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PaperBagLunchbox(PBL)を演奏した日。

9月20日祝日新宿MARZでPaperBagLunchboxの曲を演奏した。

PaperBagLunchbox(PBL)とは、僕が2001年から2011年までやっていたロックバンド。2001年入学の大阪芸大の1回生同士、中野陽介、伊藤愛、倉地悠介、恒松遥生で結成された、ほぼ全員バンド初心者の集まりながら、2005年卒業と共にデビューして、6年活動、3枚のアルバムを出しオリジナルメンバーのまま解散。「封印」されたバンド。

10年が経ち、ただただ懐かしい名前になり、当時のメンバーもファンの方々も、それぞれのライフステージへ進み、今や知らない人も沢山いるバンド。

そんな僕の活動をずっと見てきた中学時代からの幼なじみであるHINONARIの西野の誘いで、コロナ禍で開催される彼らの自主企画10周年イベントでトリビュートを依頼されての10年ぶりのバンド演奏だった。付き合いの長い親友からの頼みを断れなかった。デビュー前から僕を見てて、解散した後も気を使わず「また見たい」って言い続けてくれるのも、もうこの人ぐらいなもんだろうなということで、受けたのだ。需要があるかわからない過去のバンドの為に告知もやれるだけ頑張った。

PBLは世に言う再結成は望めない解散だった上に、メンバーとの関係性が音楽そのものになっているようなバンド。それが壊れた以上、2度と演奏は叶わないだろうと考えていた。4人全員が強く楽曲を引っ張りあってできた歪なグルーヴが魅力のバンドで、ギリギリのバランスの中で成立していた。だから、厳密にこれらの曲は僕の曲ではないのだ。

「やるなら4人で」と、叶わぬ夢を見ては諦めてきた10年だった。音楽性も時代も、すっかり変わって、ロックなんてなぁっていつしか思うようになっていた。思うようにした。

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弾き語りで何度か歌うくらいで、僕は全部をEmeraldに集中して、前だけ見て活動してきた。これからもそうする。

歌いおわってから改めて理解したことがあった。

僕にとってのロックは中毒性の高い危険な営みだった。
一度知ると戻れなくなる世にいう覚醒剤みたいなものだったなと。(覚醒剤はやったことはないけど)

物騒な例えで恐縮だけど、14歳くらいから29歳暗いまでの15年くらい、僕はこれに夢中で、音楽をやるために全てを犠牲にして無茶苦茶な生活をしていた。臨界点に達し壊れてしまったというのが現実だったんだと。

そこから体や心からロックミュージックのフィーリングをひたすら取り除くように、徐々に今の音楽性に移行していく中で、10年を経てようやくあの身を焦すような渇望や自己顕示欲から解放された穏やかで優しい日常が訪れ、40間近にして始めての日常というものを知ることになったのだ。

僕が今提示したいのは、まさにこの穏やかで優しい気持ち。それにより得ることができる豊かな出会い。そして多様なグラデーションを許容する人生のサウンドトラックとなるような音楽を鳴らし続けることだ。今のような精神が逼迫した世において求められているものもそうしたものかもしれない。

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数多のバンドに憧れ、そこにつよい切実さを求めた自分が、ロックをやっていた頃に提示していたのは、感情を揺さぶって人を虜にするというコミュニケーションだった。揺さぶるためならなんでもやってやろうというような。そこにはロジカルな思考もなく、したたかな戦略も持たず、対人向けのコミュニケーション能力も有さず、怒りとメランコリーと寂しさ、焦燥感だけが燃料だった。そして全身で表現するロックはそこに万能薬のように作用する代わりに、効果は長続きせずさらに強い薬を求めるように設計されていたように思う。

そう。そうして形成された人格が僕の中で人生の大半を占めていた。言葉を選ばず適当に名付けたらそれを「ロック人格」と呼ぶ。本当の自分というのがいるとすれば、今の自分だろう。僕はあの頃ロック人格を飼い慣らすことができなくて、乗っ取られて飲み込まれたのだ。そして時はあの3.11の震災。立ち上がることは許されず、夢見た成功はもくずとなって消えてしまった。

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というわけで久しぶりにロックミュージックをプレイして、当時の歌い方に挑戦した後、体にやってきたのは覚醒剤さながらの「もっと欲しい」だった。同時にあらゆる欲望がまたむくむくと湧いてきて、すごく怖くなった。ああ。なるほどと思った。当時の自分にはロックはこんな風に作用していたのかと。心が貧しく妄想だけが豊かな寄る方のない僕は、その感覚だけに救いを求めたということだった。

そんな過去と向き合う自分のそばに、今や大事な家族がいて、中学時代からの幼馴染である伊賀ちゃんがいて、Emeraldの智之がいて、純粋に音楽を楽しみ続けてるbirds melt skyの2人のサポートがあり、ロックとは本来はこんな風に楽しむものだったのかもなという気持ちにさせてもらえた。解散時期当時の僕にはその景色は見えなかったであろうことは分かりつつ、本当に感謝してもしきれない。贅沢なメンツだった。

智之は倉地がライブでよくきてたマウンテンパーカー的なものを真似て、迷彩柄のウィンドブレーカーを着てステージに立っていた。リハスタで、トリビュートにおける思い思いの難しさを交換した。みんなそれぞれ思い入れを持って挑んでくれた。birdsの2人だって、その昔彼らの前身バンドで大阪で対バンしたことのある仲で、昔から付き合いのある2人だ。長年続けてきた自身のバンドを持つ彼らを起用した以上、そのこともきっちり書いておきたい。ある程度事情を知った上で、引き受けてくれたのだ。

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個人的に筋を通したくて、出演を決めた後、発表前に今は長野に住む大学の同級生のマネージャー経由でメンバー3人には許可をとった。そして智之も、付き合いのあったオリジナルメンバーには連絡をしたようだった。快く快諾してくれたことに、感謝と、直接連絡を取れない恥ずかしさと寂しさがあった。そして「okなんかーい!」と心で突っ込んだ。遠き故郷に戻り家族ができたり、デザイナーとしてうまくいってたり、みんな大人になっているんだろうなーと思いながら、それを寂しく思う自分も普通にいるという感じ。

一筋縄ではいかない独自性を持ったPBLの鍵盤をプレイするというプレッシャーを負う形で参加してくれた「伊賀 こうへい」は全寮制中学の一個下の後輩で、昔から仲良くしてた。耳コピができない僕のために、弾きたい曲のギターを耳コピしてくれて、よく一緒に音楽の話をしたし、いつかなんかやりたいなーと思ってた。一緒にギターで大きい音を出したくて、最後の曲は鍵盤じゃなくギターを弾いてもらった。13歳の出会いから見ると、実に26年の歳月を経て同じステージの上に乗った。伊賀ちゃんの出す轟音は面白くて好きだなーとHINOMARIを見ていつも釘付けだった。一緒にギターを弾ける曲があってもいいのだけど、オリジナルメンバーは鍵盤なので、ギタリストなのに鍵盤をお願いする形になった。とにかく完コピのために尽力してくれた。いつか優しくて気持ちいい静寂と轟音と美メロだけの音楽をやりたい。

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とまあこんな1人語りを読ませることに申し訳なさを感じつつ、何が言いたいかというと。

だいぶ不義理な終わりを迎えたバンドだったにもかかわらず、見にきてくれた昔のお客さん。配信を見てくれていた方々に感謝を伝えたい。そしてモヤモヤが再燃した方々にはごめんなさいと言いたい。僕の曲でもないということは、お客さん含め、当時を共にしたみんなの曲であるともいえるわけなので、やはり僕にはPBLの曲を演奏する権利はそもそもないのである。メロディと歌詞を書いて、ギターを弾いて歌っていただけで、あとは、関係性と各々の、センスで形になった曲達だ。

投げやりに終わって、きちんと説明もないまま、モヤモヤさせた、思い入れを抱いてくれたファンにとっては、当事者の僕如きが何を言っても、なんの説明にも慰めにもならないことは分かっているわけだけど。少なくとも、10年という時がたっても、お客さんのみんなと共有したPBLのフィーリングというものが、今もずっと体の中に残っていることだけは伝えたかった。

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おちゃらけた感じでやりたくなかったのも、完コピにしたのも、そういう意図であった。

4人で作った楽曲を、今に残し伝えていくことも、一つ僕は大事なことだと思っていて、あの音源たちが、今の時代にあった形で、配信などされることも強く望んでいる。だから、好きでいてくれて、大事に思ってくれていた方々はこれからも大事に聴いてください。時代が変わった今の世でも、変わらず寄り添えるならそんな嬉しいことはないです。そのフィーリングは僕の中にもきちんとあるので。みんな一人一人と(バンドの4分の1でしかない僕ではあるけど)静かにつながってます。僕自身、あのバンドのファンの1人と、思っていただけたらいいのかな。

いや違うか。それは違う。

本ライブ、短すぎたけど出し切ったと言える。
演奏後のグッタリ感。タバコの味、(帰宅後の)ビールの沁みる感じ。何もかもEmeraldとは全く違う懐かしい感情が蘇った。

スライドの中間部分のフィードバックは我ながらうまく行った。

昔からのお客さんにも、友達にも見て欲しかった。
Emeraldのファンの人にはあんまり見て欲しくない笑。
実はあんまり告知をしたくなかった笑

きっとびっくりさせてしまった。

僕らが産まれた大学時代の先輩方は、きっと見てもいないだろう。
それはシンプルに寂しい。暖かく見守ってくれたあなたたちがいたから、僕らは存在した。

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翌日、ライブを見てくれた飲み屋の友人の1人と話した。「情報量が多くて、どういう気持ちになっていいかわからず、帰り道無音で帰り、帰ってもどうしていいかわかんなくて仕事した」

と言っていた。
そうだよなぁと。

僕は今も昔もそういう音楽が大好きだけど、わざわざライブにきてくれたお客さんにそんなストイックな夜を過ごさせるのは嫌だなぁって。最近はそう思ってしまう。でも、なんか心がシーンとなっちゃうような音楽に身を置くことも、その感じを楽しめる人が増えて欲しいとは常々思う。わかんないことをわかろうとするときに、人はちょっと変化するなって。もはやそんな役割は、映画に集約されて、音楽は背負っていないように見えるけど。

音楽の中にあるそんな要素に憧れてやっていたバンドです。そういう意味では、その憧れに、少しはタッチできていたのかもとも思えたリアクションだった。最近出会った人は、別人を見ているようだったと。それもそうだ。

Emeraldメンバーが、リアタイでみた後に思い思いの言葉をくれた。
それもすごく嬉しかった。

離れ離れの友人が、久しぶりに連絡をくれた。
その昔ライブハウスに通い詰めてくれたファンの方が、帰りがけ話しかけたくれた。嬉しかった。

というわけで。

移ろう季節の中、適度に自分勝手に健やかに過ごしましょう。
憂鬱な日は、音楽でも聴いて、機嫌よく暮らしましょう。
アイデアとユーモアと情感に溢れた豊かな日々を過ごしましょう。

読んでくれてありがとう。

ありがとう。

Emerald / ex. PaperBagLunchbox
中野陽介

温かなサポートは他のノートのサポート始め、外で書く際のコーヒー代などに当てさせていただきます。