないし、お金かもしれないし、自身の健康な体かもしれない。

ネガティブとポジティブを行ったり来たりしながら、今日もわたしたち人間は生きている。
でも、たまにはベッドに四肢を投げ出して、「今日の自分はほんとうにダメだったなぁ」とネガティブに思ってもバチは当たらないと思う。
大丈夫。そのネガティブはネガクイちゃんがおいしく食べてくれるから。

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