【読書感想文】流浪の月/凪良ゆう
気持ちの良い読後感ではないが、この感じが僕は大好きだ。
久しぶりにそんな作品に出会えた気がする。いつもの如くどのようなタイプの作品か一切知らずに、何かの拍子にデジタルデータで購入していた本書を手に取った8月。
文と更紗、そして梨花の物語。あまりにも悲しい。ただ悲しいというのは僕の欺瞞であって、当人たちにはただの迷惑でしかないだろう.それがわかっていてもなお、僕はそれすら含めて悲しいと感じている。
◯感想
これを読んでそれなりにものを考えてわかった気になっている自分は愚かなのだろう。
このような物語を読んで「面白かった」という感想を抱くのは間違っているだろうか。
可哀想という言葉では片付けられない。理不尽でもない。仕方ない。こういってしまうと元も子もないが仕方のないことなのかもしれない。
これは小説で作り話だ。でもきっと似たようなことがこの世の中には多くあるのだろう。そう思う時に、僕は「リアル」という言葉で表現するのだろう。僕はどうもこの「リアル」というものが好きなのだ。
このような他人の不幸(あえて、不幸という表現を使う)の物語をなぞって、高尚な何かをわかった気になって、「面白い」というのは実に卑しいことだ。
それでも、僕はこれらの物語を「面白い」と感じてしまうのだ。魅力的なヒーローが現れる勧善懲悪の物語よりも、素晴らしいトリックが施されたミステリーよりも、他のどんなわかりやすい物語よりも、この「リアル」さが好きなのだ。
どうしようもない。仕方のない。それらを受け入れていく登場人物たち。物語を通して、描かれるどうしようもない多くの物事。
世の中は単純ではない。いろんな人がいろんな状況で、いろんな役割を演じながら、全てを自分の都合の良いように解釈し、意識的か無意識的かに関わらず、自分が正しいと思うことを選択するようになっている。
そこに登場する相手の気持ちはもちろん、自分の都合の良いように解釈されたものにすぎない。結果的には、誰もが相手のことを思って行動している。
ただそれが本当に相手のためになっているとは限らない。自分の都合の悪いことが相手が望んでいるようなこともある。むしろ社会においては、こちらの方が多いだろう。
可哀想な人に出会うと、誰かに話したくなったりすることも単なる下世話な趣味の延長線だろうし、都合の悪いことを改変して誰かに話すことも、自分が間違っていないことを誰かに話すことによって正当化(事実化)するためだろう。
実に卑しい。こういった卑しさを正直に誰かに伝えることは難しいのだろうか。これはかなり難しいだろう。
人はそれぞれ秘密を抱えて生きている。きっとそんな秘密がない人は救いようがないほど、つまらない人だ。みんなが秘密を持っているにも関わらず、その秘密を持っていることすら隠しながら、うまく生きている。
そうやって、社会はうまく回っているし、そうしてこそ成り立つものなのだ。
誰も自分のことを理解してくれないと嘆く阿呆がいる。では、いったいあなたは誰のことを理解しているのだろうか。自分は他の人のことを理解していると思い込めるほど、傲慢な人間には、きっとそのような秘密などないのだろう。
だからこそ、お互い簡単に分かり合えると思ってしまうのだろう。見せかけの交友関係を本当のものだと思ってしまえるくらいにはおそらく幸せなのだ。
ただ一人でも自分のことを理解してくれる人を、ある程度はさらけ出せる人を人生において見つけることはとても幸福なことなのだと思う。
文と更紗。そして、梨花。不幸な彼らが不幸ではないのは、きっとお互いがそれぞれの傷を分かり合えるほど、傷ついているからだろう。
正欲(朝井リョウ)に似た感情。誰かのために何かをするという上辺だけの虚しさと迷惑。簡単に誰かを理解することなんてできない。
物事は常に自分の都合の良いように解釈される。これはもう仕方ない。だからといって、何もしないということでは、何も変わらない。
想像力を持つ。その上で自分の正しいことをする。それが間違っていようと、もうそれは仕方のないことなのだから。
それでも、健全に想像力を鍛えること。このような物語を面白いと思える自分に酔いながら。
◯あらすじ
自由を絵に描いたような母親とそんな女性に惹かれた父親。いわゆる「普通」ではない家庭に生まれ育った更紗。更紗はそんな普通ではない両親が大好きだったのだけれど、父が他界。そして、母親は更紗を置いて他の男性と出て行ってしまう。
1人になった更紗は親戚の家に預けられることになるのだが、もちろんここは普通の家だった。つまり、夜ご飯に食べたいからといって、アイスクリームを食べるような家ではなかった。
ただ、その程度の彼女にとっての不自由はそれほど苦痛ではなく、自身の境遇を考えればある程度仕方のないことだ、と割り切る考えができるくらいには更紗は充分に大人であり、客観視できていた。逆にいうと、自身の感情を押さえつける癖がついていたのかもしれない。
母親が自分をおいて出ていったとしても、母親の選択を尊重し、それを当たり前に消化してしまう。そんな彼女はおそらく感情を発露させることができなかったのかもしれない。
ここの生活において、本当に苦痛だったのは、少し歳が上の従兄弟からの性的暴力に他ならない。当時9歳だった更紗にはそのことを相談できる相手すらおらず、ただただ嫌な日々が蓄積されていく。
ある日、学校の友人と公園で遊び別れた後、1人公園に戻り、読書をしていたところ、急な雨に打たれる。すでにこの時には限界がきており、雨に濡れることよりも従兄弟の家に帰る方が嫌だった更紗はそのまま雨に打たれ読書を続ける。
そんな更紗に文字通り傘を差し出したのが、大学生の文であった。家に来るか、と問うたところ、その返事は文の予想を大きく裏切り、イエスであった。
そこから、文の家での二人暮らしが始まる。不自由さとは真逆の空間。更紗の我儘を受け入れる文。それによって変わっていく文を観察することが楽しくなってくる更紗。まさにそこは彼女の新しい居場所になる。ありのままの自分で入れる場所であり、それを受け入れてくれる空間。
何よりもあの不快な従兄弟から隔絶された空間。ただ当たり前として、更紗は行方不明者として全国に報じられることになる。そんなこととも隔絶された文との生活。
規律的に正しい生活を過ごしていた文は段々と更紗に影響を受けて、更紗の色に染まっていく。布団に寝転がってピザを食べたり、寝坊をしたり。そういった侵食は文にとっても新鮮であり、2人はこの空間をお互い楽しむ。
半年くらいが経過したのち、ふいにニュースで流れた動物園のパンダを見て、見にいきたいという更紗。その要望に応える文。生活を始めてから初めての外出をする更紗。
油断。あまりにも不注意すぎる言動。動物園にて、更紗は来場客にその存在を気付かれ、警察に連行される。もちろん文も。あっけない幕切れ。2人の自由な白いお城での生活は崩落する。
「誘拐」期間における取り調べのようなものを受けた時、更紗は文を悪くいうようなことはしなかった。ただ同時に彼女はどうしても自身が文に着いていった本当の理由を言う事ができなかった。
その後、従兄弟のいる家に戻った更紗は再び性的な嫌がらせを受けことになるわけだが、彼女に失うものはもう何もなかった。ただそれでも従兄弟から受けた嫌がらせを誰かに口にすることはできない。仕方なく彼の頭を思いっきり瓶で叩きつけることにより、親戚家での生活は終わり、施設に送られることになる。
その後は、誘拐事件の被害者であるという過去を背負い続けるが、どこかひっそりと人生を歩む。
頼る身よりもいないため、アルバイトで働きながら恋人と同居し、生計を保つ。しかし、恋人たちも同僚も付き合う人たちは皆、更紗に対し、当時の事件で深い傷を負った人間として扱う。それをある種仕方のないものとして受け入れる更紗。
決めつけ。自分が彼女の穴を埋めてあげる。更紗の全ては、当時の事件と勝手に紐付けて解釈され、可哀想な被害者として、彼ら彼女らの自己満足の穴を埋めるために消化される。
だって、彼女は当時の事件で深い傷を負っていて、それを今も引きずっている可哀想な人なのだから。
ある種の歪んだ愛情のようなもので更紗を束縛する亮くん。不幸な自分だからこそ自分よりももっと不幸な更紗を持つことで安心する。
そして、文と更紗は文が経営するカフェで再会を果たす。文に気づいた更紗はカフェに通い、彼女の生活は変化する。一方、文は彼女に気づく素振りを見せない。
暴力と出会い、執着と償い。本能と理性。さまざまな感情と展開により、2人は再開することになる。
知り合いのシングルマザーの一人娘梨花。彼女もまた普通ではない登場人物の1人。彼女の存在が心強くて儚くて、感情の整理が難しい。
そして、2人は恋愛とはまた違うカタチで生きていくことを決意する。いつまで経っても、過去の事件は2人について回る。
最後に描くのは希望なのかもしれない。
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