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A night in CINE-MA Ⅱ 【後半】漂流する映画館、ふたたび

中山英之(建築家)+藤原徹平(建築家)
TOTOギャラリー・間「中山英之展 , and then」
ギャラリートーク「a night in CINE-MA」2

表紙写真=© TOTO GALLERY・MA

トラヴェリングと卑劣さについて

藤原 さて、では中山さんと映画の関連性についての話に入っていきましょうか。
まず、いま写しているのは「カポ」(ジッロ・ポンテコルヴォ、1960、邦題は「ゼロ地帯」)という映画のラストシーンです。これから話す内容は映画界では有名な批評の内容ですので、「カポ トラヴェリング」と検索すれば、ウェブでもいくつか読むことができます。


映画は物語をカメラで伝えます。このシーンでは、収容所から逃げようとする女性を客観的に追うように撮っていたカメラが、最後は表情がわかるように前から撮ったカメラに切り替わります。まるでこの人物が死ぬことをわかっていたかのようです。このカメラの移動が卑劣だとセルジュ・ダネーという批評家に批評されたんですね。悲劇を悲劇として脚色するように、カメラをトラヴェリングさせる、カメラを移動させるということが卑劣なんだと。
このようなカメラの動きを通じてつくり手の考えを読み取るという行為が映画を見るということなのだと、梅本さんから教わりました。つまり、カメラをどうトラヴェリングさせるかという点が映画の本質だと言うんですよね。そう思って観ると、黒沢清さんも、青山真治さんも、濱口竜介さんも、優秀な映画監督はみんなそのことをわかっている。カメラは何者なのかということを映画監督は皆哲学的に問うているわけです。登場人物の目線なのか、神様の目線なのか。感情移入して見るべきものか、それとも引いて見るべきものか。黒沢さんは監視カメラのような映像をわざと使うのですが、それは近代以降に生まれた新しい人格の目線だと彼は考えているからなんです。都市を俯瞰して記録していると、世界のひずみのようなものがそこに写るのではないだろうかと彼は思っているはずです。先程の「カポ」に翻って言えば、そこで起きている出来事をドラマチックに切り取ってしまうと卑劣──つまり倫理観がない上に、世界観もない──になってしまうのです。
建築でもしばしばそういうことがあります。建築も何かメディアを通して伝えたり、見たりしますね。それを、どういう倫理観で切り取るのか、劇的に写せばいいのか? 梅本さんの話を聞いて、自分の領域である建築の本質的な問題でもあるなと、痛烈に思いました。もしかしたらジャンルの問題ではなく批評ということの本質なのかもしれません。

中山 わかりやすさと、つくり手が受け手を見くびることは紙一重。建築も同じですよね。たとえば駅のように大勢の人間が秩序だった行動を求められる場所では、空間を使って人の動きを支配的にコントロールしなければならない。設計の時間には常にそうした高慢さへの葛藤がつきまといます。まさにトラヴェリングと卑劣さ。逆にそうした葛藤が感じられない建築を信じることは難しい。映画批評に諭され、励まされる気持ちになりますね。

都市と映画と生きること

藤原 梅本さんはヌーヴェルヴァーグを「俺たちの街の映画」と表現していました。ヌーヴェルヴァーグの担い手は、ハリウッドに抵抗しようとした当時の新進のフランス映画監督たちですが、彼らの映画は、低予算で手持ちカメラを持って役者と一緒に街へ出て撮影する。だから撮れるものがすごくみずみずしいんです。それがすごく魅力的で。ぼくらの世代にとって「勝手にしやがれ」(ジャン・リュック・ゴダール、1959)などのヌーヴェルヴァーグの映画は名作という評価が定まっていたために、なかなかそうした目で観られなかったんですが、「俺たちの街の映画」と聞いて、そんな単純なことなのかと、とても感動しました。要するに、自分たちの街でカメラを片手に出ていってかっこいい俳優を連れて行って演技をさせると、一つの街の映画になる。ある種街を祝福しているような映画だと思いました。梅本さんからこの話を聞いて以来、映画からつくり手のみずみずしさを感じられるようになりました。

藤原 建築の分野においてもこれもすごく重要なことですよね。どれだけこの街を愛していて、どれだけみずみずしく建築がその街に建っているか、それは常に批評されなければならないことだと思います。街があるから映画があるのと同じように、街があるから建築が建つ。たとえば中山さんの《家と道》(2013)でも、東京の街について、都市の道についてものすごくみずみずしくとらえていますよね。自分の生きる街での建築。そこに生きることを建築を通じて表現する。あるいはクライアントがその街で生きるということをどう建築にしていけばいいか。それは頭でっかちになって考えることではなく、楽しいことです。そこに批評をする構造があるのかどうかがすごく大切で、たとえば雑誌に建築が載っていてもその都市のことが載っていなければ、その建築が都市にとってどんな存在なのかわかりようがありません。批評においても、誌面に載っていなければ実際に足を運ばない限り知りようがない。そういう閉じた構造になってしまっていいのか考えてしまいますね。

中山 「5 windows」はまさに街を祝福するみずみずしさに溢れていた。同時に、うまくなるとできなくなることが増えていくというのも、映画からの警句のひとつですね。『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』で、ヴィム・ヴェンダースは「パリ、テキサス」(1984)ですでに撮りたいものを撮り尽くしてしまっている、なんて書かれているのを読んで、最新作に感動しているこちらは「ええっ!」ってなったりする。新作を報じるだけでなく、自分たちにとってのアマチュアリズムって何だろう、なんて考えてしまうのも、批評とそれを伝える専門誌の働きです。批評と鑑賞の追いかけっこは、映画を観る経験を何倍にも広げてくれる。そうした場が徐々に雑誌から別の媒体に置き換わっていくとき、そのありかたはまだ未分化の状態です。このトークイベントも、そうした状況への試みのひとつでありたいなと思います。

批評と創造は往復書簡である

藤原 批評するときは、集中しないと書けません。それはものすごいトレーニングになります。梅本さんがよく言っていたのは、観てすぐ書け、それから、できるだけ長く書け、ということでした。理想は1万字だそうです。理由をきちんと聞く前に梅本さんは亡くなってしまったんですけど実践してみるとそれらがいかに大切であるかがわかります。長く書くと思い違いや勘違いもある。でもそれはそれでよくて、長くロジカルに思考していくと、たとえ間違っていてもつくり手には届くんですね。間違っていなくても短くて辛辣な言葉なんか、つくり手としては単なる文句だから、もらっても嬉しくない。長文だとそれが批判であったとしてもどこか愛を感じる。みずみずしい感動、ぼくの場合は自分がその作品に身体を投げ出してみたときに感じ取った空間の構造、都市と映画の経験の対比から得た理解を言葉にしていけばいいのだと考えていました。それでぼくも梅本さんのオンラインのメディアに黒沢清さんや青山真治さんについて批評を書いて、何本か載せてもらいました。それは映画を建築家として経験してそれを空間的に書くという点で、ぼくにとっての渾身の建築論でもあるんです。批評とクリエーションの関係でいえば、当時は映画批評として建築論を書きそれが建築のスタディにつながっていた。建築をつくる前から、もうすでに批評を通じて建築論ができあがっているわけです。もしかしたらそうしたある種の虚構的な思考、人間がつくりだしうるもうひとつの現実、として映画みたいなものを考え続けることが大事なんじゃないかとも思います。

中山 建築とは、もうひとつの仮説としての現実を、いまここにある現実に重ねること。そういえばこの展覧会のオープニング講演会で、ハイデガーの拓いた思想について話をしました。『存在と時間』のような大著を知ったように語る資質も資格もないけれど、ひとりが想像してみることから、世界はそのままに何度でも生まれ得る、この哲学はまさに梅本さんのヌーヴェルヴァーグ評そのものですね。カメラと役者による虚構としての映画が、その映画以前の同じその都市を、まったく別の街に生まれ変わらせてしまう瞬間を、僕たちは確かに経験したことがある。建築もきっと同じだ、と。

カメラをどこに置けるか

藤原 先ほども言いましたが、カメラをどこに置くか、カメラをどこに置けるかというのって、映画にとって根本的な問題なんですよね。建築に置き換えてみると、その建築の存在と活動の中心をどうとらえるかという問題なんだと思います。中山さんの建築のおもしろいところは、単に目に見える活動ではなくてどこか虚構として空間に中心があるところじゃないかと思っています。

中山 ありがとうございます。

藤原 演劇や戯曲と映画は似て異なるものです。演劇の場合はステージの中心があってそこを観ていけばよいのだけれど、映画は中心がないのでどこにカメラを置いてどのように見せていくかは、空間的中心がどこかわかっていないとできないんですよね。それをわかっている映画監督とわかっていない映画監督がいる。それは建築家も同じで、建築がつくりだすある種の虚構の空間的中心がどこなのかをわかってつくる必要がある。中山さんほど意識的に、かつ鮮烈にそれが空間に表れてくる建築家をぼくは知りません。虚構の空間の中心が何かということを探るようにスタディしているから、設計に時間がかかるのは当然だと思います。生活や都市の条件を虚構の輪の中に引き入れながら中心を作っていっているのだと思います。今回の展覧会で映画を撮った人たちは簡単だったんじゃないかな(笑)。すでに空間が実と虚の様々な中心を明示しているから。カメラを置くところはすぐにわかったと思います。

中山 過分な言葉。でも、確かに映画を観るのが大好きな理由のひとつにカメラの存在があります。どんなレンズをどこに据え、被写体との距離をどうとるのか。それによって映る世界が全然違うところに、すごく興味があります。たとえば、これは絵画に近いのかもしれないけれど、無限遠にカメラを置いて奥行き方向の消失点を消すと、洛中洛外図屏風のような平行視線で世界を切り取ることができる。仮に恋愛関係にある2人をこのカメラで撮ると、ふたりの愛の行方というよりは、そんな出来事のひとつひとつがこの世界をつくっているのさ、というような人間賛歌があらわれる。一方カメラを対象の真ん前にドンと据えると、ベルサイユ宮殿みたいに非常に封建的なパースペクティブで、消失点に置かれた主題との心的な一体化を迫られる。どちらが正しいということではなくて、そんなふうにカメラの働きとその効果をカットを割りながら列挙していくだけで、誰かの客観性や主観性を自由に引き出したり行き来させたりすることができてしまう。映画の筋に夢中になるとすぐに忘れてしまいがちですが、つくり手のそうした意図が手に取るようにわかりながら、その見事さに手玉にとられてしまうような映画体験がときどきあるんですよね。建築をスタディしていて、図面やパースやスケッチを行き来する時に、無意識のうちに想像上のカメラを構えてしまうことがよくあります。プレゼンでも、構図だけでなく、鉛筆のスケッチがいいのか、シリアスなCAD図面の出力なのかを選ぶ時の感覚は、あえて手持ちカメラで被写体を追うのか、がっちり三脚を据えるのか、といったシーンの主題に対するカメラの選択にたぶんとても近い。それはぼくにとって、ものすごく具体的な効能としてあります。教えてくれたのは間違いなく映画だし、新しい映画を観ることは新しいカメラ、つまり新しい思考を発見することです。

藤原 多木浩二さんが写真について重要な批評をいくつも残していまして、そのひとつに、パウル・クレーの《新しい天使》というドローイングとヴァルター・ベンヤミンについて論じたものがあります。そこに書かれているのは、天使のまなざし、つまり主観でも客観でもない中間的なまなざしというものがあるんじゃないかということ。ヴィム・ヴェンダースの「ベルリン・天使の歌」(1987)では、まさに天使が出てくる。天使という現実の社会にコミットメントできないまなざしから、人間社会を語っていくという映画で、視点という考えにおいて素晴らしい試みをしているので、中山さんに興味ある人はぜひ観てもらいたい。そういうものを読んだり観たりすると、中山さんの話がよくわかると思います。
やっぱり、建築だけではわからないことがいっぱいあるんですよね。ものを見るって何なんだろうとか、見たものが映るって何なんだろうとか、それで人が感動したり感動しなかったりするのはどういったことなんだろうとか。今、ともにこの地球で生きて文化的な活動をしてる人たちがどんなことを考えてるのかなとかは、ぼくの中で常に好奇心が刺激されます。せめてそういう人同士を出会わせたい、化学反応をつくりたいっていうのが対話実験のモチベーションなんですけれども。

中山 藤原さんが留年しなかったら始まらなかったチェーン・リアクションがあったとしたら、「漂流する映画館」も、そしてこの「CINE間」のトークもその連鎖が生み出した場です。今日聴きに来てくださった、たぶん多くが建築分野のみなさんも、映画だけでなく、演劇や音楽や、さまざまな素晴らしい表現を、内容への共感や感動を超えて語り合うことのできる友人や言葉と、どうか出会ってほしい。そんなことを言えるのも、藤原さんと若い頃に出会えたからなのだと思います。

質疑

質問1 藝大で行われた青木淳さんと鈴木理策さんの対談(「colloquium#1 鈴木理策÷青木淳」)で「一枚の建築写真でいいところを伝えられる建築はわかりやすい」と青木さんがおっしゃっていました。それから、鈴木理策さんが青木淳さんの作品集(『青木淳 JUN AOKI COMPLETE WORKS〈2〉青森県立美術館』LIXIL出版、2006)を担当されていて、「フィルムカメラで撮影した写真を本というフォーマットに並べることで建築を体験できる」とも話されていました。映画と写真って似て非なるものと思うんですけど、写真についてお話をいただきたいです。

中山 少し質問を補足させてください。鈴木理策さんは大判のカメラを三脚ごともって撮っていくのですが、絶対に後戻りしないんですね。自分の足跡を写さない。さらに作品集を作るときも、撮影した順番を崩さずに並べていく。頁をめくっていくという体験と、この後戻りせずに前進していく方法は、構造的に非常に相性がいい。だから写真集を作ることを念頭に置いてシャッターを切っているようなところがあると鈴木さんは仰っていました。逆に空間全体を一望できるような写真展にはそぐわない、とも。青木淳さんの建築にも、どこか一視点から空間全体を一望するような全体性を嫌うところがある。本や建築といった異なる構造を持った媒体と、それらがカメラを通して結びつけられていくことのあいだに、こんなにも連動性がある。対談を聞きながら、会場はその驚きと楽しさに包まれたんですね。

藤原 映画って時間芸術ですよね。始まりと終わりがあって。だから編集という技術が大きな意味を持つんですよね。でも映画の中では、ワンシーン・ワンショットで撮る方法もあります。ひとつのカメラですべての運動を撮る。たとえばゴダールがローリング・ストーンズのライブ映像を撮ったものがあります(「ワン・プラス・ワン」1968)。青木淳さんは、きわめて時間的な思考をする建築家だと思います。動線体など初期に行なわれていた建築の思考実験からもわかるように、経験の連続のなかで建築をもう一度考え直すことが青木さんの中での重要なテーマなんだと思います。だから鈴木理策さんのように、後ろに戻らずワンシーン・ワンショット的に記録されてくことが相性がいいと思います。

藤原 一方、中山さんの建築とかぼくの建築、主観と客観とが入り交りながら思考したような建築は、写真というメディアとは相性が悪いんですよね。映像のほうがまだいいんですけれど、この展覧会のように、建築をどう撮るかについての創造的なたくらみがないと難しい。だから、中山さんの建築に対して一番感動しているのは、住んでいる人だと思うんです。その建築の中に埋め込まれている、さまざまな細かい関係性──空間と環境とか、空間と身体の関係性──が蓄積されていってるのは住んでる人との関係の中だと思うので、文学ともすごく相性がいいかもしれない。だからこそ価値があるのかな。
ちなみに質問にあった写真について語るというのはぼくには難しいですね。

質問2 先ほど映画を見て批評するときには長く書くといいと話されていましたが、「いい批評」って何でしょうか。批評というのは知識的なものなのか、パーソナルなものなのか私はまだよくわかっていないので、もう少し詳しくお願いします。

藤原 いい批評ってのはまず絶対的な肯定ができることですね。ある作品を見たときに、それを絶対的に肯定できたら、それはすごくいい批評なんですよね。ただその絶対的な肯定の根拠ってのが重要で、単純に見てただ面白かったっていうのは違います。単にあなたが見てそうだっただけでないかと言われて、揺らいだら終わりですから。だから面白さを裏付ける論理が必要なんですね。つくり手が読んで驚くような論理があったらなお素晴らしい。その裏付けが個人的な感覚による批評ってのもあり得ると思います。たとえば梅本さんの授業で、女学生が書いた批評を取り上げていたことがあります。それは「おっさんカルチャー」に対する鋭い批評でした。カメラって、エロイおっさん目線になっていることがよくあるんですよね。それに対するジェンダー的な批評だったわけですが、そうした感覚的な気づきと絶対的な肯定というのは両立できることもあると思います。
ぼくが映画批評を書くときに気にしているのは、「原風景」「距離」「記憶と場所」「テクスチャーと身体」「水平と垂直」「俯瞰と漂流」「反復と自由」というような観点です。すべてについてお話するには時間が足りませんが、これは実は同時に建築批評を書くときにも気にしていることでもあります。
自分にとっての揺るぎない足場のようなものがわかっていれば、専門分野ではなくても語れるんですよね。それはとても重要で、自分が何を真剣に考えて生きていて、その拠って立つ地点が何なのかがわかるように、みなさんになってほしいと思います。自分の空間が面白いとか面白くないとか、課題がうまくいったかうまくいってないかとかはどうでもよくて、建築の中にある重要な問題について、自分の中にちゃんと疑問符を置いて、日々思考できているのかという、そこだけなのかなと思います。

中山 ありがとうございます。ぼくもまたどこかへ、藤原さんを連れ出す場をつくらなければ。会場のみなさんもありがとうございます。またそのときまで。

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2019年6月14日、TOTOギャラリー・間にて
テキスト作成=長谷果奈
テキスト構成=出原日向子

TOTOギャラリー・間のウェブサイトでは、中山英之による展覧会紹介動画のほか、展示・映画の様子、関連書籍の案内をご覧いただけます。


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