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A night in CINE-MA IV 【前編】想像力の労働、その話の続き

中山英之(建築家)+濱口竜介(映画監督)

TOTOギャラリー・間「中山英之展 , and then」
ギャラリートーク「a night in CINE-MA」4

表紙写真=© TOTO GALLERY・MA

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想像力の労働とは

中山英之──まず、「想像力の労働、その話の続き」という今日のタイトルについて簡単に。このa night in CINE-MAでは、第2夜目に建築家の藤原徹平さんにお越しいただきました(記事はこちら→[前編][後編])。そこで話題に挙がった「漂流する映画館・5 windows」が、僕が濱口さんと最初にお会いしたきっかけです。関連企画として「都市と身体と映画と空間を巡る7つの対話」(2011)と題されたトークシリーズが組まれたのですが、そこに2人を呼んでいただいたんですね。自分が何を話したのかは記憶がおぼつかないのですが、濱口さんのお話は鮮明に覚えています。特に印象に残っているのが「映画とは想像力の労働である」という言葉。映画を観るとき、私たちは果たしてそこにあるものを見ているのか、それとも……っていうような、とってもスリルのあるお話で。ただ、トークイベントってたいてい、はじめは手探りなのが、徐々に互いの話が頭に入ってきて、さあここからっていう時に時間切れになってしまうんですよね。
なので今日は、お話の続きを聞けることが楽しみで仕方ありません。
贅沢にもこれから約1時間、濱口さんがご自身にとっての映画について、ミニレクチャーを準備してくださいました。ウキウキが止まらないですよね。濱口さんはなんとぼくの展覧会に2回も足を運んでくださったそうなので、そのことについてもぜひ伺ってみたいと思っています。では早速ですが濱口さん、よろしくお願いします。

濱口竜介──ありがとうございます。建築のトークということで最初に白状しますと、私自身は建築について本当に何もわかりません。なので中山さんと最初に話した時は不安が強かったんですが、「想像力の労働」という話をしたときに中山さんが強く反応してくださって、それでとても大事な人に出会っているのかもしれないという印象を持ちました。今日呼んでいただいて話の続きができるのをうれしく思っています。ちょっとだけ概要は言っていただきましたけれども、想像力の労働とはどういうことなのかを、その時にも流した映画をまず見ていただいて、その続きから入りたいと思います。
これからお見せする映像は、ある意味で奇妙な、でも多くの人はそんなに奇妙に感じないかもしれない映像です。ただ、奇妙に感じてもらうためにも、最初にひとつ想像をしておいてもらったほうがいいかもしれません。一般的な映画の、ごく平凡な本当につまらない一場面。男女が2人立っているとしましょう。映画だと観客席から画面に向かって右側を上手(かみて)、左側を下手(しもて)って言いますけれども、上手に男性が、下手に女性が立っているというのを1カット目として想像してください。カット2、男の表情。男は画面下手側に目を向けている。カット3、女が写る。女は上手側に目線を向けている。このとき、何を想像されますか? ほとんどの観客はこの男女が、見つめ合っていると想像すると思います。これは本当に映画の基本的な構法で、9割方の劇映画はこのやり方を使ってできています。この2つの視線を合わせるとまるで2人が見つめあっているかのように見え、それを想像上の線、イマジナリー・ラインと呼んだりします。そしてここでポイントになるのが画面の外です。フレームの外、目線の外ですね。それは映画にとって、想像力を使うことを促す空間なのです。
それで、ここから問題の映画を観ていただきます。ロベール・ブレッソンというフランスの監督の遺作『ラルジャン』(1983)の冒頭の場面です。 

(『ラルジャン』抜粋上映)

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何ということはないシーンと思われるかもしれません。ただ、これは普通の映画づくりと比べると随分奇妙な場面です。先ほど想像いただいたような普通の映画だと、最初に位置関係をはっきり示してくれるので想像力を肩代わりしてくれる。だけれども、この映画ははっきりと示されておらず、空間が断片化したまま提示されてている。『ラルジャン』はいきなりヨリから、いわば画面外への視線から入っていきます。冒頭、息子は上手側を見つめており、次のショットで父親は下手側を見ている。この点では、セオリーに従っていると思えるかもしれませんが、空間の表象はこの時点で一般より過激であり、以降ますます過激化していく。空間の断片化の度合いが上がっていくんです。簡単に言えば更にヨリで撮られる。次のショットでは2人が1つの構図に収まる。位置関係を具体的に示していると言えなくもない、のですが、これがより空間を断片的に捉えた「手と手でお金を受け渡す」クロースアップで誰が誰かは判然としない。ただ父親のいた上手側から、息子のいる下手側に向かって、金銭の受け渡しは行なわれます。次のショットでは、まさに2人の位置関係は比較的広い画面で示されますが、ここまで息子の移動するさまは示されておらず、いきなり先ほどは父親だけだった構図の中、下手端に息子が突っ立っているので、少しぎょっとなります。そのショットで息子は下手方向にフレームアウトし、また2つの空間(ショット)に分かれた形で、父と息子の切り返しがなされます。ここでは、空間は一貫して過激に断片化されて提示されます。ただ、理解の手がかりはあって、それは視線の方向性とアクションの方向性です。基本的にこの方向性が乱れることはほとんどありません。上手を見ている息子はずっと上手を見ているし、下手を見ている父親もずっと下手を見ている。ですから想像すれば、空間内で誰がどのように位置しているかという状況かは一応、わかります。『ラルジャン』は、もしくはロベール・ブレッソンの映画とは、一般的な映画よりもはるかに想像力への労働の負荷を求める映画です。観客が想像しなければ、この映画の描く状況がどういうものなのか把握できない。そのとき、大袈裟に言ってしまうと、観客は、映画の一部である。というのは、想像上の空間が踏破されることによってのみ、このシーンは存在する、と言ってもいいからです。観客はつくり手のひとりとして招かれている、というと聞こえはよいけれども、観客の想像力が、映画をつくるための建材のようなものになっているとも言えます。はっきりとその位置関係が示される部分がないにもかかわらず、それを我々が補完をしているということは、この映画のために奉仕をしている、労働をしているっていう、そういう状況になっています。

フレームの外

濱口──そんな話をしたところで、次の映画を見てみましょう。エドワード・ヤン監督の「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」(1991)です。ちょっと前にリバイバル上映されたものなんですけれど観ている人いますか?

(会場手が挙がる)

ああ、素晴らしいですね。こちらの映像の中では、主人公の少年・小四(シャオスー)は、家の押し入れにこもっています。そこが彼の安息の場所になっているようにも見える。前のショットに写っているのは彼の両親です。彼の両親が居間で話している声がこの押し入れの中に響いている、という場面です。このシーンにおいて、『牯嶺街(クーリンチェ)』の中でのフレームの外の役割が端的に示されています。フレームの外には、この少年が触れることのできないような大人たちの属している社会の流れある。それはほとんど自動的にも感じられるもので、時には少年たちを暴力的に押し流すほどのものなんですが、それがフレームの外に存しているということは、少年の側からは大人たちの社会に触れられないということを暗示しています。少なくとも今のままでは。
その前提があって、この映画の、驚くべきつなぎ──つなぎというのは編集のことですけれども──をちょっと一場面ご覧いただきたいと思います。

(『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』抜粋上映)

ちなみにこれ、4時間ある作品のうち3時間ほどがたった場面です。かなり物事が積み重なってきた状況のなか、ついにこの小四少年が退学させられようかとしている。彼がバットを手に取る。そして殴られんとしている教師はハゲ頭の後頭部を向ける。しかし次のショット、電球がたたき割られる。おそらく小四が電球をたたき割っているとしか言えません。というのは、ご覧いただいたように、バットを手に取って以降このシーンでは、小四が写らないからです。これはひとりの映画監督として、どういう知性と勇気があったらこういうカット割りができるんだろうと思わされるつなぎです。退学させようとしている教師を殴るんだろうと想像をした瞬間、その代わりのものとして電球が殴られる。さらにこの後、職員室の先生たちが観客席を見るように、カメラのレンズを見る。ただ、その視線の先は示されることなく、シーンは切り替わります。じゃあ彼らはここで何を見ているんだ。ただ、それはそんなにわからないということはないですね。おそらく小四を見ている。おそらく、小四がバットを持った。そして、電球をたたき割った。おそらく、その不良少年小四をみんなが見ている。そのような状況として想像することが妥当です。このつなぎのすごさは、ある時点から小四を見せないことです。小四はどこに行ってしまったのか。それは、画面外に行ってしまった。彼がずっと触れられなかったフレームの外へ。つまり大人たちの社会というものに、もっと言えば、ある種の権力構造がある社会みたいなものに自分自身の力を行使しようとしたその瞬間、彼は画面外に飛ばされてしまう。彼自身が、ある種の暴力になってしまうのだ、とも取れる。何であれ、この時観客はどういう状態に陥るかというと、小四にならないといけない。これほどよくできた映画において、ほとんど選択の余地はないと思います。我々は、このシーンのラスト、小四の受ける眼差しを受け止めなくてはならない。観客こそが、まさに小四のように、社会から見られるという体験を通過しなくてはいけないことになります。
私自身はこの映画が人生でベストワン──といっても何個かありますけれど──のうちのひとつだと言える映画なのですが、この少年自身になるこの瞬間をくぐり抜けて、ラストに向けて映画と加速度的に一体化していく。前半部と後半部で感じるこの映画の肌感覚の違いは驚くべきものだと思います。遠くから見ていたものの渦中に放り込まれる。そして、傍観者ではいられなくなることで、この映画の過酷さが身に染みる、もしくは身体を貫いていくようになります。このとき、先ほどの『ラルジャン』同様に、ここでもやはり我々は画面の外の何かを担わなくちゃいけない。その画面の外の何か、この場合は小四ですね。小四にならないとこの映画の本当の有り様を体感することはできない。映画としては、このつなぎというのはかえって脆弱なわけですね。何が起きているのかはむしろはっきりわからない。断片化した形でしか提示されていないからです。ただそのことによってこの映画はやはり、観客の想像力を不可欠な作り手として招きなおしている。そんな気がします。

想像力が機能不全を起こす

濱口──次はホン・サンスという韓国の監督の映画をご覧いただきましょう。近年の彼の映画は本来整合性をもつことができないような世界──一方では時間が進み、もう一方では時間が繰り返している──が両立しています。それがごろっと観客に向かって差し出されている。一体どういうことなのかは、観客に一切示されません。鑑賞者は因果関係に基づいて常識的に理解しようとするのですが、機能不全を起こしてしまう。「え、これってなんなの?」と。この状況が一番わかりやすいのは、『正しい日 間違えた日』(2015)という映画です。


いまスライドでお見せしている男女が飲み屋で飲んでいる2つの場面は、ちょっとだけカメラの位置が違うだけで、ほとんど同じに見えます。てっきり一緒の場面だと思われるでしょうが、一方は上演開始から30分後ぐらい、もう一方は開始90分後のシーンです。じつはこの映画はある種の二部構成になっていて、それぞれでまったく同じシチュエーションが繰り返されます。チョン・ジェヨン演ずる映画監督が自作の上映のために韓国の水原(スウォン)という都市を訪れ、たまたま出会ったヒジョンという女性との微妙な関係性を描いているのですが、この話が1部、2部で同じように繰り返される。
上映からちょうど1時間ぐらいたったところで、もう1回タイトルが出てきて、同じような映画をもう一度観るという状況に陥ります。この2つの世界が一体どういう関係を持ってるか、観客が合理的に理解できることはありません。でも、我々の理解能力は悲しいもので、なんとかわかりやすい足場を見つけようとする、そして、仮の足場としてたどり着くのは、これらはパラレルワールドだったということ。ただ、そういうことを理解したとしても、非常に不安定な見方をしないといけない。とくに第2部を観るとき、もしくはこの映画をもう一度観るときに。そのときに我々の日常的な認知は壊れてしまいます。
大体同じようなシチュエーションでちょっとだけ違う会話を聞くと、目の前のひとつのイメージを観ているにもかかわらず、観客は複数のものを同時に観てしまう。つまり、一度目の映像を重ね焼きしてしまいます。次に行われるであろう動きの予測や想起をしてしまう。低予算でつくられた映画ですけれども、なんてことはない居酒屋の1場面が、ゆたかに見えてしまう。それはこの映画のために、われわれが想像力をタダ働きさせてしまうからです。
ホン・サンスの映画が本当によくできていると思わされるのは、ワンポジションで撮られた会話シーンが長く、「飽きてしまう」点にこそあります。男女の駆け引きめいたものをそれなりに楽しんだとしても、だんだん「この会話いつまで続くんだ」と思ってしまう。はっきり言って彼らはたいしたことを話していないからです。構図も、関係もさして変化がないように見える。そうなると当然、我々の注意力というのは不可避的に低下するわけです。ただ、そうやって油断していると、急にできごとが起きる。急に人物が怒り出したり、関係が深まったりしていて、不意を打たれる。話がすっかり飛躍したように見えてしまう。そして、その原因を自分自身の不注意に見つけてしまう。「何か見逃したかな?」と感じてしまう。冗長な会話を繰り広げる登場人物たちを侮りながら観ているのに、不意を打たれ、自分の認識能力を超えられたという意識が芽生えます。その、自分の認知の不完全さを通じて、かえって目の前の世界の堅固さや連続性に気づかされる。そして、第2部の登場人物たちも第1部のコピーではまったくなくて、第2部独自の生を生きていることに不意を打たれ、ある種の反省を迫られることになります。一方で、それはまったく同じ人物や関係性の中にあったもうひとつの可能性なのです。この「同じだけど、違う」揺らぎに立ち会うことがホン・サンスの映画を観る体験です。映画のタイトルは「正しい日 間違えた日」ですが、正しい/間違いというヒエラルキーが崩壊します。けっきょくのところ、複数の世界は独立に存在していて、それぞれの仕方で人物たちはいきいきと生きていることが発見され、どちらが正しいのかは、観終えたあとでも決定することができない。

偶然とはなにか?

トークのタイトルを言い忘れたままここまできてしまいました(笑)。「偶然と想像」というタイトルで今日はお話しするつもりです。そこで、ここから偶然についての話に入っていきたいのですが、まず偶然とは何でしょうか? 世界に固有性を与えているもの、それが「偶然」です。サイコロを振るその瞬間、偶然によって、サイコロの目の1が出る世界と6が出る世界が分かれる。我々は実際にはどれかひとつの世界しか生きられないのですが、サイコロをふるまでは複数の世界が想像上、もしくは可能性のうえでは、生きられている。偶然に出会うということは、我々に2つの仕方でこの世界の捉え方を与えます。ひとつは私たちは、偶然によって生じた代替不可能な固有の世界を生きているということ。「かけがえがない」というとセンチメンタルかもしれませんが、そういうことですね。一方で、偶然はつねにそれが「ない」世界がありえたことを想像させます。ほんの些細な偶然がなければ、この世界はまったく──とまで言わないにしても──違うものであり得た。偶然が起きる瞬間には、ごく些細なことで世界が違うものであり得たという事実が結晶しています。ホン・サンスの映画で偶然と呼ぶべきちょっとしたふるまいの差異が起きるたびに、想像を何重にも重ねてしまうのは、無理もないことなんです。これを「結晶体(クリスタル)としての偶然」といま仮に言ってみましょう。
この話をしようと思ったのは、中山さんの展示を見たからです。ぼくにとって偶然も想像も重要なテーマなのですが、どうつなぐべきかがよくわかっていなかった。というのも、偶然というものは、「あった」ことについて考えることです。対して想像は「ない」ことに促されて起きるものだからです。だから違う領域に存在しているものではないかと感じていたのですが、中山さんの展示を見たり建築を想像したりしているうちに、それが蝶番のようになって、この2つが重なり合うような気がしたんですね。そして、ホン・サンスの映画が自然とアナロジーとして浮かんできました。偶然においては「ある」ことと「ない」ことが同時に結晶している。この結晶体=クリスタルとしての「偶然」には「偶然が存在しなかった世界」の影も常に、同時に映り込んでいる。だから、その影が想像を促す。偶然を通じて、人は常に想像をしてしまうんです。

【後編に続きます】

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2019年7月12日、TOTOギャラリー・間にて
テキスト作成=南昂希
テキスト構成=出原日向子


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