見出し画像

第34回 剰余価値(Mehrwert)周辺の話、その2:「はじめが一番むつかしい」

 「資本論-ヘーゲル-MMTを三位一体で語る」の、第34回。


 前回から「剰余価値(Mehrewert)」について話し始めることになりましたが、そこでこの本をとても好意的に取り上げました。

 ただ。

 本の内容構成の関係で、内容はやっぱ相当難しいと思います。

 前半が、72年前の末永茂喜「経済学史」の復刻採録で、後半が現代の先生方による資本論第一巻の内容紹介という構成。

 この前半の日本語は、相当に読書訓練を積んだ人、粘り強い人、古典経済学に関心がある人以外にとってツライのではないかとは感じるところです。

 もう一冊、新しいところで、こちら。

 感想をXに書いたのですが、剰余価値の説明については現代目線で不満が残りました。

 短く言えば「富とはいったい何で、それはどこからどのように生まれるのか」という「ものの見方」を伝えきれていないような。

 これが「剰余価値」であると。

斎藤本より

 確かにこれは、資本家と労働者の間の労働力の売買による剰余価値の発生を示しています。

 おなじみの話ですよね。

 しかしポイントは、いかにして剰余価値概念が把握されたかにあるんです。
 この図はその現れ方の一つでる「利潤」あって、この前に知られるべきことは、「剰余価値」というものの考え方の方だとワタクシは思うわけです。

 「剰余価値」と「利潤」は違うのです。

 対して、大村の本から引用しましょう(元の文は末永茂喜のはずです)。

スチュワートは、しかしその剰余価値を利潤という、価値の特殊な形態において考えていて、純粋の剰余価値という形態において考えていない。剰余価値は、利潤の実体となるところのものではあるが、しかし前に見たように、利潤は剰余価値が一定の条件の下で採るところの、特殊な形態であって、剰余価値そのものは利潤とは著しく異なった性格をもち、まったく相異なった法則によって支配されるものである。この2つのものを混同するのは誤りであって、しかもこの誤った混同からは、スミスおよびリカードゥにおいて見られるように、他の方面における理論が発展したときには、さらに甚だしい理論的誤謬が生ずるものである。スチュワートは、この剰余価値と利潤とを混同するという誤りをおかしていたのであった。

 いやいや末永、圧巻です。

 大尊敬\(^o^)/

 この本はやはり素晴らしい。

 言葉の密度が入門的には高すぎる?のが欠点と言えば欠点なので、読まれる方は覚悟してください(笑

 でも、じゃあ、剰余価値って何?

 そこは資本論第四巻たるべき『剰余価値学説史』草稿を紐解くことによって徐々に鮮明になっていきます。

「社会の富」って何なのか

 有名な冒頭で「資本制生産様式が支配的な社会では、社会の富が、膨大なる商品の集積として現れる」と書かれています。

 一方で『剰余価値学説史』では次のような一節があります。

 有名でないパンフレットを引用してマルクスは以下のように書きます。

この筆者は明らかに自分ではわかっていない。それにもかかわらず、つぎのようなみごとな文句はやはり生きているのである。『一国が真に富裕であるのは、12時間でなく6時間だけ労働がなされるときである。富とは、自由に利用できる時間であって、それ以外のなにものでもない』。

この時間は、直接的に生産的な労働に吸収されないで、享楽に、余暇に、あてられ、したがって自由な活動と発展とに余地を与える。時間は、諸能力などの発展のための余地である。

自由に利用できる時間をもつ人でもある人の労働時間は労働するだけの人間の労働時間よりもはるかにより高度な質をもつに違いない。

 マルクスが真に「富」とみなしていたのは人間の自由時間であって、資本制社会で現れる方の「富」、たとえばスミスが『諸国民の富』でいうところの富は、むしろ真の富である自由時間を、ある条件の下では人から奪う当のモノということになる。。

 この把握を資本論第一巻だけから読み取るのは相当な読解力が必要です。

 でも第四巻になるはずだった『剰余価値学説史』を合わせて読むとそれははっきりします。

 その内容を少し見てみましょう。

ディルクによる匿名パンフレットに現れる「剰余労働」

 ディルクの匿名パンフレットとは『剰余価値学説史』においてマルクスが重要なものとして取り上げたものです。 

(上の大村本によれば、この匿名パンフレットの筆者がリカード派のディルクだったことを突き止めたのは杉原四郎だったとか)

 その原文はこちらで読むことができます。

 次の一節に注目です。

THE WEALTH OF A NATION, as of an individual, CONSISTS IN ITS RESERVED LABOUR
the stores either of money, machinery, manufactures, or produce, &c. &c. that it may possess, being the evidences and representatives of that reserved labour.

国家の富は、個人のそれと同じく、蓄えられた労働で構成される。
貨幣、機械、製造物、生産物などの蓄えは、蓄えられた労働の証拠であり、その代表である。

 さらにディルクはその少しあとの箇所で「できるだけ簡潔」にということで、次のように言い換えます。

the WEALTH OF A NATION CONSISTS IN ITS RESERVED SURPLUS LABOUR, by which I mean the reserved labour beyond its usual and necessary consumption;
国家の富は、その剰余労働力によって成り立っている。剰余労働力とは、通常の必要な消費以上の労働力を意味する;

 剰余価値(surplus value )にほとんど近い概念、剰余労働(surplus labour) という概念は、マルクスより前のディルクの時代に「諸国民の富とは何か?」という議論の中で登場していたことがわかります。

 マルクスの議論はその発展形。

 そんな歴史があったというわけ。

等価交換の世界で「富」はどのように生じて増えるの?

 スチュアートから重農学派、そしてスミス、リカードと発展した経済学の流れは、ひとつには、いったい等価交換の世界で「富」がなぜ、どのように生じ、拡大するのか?という問題の探求があったと言えるでしょう。

 資本論第四巻『剰余価値学説史』は、もし完成したならば、この観点で経済学史を総括し直したものになっていたはず。(ちなみにゲーテ『色彩論』の「教示編」がそれと似ている)

 当時から、誰が見ても巨大な社会の「富」は確かに存在していました。

 重商主義者たちは、それは商業の交換過程で生まれるものと考えました。

 しかしそんなことはありえず、なぜなら取引の一方が得をするならば相手は同じだけ損をしているはずだから。そう論じたのはスチュワートでした。

 重農学派の人たちは、富の源泉を「自然の恵み」としました。

 工業は富の形を変えるに過ぎず、商業は持ち主を変えるに過ぎない。

 一理ありますね\(^o^)/

 スミスは「農業だけが価値を生むってことはないでしょう」と、他の産業部門における労働も、農業と同じように価値を生んでいると論じます。

 その点ではリカードもそうなのですが、リカードはスミスを批判しつつも、上記の「等価交換でなぜ富が生ずるの」という問題に関して、スミスと同様に(とはいっても異なる意味で)迷走することになります。

 この混迷を徹底的かつ根源的に突いていくのが『剰余価値学説史』の仕事で、そのことによって「資本を増やすのが剰余価値であり、それ以外にない」という理解が深まるしくみになっている。

 資本論を読むだけでは、なかなかそこまでわからないんですよね。

 社会の富(商品の膨大な集積という意味での富)が増えるときには、剰余価値を増やす社会的行為・取引が必ず存在します。それは何なのか?

 それが問題です。
 この問いかけが資本論第一巻のハイライトだとワタクシは思います。

貨幣の資本への転化は、商品交換に内在する諸法則にもとづいて展開されるべきであり、したがって等価物どうしの交換が当然出発点とみなされる。
いまのところまだ資本家の幼虫でしかないわれわれの貨幣保持者は商品を価値どおりに買い、価値どおりに売り、しかも過程のおわりには自分が投げ入れたよりも多くの価値を引き出さなければならない。彼の蝶への成長は流通部面で行われなければならないし、また流通部面で行われてはならない。これが問題の条件である。

Hic Rhodus, hic salta!
(ここがロドスだ、さあ跳んでみろ!)

 最初の問題はここにあり、答えはそのあとにすっかり書かれているというわけ。

 剰余価値を説明するときにはこの問題の提示が欠かせない。

 ワタクシはそう思います。

 だって筆者の気合が入っているのだから。

Hic Rhodus, hic salta!(第六回より)



 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?