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【展覧会】森村泰昌:ワタシの迷宮劇場|京都市京セラ美術館/お前は何者だ?

去る5月2日、京都市京セラ美術館で開催されている「森村泰昌:ワタシの迷宮劇場」に行ってきた。

もともとこの日に、この展覧会を見に行く予定はなく、京博で開催されている伝教大師1200年大遠忌記念 特別展「最澄と天台宗のすべて」を見に行く予定だった。

空海と最澄について、軽くCOTEN RADIOで学んだ後だったので、結構楽しみにしていたのだが、なんと当日は休館日。会場までいって気づくというなんとも情けない話。

七条まで行ってその事実に直面し、どうしたものかと思っていたが、この日は文プロモードだったので、近くの京セラ美術館まで足を運ぶことに。

この時点で、何を見るのかは特に決めていなかった。

道中間違って、蹴上まで行ってしまい、そこから歩いて東山、京セラ美術館へ。この付近は過去何度も来たことはあるが、まじまじと京セラ美術館を見るのは初めてだった。というか、意識さえしていなかった。

これも東京にいた2年間で世界が拡張されたということだろう。これまでまったく興味がなく、視界に入ってすらいなかった場所が、今は目的地になっている。本当人生は不思議であり、パースペクティブイズエブリシングである。

そんなこんなで、京セラ美術館の前でネットでポチポチして、なんとなく、この森村氏の展覧会に決めた。特に理由はないが、しいて言えば、現代アートっぽいものをみたい気分になっていたというくらい。

入口には、ご挨拶があった。まじまじと読む。なにせ何の前情報もないのだ。森村氏のことも本当に何も知らない状態。どういったアーティストなのか、何歳くらいの人なのか、それすら知らなかった。

ここで、セルフ・ポートレートなる手法で作られた作品展示だということを知る。なるほど、初めて見る類だ。そして、文章からはどこかおもしろおじさん感が溢れている。

ということで、ドキドキしてから中に入る。

高尚は感想なるものは書けないが、あくまで素人の僕が感じたこと。

非常に奇妙な空間だった。不気味でどこか怖くて。ただ、その居心地の悪さのようなものが森村氏の芸術性なのだと思う。

横尾忠則氏の作品を見たときと感じたものが似ていたように思う。表現力が乏しくて辟易とするが、ある種の気持ち悪さや不安定さがある。

それは、ある種非日常的なものに接しているから感じるものだとも理解している。

自身が誰かに扮装する。特定の誰かの場合もあるし、まさにイメージした誰かの場合もあるだろう。迷路のような空間に小さなセルフ・ポートレートがペタペタと貼られている。

自分とは誰なのだろうか。他者になりきることによって、またその姿を自ら写真で写すことによって、それを探求しているのではなかろうか。”普通の人”がやらないような扮装。女装や露出。もっと奇抜なものもある。

彼自身が自己を探求するその姿こそが作品であり、芸術なのだ。その写真自体は、過程でしかないのかもしれない。

僕たち鑑賞者はそれを見て、自分の中に眠るもう一人、いや、もう何人もの自分の存在に気づくのかもしれない。だからこそ不安に、気味悪く感じるのだ。

僕がもし同じようにセルフ・ポートレートで自身を写すのならどんなことをするだろうか。誰にも知られていない自分。見せたくない自分。

文化芸術というのは、つくづく表現活動だと思う。それも、ある種の狂気に満ちた表現活動だ。鑑賞者は、その表現を見て、自身の理性の存在に気づき、また、本能の存在を知ることになる。それが人の心を動かす。

非常に刺激的な体験ができた展覧会だった。

レポでもなんでもないが、やはりこの手の展覧会は面白い。世界の拡張。僕の知らない世界はまだまだ多い。

京博、京セラ美、京近美、あと、滋賀県立美術館にも行ってみたいな。引き続き、定期的に文プロ活動は続けようと思う。


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