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『数分間のエールを』の呪いにかかった話。

『数分間のエールを』という映画をご存じだろうか?

ご存知じゃない人は、今この瞬間から存じてほしい。
ご存知だけれどまだ観ていないよという人は、正直、こんなnoteを見るよりもまずは映画館の情報をチェックして、座席を確保してほしい。

と言っても、そう簡単にチェックしない貴方のために、公式サイトとあらすじを載せておこう。

「何かを作りたい。自分が作ったモノで誰かの心を動かしたい」
高校生の朝屋彼方は、MV(ミュージックビデオ)の制作に没頭していた。

ある夜、映像のモチーフを探して街を探索していた彼方は、雨の中でストリートライブをする女性に出会い、その歌に衝撃を受ける。
「この歌のMVを作りたい、自分が待っていたのはこの曲だ」
その歌声と、感情をぶつけながら歌い上げる姿に心が突き動かされた。

そして翌日、彼方は教壇に立った新任教師の姿を見て驚愕する。
そこにいた織重夕は前夜、彼方の心を突き動かしたミュージシャンだった。

『数分間のエールを』公式サイト

それでもまだこんなnoteを読んでみようという奇特な人や既に観たよという方に向けて、『数分間のエールを』について熱く語りたい。

©︎数分間のエールを

というわけで、こんにちは。
山あり谷ありナカタニエイトです。

先日、『数分間のエールを』というアニメ映画を観たんです。
それから魔法にかかったように、ずっと頭から離れません。

いや、それは「魔法」というよりも「呪い」と呼ぶべきなのかもしれませんが。

そう。ずっとずっと、声高に歌う織重夕の姿が目から離れません。
彼女の作る歌が、僕の胸を掴んで離しません。

あの瞬間、心を奪われた朝屋彼方少年は、きっと僕でした。
あの瞬間、これで最後だと歌っていた織重夕も、きっと僕でした。

朝屋彼方少年は僕であり、織重夕先生もまた僕なんです。

まだやれる、まだやれる、まだやれる、きっとやれる、たぶんやれる、そうだ、まだやれる、どこまでだってやってやる。

そう思いながらも、続く道が見えない不安。本当にこの道はどこかに続いているんだろうかという恐怖。あの人は道を見つけたらしいという嫉妬。そういった負の感情が心の中で散り積もっていく。

酷評ならまだ良い。それ以上に怖いのは、誰にも見つけられないこと。
その辛さを抱え込みながら、それでもなお創り続け、歩み続け、ボロボロになったその先に何があるんだろう……

諦めた諦めた諦めた諦めた諦めた諦めた諦めた諦めた諦めた諦めた諦めた諦めた諦めた諦めた諦めた諦めた諦めた諦めた諦めた諦めた諦めた諦めた諦めた諦めた諦めた諦めた諦めた諦めた諦めた諦めた諦めた諦めた、くない……

「これが最後だから」と言い訳をして、作り続ける呪い。

『数分間のエールを』には、そのタイトルの通り「エール」が込められている。祈りが込められている。創り続けることの勇気を讃え、その日々を肯定しようとしてくれる。

一方で「諦めれば楽になれるよ」という劇薬も混ぜられている。希望と絶望との狭間で泣きたくなる気持ちが恐ろしい程に込められている。

ただそれでも、もう一度奮い立たせる力を与えてくれる。

兎にも角にも、誰も彼もに是が非でも観てほしい映画。
それが『数分間のエールを』なんです。

ここ最近のアニメ映画の中でもスマッシュヒットです。今現在モノ作りをしているクリエイターや、かつてモノ作りをしていた人なら、心底ぶっ刺さることでしょう。

主人公がMVクリエイターとミュージシャンだけあって、映画からも映像と音楽へのこだわりを物凄く感じます。映像の作り方も斬新でエポックメイキングな映画なのではないかと勝手ながらにワクワクしています。

「誰かの心を震わせたい」——それを現在進行形で夢見る若者と、かつて夢を見て、もうこれ以上は歩けないと歩みを止めた頑張ってきた人との想いが交錯する中で爆発し、ラストのカタルシスへと疾走していく感じは、映画自体が超壮大なMVとも言える作りで圧巻でした。

その映画の「本編」とも言えるMVは既に公開されています。

たとえ映画を観ていないあなたでも、このMVを観ればテンションが上がることは間違いないでしょう。でも、あなたは観ない方が良い。まだ『数分間のエールを』を観ていないあなたは。ただ、出逢った方が良い作品であることは間違いないんです。だから、出逢ってください。どうか映画館に行って、ラストを見届けてください。それから、もう一度、『未明』を再生してください。

<Music>
Lyrics&Music&Guitar:VIVI
Vocal:織重 夕 feat. 菅原圭
Recording & Mix Engineer:眞武 亨
Mastering Engineer:吉良 武男
Bass:山崎英明
Drum:比田井 修
Key:奥野大樹
Solo Guitar:Yamar Rodriguez

<Movie>
Akanata feat. Hurray!
ぽぷりか
おはじき
まごつき

そうして、映画を観た人はきっと即サントラをDLするか、購入するかしたことでしょう。僕もその口です。もちろん毎日聴いています。物語を思い起こさせる力のある楽曲を聴きながら「モノづくり」をしています。今もnoteを書いています。そして、先生の心の叫びに真正面からぶつかってしまい、その都度、琴線が震えるのです。

そうやって何度も何十回も何百回も聴いている先生の歌の意味をついつい考えてしまう。普段やりもしない「考察」をしてしまう。それくらいに「織重夕」の歌が心を抉ってくる。

まず「織重夕」という存在についての考察。

こんなにもめちゃくちゃ良い歌を作るのに誰からも見つからない。この歌声や歌詞が届かない世界線、どう考えても織重夕本人のパーソナリティに何かしら問題があるとしか思えない。
考えてみれば、大学でも一人で演奏しており、友人などは少なそうだ。近付くなとも普通に言う。何か酷いトラウマがあるのではないか。もしくは、言葉足らずで、誤解をされたことがあるのかもしれない。
そして、音楽に真摯に向き合っているように見える。きっと妥協できない何かを持っているのだと思われる。自信があるからこそ、歌だけで勝負したいと考えていたのかもしれない。

そういった本人のパーソナリティが『未明』という歌へと繋がっていく。

何かが散り積もった挙句がきっと「花開く、その芽も根も葉も 踏み潰したのはこの足 最低だ 気づかないでいた」と自分自身を責める言葉に繋がったのではないだろうか。

諦めたその日、「空を仰げば 快晴の空 悪くないよな」と笑いながらも涙ぐむ僕が、「織重夕」と重なって見える。

だからこそ、「あなたは自由なんだよ 行進を止めないで」とその言葉を自分ではない誰かに向かって吐露する辛さ、それでも「なんでMVを作っても良いと言ったんだ!」と叫ぶ少年に対して、「どうしてだろうね……」と自虐的に笑う先生の胸中を思うと、心底痛いわけで。

そういった「織重夕」本人をイメージしながら歌詞を見て、歌を聴くと、『未明』という歌は「織重夕」だからこそ作れた、「織重夕」でしか作りえない歌だと手触りを持って実感できる。

『モノづくり』という魔法にかかり、いつしか呪いになり、呪いを解くためには諦めるしかなかった「織重夕」という存在のリアルを実感する。

そんな『数分間のエール』と同時期に、これまたクリエイターが主人公の物語『ルックバック』も上映されている。

©︎ルックバック

『ルックバック』については今さら説明不要だと思うけれど、少しだけ『ルックバック』についての感想も。

『ルックバック』

声優さんの演技と音響へのこだわり、映像美が素晴らしい。生意気な子供と意気地なしの子供から、何かを飲み込んだ大人と頑張ろうと変わろうとする美大生。加えて、細かな音の表現がその魅力をより敏感に伝えてくる。
しかし、その一方で圧倒的な「画の力」を感じる。言葉のない画面が物凄く雄弁に語りかけてくる。四季折々や室内の背景美術、人物造形のこだわりと、彼女たちの丁寧な動き。そのような機微を全ての状況において見事に表現しており、物凄くリアルなフィクションの世界へと僕らを誘う。

物語からは「どんなことがあろうとも生きている貴方のリアルは続いていく」という痛烈なメッセージを叩きつけられる。最終的に、誰かに終わりが来ようとも、誰かは生き続けるしか、創り続けるしかできることはないという、諦観にも似たやるせなさを改めて鋭利な刃物のように突き付けられてしまう。そうそれはまるで、主人公の部屋のポスターにもあるように『バタフライ・エフェクト』や『ビッグ・フィッシュ』のようなフィクションではなく、やり直すことも作り直すこともできないのだ、と。

だからこそ、あの事件への行き場のない怒りを感じざるを得ない。希望に満ちた人生が、誰かの狂気により、唐突に理不尽に終わりを迎える恐怖と絶望を忘れることなどできない。 袖触り合うも多少の縁とは言うが、誰かの人生に関わるということは、誰かの人生に影響を及ぼし、自身にも影響を及ぼす。 その影響を少しでもプラスの力に変えられるよう生きていくことが、幸せという形に近付くための唯一の手段なのかもしれない。

ただのクリエイター讃歌に終わらず、Don't look back in anger などと聞こえの良い謳い文句に乗らず、ストレートに希望と絶望を描いた素晴らしい映画だった。 上映時間58分という中で、ここまで濃密な人間ドラマを描くことができる才能という名の努力の結晶に嫉妬と共に敬意を表する他ない。
それはまるで藤野が京本に感じた想いをルックバック(追体験)するかのように。

だからこそ、『ルックバック』について、クリエイターにこそ見てほしいと言うのは、なんか違う気がしている。

当然、主人公は漫画家であり、漫画を必死に創る描写に胸を打たれない訳ではないけれど、これはある種「藤本タツキ」先生という原作者にとって「人生=漫画を描くこと」になっているから「モチーフが漫画なだけ」であって、決して漫画家他クリエイターの悲喜交々だけを謳っている作品ではないと思うから。これは例えば魚屋に置き換えても、会社員に置き換えても、ダンサーでも司書でも政治家でも、主人公はなんでも良くて、ただその主人公にとって「人生」は「誰かとの交流の積み重ねであり、誰かから影響を受けた、誰かに影響を与えた」という過去から連綿と続く現実が散り積もって「今」になっているという事実の重さを描いているのだと思う。
その「今」を無責任な誰かの狂気によって破壊される理不尽さと儚さ、そして、それでも生きていかなければならない残された者の諦観と後悔と再生。 そのどうしようもないやるせなさの中で現実との折り合いをどう付けていくか、という話であって、決して「創ること」だけにフォーカスを当ててはいないと思うから。
たまたま主人公が漫画家であっただけで、普遍的なテーマとしては「残された者の絶望と復活」ではないかと感じていて、だからこそ「クリエイターにこそ〜」という評価には、自分としては違和感を覚えてしまう。

個々人の感想や意見は千差万別あって然るべきだと思うけれど、この話はクリエイターの讃歌ではなく、「生きることの儚さと生きていくしぶとさ」の両軸を描いた作品ではないか、と何度でも言いたくなる。

未来を創るためには、生きていかなければいけない。それはクリエイターに限ったことではない。

だから、僕は思う。隣人を理不尽に無くしたくはない。隣人が幸せであってほしい。ただ笑顔で生きていてほしい。時折辛いことがあったとしても、また立ち直ってご飯を食べてほしい。100%の幸せなどこの世に存在はしないだろうけれど、51%以上の幸せを感じている人生を歩んでいてほしい。隣人ではなく、たとえ今は遠く離れた貴方だとしても、それを心より願う。 その祈りが、本作にも込められているように僕には感じる。

という感想を踏まえて、『ルックバック』と『数分間のエールを』を敢えて並べて書いてみる。

『ルックバック』は「生きること」を続けるお話。
『数分間のエールを』は「創ること」を続けるお話。

どちらの映画にも諦観と絶望と希望とが描かれるけれど、「続けること」というのは「呪い」に似ている。解除する魔法は「諦める」なのだけれど、そう簡単に諦めきれないからこそ「呪い」なのだ。
そこには絶望と希望とが混ざり合っていて、何かを切らなければいけないことも多々あって、何かを選び取ったその先に何があるかはわからないけれど、何かを選び取ってきた道が——自分自身の背中が、生きてきた証であって、それを決して否定したくはないし、否定せずに進んでいきたいと願うことを、誰がバカにできるだろうか。
ただそうやって、生命を輝かせて、時に削りながら、自らの「呪い」を誰かの「救い」に変えようとする生き方は、花火のように綺麗だと僕は思う。

そうして、もう一度『未明』について話したい。
今度は朝屋彼方少年の目線で。

作って作って作って作って、消して直して塗り替えて、何度も止めようと思いながらも、また作り、誰かがいなくなっても作り続け、自分も諦めかけても、もう一度「新規作成」を呼び出して、折れそうになる心を奮い立たせて、作り始める。

MVを作った彼方は、「先生は諦めたんだ」とわかっていながらも、やはりどこかで自身のエゴである「誰かの心を動かしたい」という気持ちを捨て切れなかったのではないだろうか。まだ諦めないでほしい。もっと歌を歌ってほしい。そういった「応援」という名の「エゴ」を押しつけたのだ。

でも、「自分」を貫き「ああしたいとかこうなりたいの旗」を掲げていたからこそ、「誰かの心を動かした」のだろうと思う。

そう、応援とは言わばエゴでしかない。エールを送る側のエゴでしかない。でも、そのエゴが誰かを活かすことになるんだと思う。「モノづくり」は孤独で果てしない時間を感じる作業だけれど、その先にいる「誰か」のおかげで、もう一度、「モノづくり」をしようと思うものなのだ。

自分の精一杯が「誰か」の心を動かすならば、その動かされた「誰か」のおかげで自分の心も動き、また「モノづくり」をしてしまうものなのだ。

そんな先生へのエールを交えたMVの素晴らしさと「行進を止めないでい」ることに決めた先生の心情に、どうしても涙が溢れる。

『数分間のエールを』は、音楽を作る人や映像を作る人だけではなく、「何かを作る人全員」に向けた、応援の作品だ。折れかけている心をもう一度奮い立たせるたいとエゴが込められた作品だ。それを受け取ってしまえば、どうしたって「モノづくり」をしたくならない訳がないのだ。『数分間のエールを』は、ある意味では呪いをかけ、ある意味では救おうとする作品でもある。全てのクリエイターに、全ての作品に、愛を伝えるラブレターなんだと思う。

私は好き。
大好き。

そう言っているように聞こえるのだ。

そして、僕は思うのです。

『ルックバック』といい『数分間のエールを』といい、60分程度の尺でここまで見事な作品を作られては、「モノづくり」を諦められないよな!頑張らないといけないよな!と。

誰かの「好き」になれるように。
誰かの「救い」になれるように。

「新規作成」に願いを込めて。

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