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第35回 剰余価値(Mehrwert)を図で導出する

 「資本論-ヘーゲル-MMTを三位一体で語る」の、第35回。


 前々回前回で「剰余価値(Mehrewert)」についてざっくり話し始めました。
 今回は剰余価値をガチに説明しようではありませんか。

 力がはいってますよ\(^o^)/


はじめに

斎藤幸平本の「剰余価値」

 何しろ前回など、斎藤幸平さんの本のこの図が気に入らないと啖呵を切ってしまいました!

 これは「剰余価値というより利潤である!」とまで踏み込みました。

 ただこの条件だけでは「剰余価値」とも「利潤」とも解釈できるので、ワタクシが踏み込みすぎだと言われればそれはそうです。

 その気に入らなさを一言でいえば、剰余価値が構成される単価を「先に」2000円と提示してしまっていることに尽きるでしょう。

 今回のこのエントリで説明していきますが、それは剰余価値の「とある現象形態」であって、剰余価値そのものではないのです。
 
 少し落ち着いて考えて、「剰余価値とは剰余価値の一単位の倍数である」と言われたところで、それは循環論法、トートロジーであって、説明にはなりませんよね。

 もうちょっと言うと、労働力の価値が対象化されて表れる「労賃」は、「地代」や「利子」や「利潤」という現象形態と相まって、剰余労働や剰余価値の歴史的運命をすっかり隠してしまう働きをするもの(とマルクスは主張しており、ワタクシもそれホントだなあと深くおもう)。

 ええ、筆者にしてみれば「これは労賃でなく剰余価値の単位である」ということなのでしょう。
 
 でも初学者の人たちがこの図を見たら、労賃のことだと思うのではないでしょうか。そうだとすると、この表現は、実質的に剰余価値よりも利潤に近い。

SNSにみる、よくある「剰余価値」理解

 いまSNS検索で拾えたものをいくつか。
 次のような疑問に陥る人をときどき見かけます。

 うんうん、そうですね!
 じつはワタクシもそうでした。
 上の説明ではこの疑問の解決の糸口が見えないのでそれ以上読んでもらえない可能性が出てきます。

 あるいは、論理が成立しているとは言えないのでは?というもの。

 ええ、そうですね。
 何を隠そう、資本論を読む前のワタクシも同じように思っていました。

 このタイプの疑問に対しても、斎藤本の説明はちょっと弱い。

 ではワタクシの説明を始めますが、まず、今回ご説明する論理の順番は次のようなものです。

論理の流れ

 まず、剰余としての「富」が存在している。
 この「富」は人類の労働を父として生まれたものである(母は大自然)。

 そして労働の全体は「人類存在の維持のための労働」部分と、「それ(人類存在の維持に使われる分)を超えた量を生産するための労働」という二つの部分に分けて考えることができる。

 これはちょうど夏休みの宿題を早く終わらせるためには、早め多め済ませておけばその分が将来の蓄積になるというのと似ています。

 「富」は、人が労働力を支出すればするほど大きくなる量です。
 だから、ある一定時間(たとえば一年)で増加させた(生産した)その全体を、その期間における人類社会の総労働時間で除したものが時間当たりの「価値」になる。 

注記…
 ここで言う「増加させた(生産した)全体」は、剰余分(「増えた分」)ではありません。同じ期間中に消費された分は「減って」いますが、消費てなくなった分も同期間に生産されていたので、「増加させた(生産した)全体」に含めて考えなければなりません。その分は、現状維持に資したのですが剰余分ではありませんよね。
注記終わり

 とまあ、「労働価値説と呼ばれるもの」はこんな感じです。かつてそれは「神の恩寵」「自然の恩寵」と見なされていたのを、人間の労働の産物としてとらえ直したことはアダム・スミスの功績です。

 もちろんここで「神の不思議な恩寵」「大自然の不思議な恩寵」と理解して話を聞くのをやめるのは、それぞれの自由でありましょう。

 ただ、われわれの Wissenschaft(科学、知識体系)はそういうものではありません。

 では詳しい説明に入りますが

 おっと、その前にあと一つだけ。

「ある一つの全体の分割」的な思考

 キーワードは「ある全体」の「分割」です。

 この方法は、18世紀末に若き哲学者フィヒテが提示し、のちにドイツ・ロマン派と呼ばれることになる詩人たちを魅了した、まったく新しい世界の把握の仕方に端を発しているものです。

 それはシェリングやヘーゲルらも同様で、彼らは独自にこの思考を発展させ、それぞれに壮大な、または幅広い議論を展開することになります。

 何度も強調していますが、マルクスの体系もその延長線上にあって、やはり「ある全体の分割」という手法は随所で感じることができます。 

 ちょっと横道にそれますが、ドイツ語で「分割する」(動詞)は teilen といい、「一部分」(名詞)は Teil 、タイルです。

 そしてこれらに ur- という接頭辞が付いた形の、ur-teilen という動詞(代表的な意味は「判断する」)、Ur-teil という名詞(代表的な意味は「判断」)があります。
  ur- は、「原初の」「最初の」「基本的な」事態を表します。

 つまり。
 「分割する」・「部分」の起源に「判断する」・「判断」があるというニュアンスがある。

 何かを「分割する」とは「判断する」ことに他ならない。

 そんな感じです。

富を巨視(マクロ)的に把握する

 こんな図を作ってみました。

図1:人類史と人類以外の歴史

 この図は人類史と他の有機生命体(動物や植物)たち歴史との顕著な違いを表したものです。

 「人類の歴史」は〇がどんどん大きくなる一方。

 「人類以外の歴史」の〇はその大きさがほぼ変わらないことを表現しています。

 たとえば「知識」がこれに当てはまることとはすんなり理解できるのではないでしょうか。

 人間以外の他の存在は、未来に向けたこうしたものを絶えず「産み出し」、「蓄積する」ことをしません。

 彼らにも蓄積のようなものがちょっとはあるかもしれませんが、せいぜいじぶんが生まれてから死ぬまでくらいのもの。そのあとは次世代がゼロからやり直すことになるので、年月とともに蓄積される富はほとんど「ない」と言えます。少なくとも、人間のそれとくらべれば無視できるほどに小さな量であるとは言えるでしょう。

 次に、上の図を少し書き換えます。

図2:人類史を「変わる」部分と「より増えた」部分に分割

 ここで「黄色の部分」以外の、「黄色の中の青部分」は「前の測定時の量」を表します。
 よって「黄色の部分の量」は、前の測定時に比べてより増えた量を表すことになります。

 この図は何をやっているのでしょうか。

 それは「全体の量」を「変わらない量」と「変わった量」に「分割」して把握しているのです。

 この分割を使って、人類の歴史は同様に次のように表すこともできます。

図3:「もっと増える(Mehr)」部分の累積的な加算としての歴史

 それって数式で簡単に書けるのでは?

 そう思われる方も多そうですが、あえて「量のイメージ」によってタイル(部分)に「分割」して把握しようとしています。
 
 こんなふうに、ものごとを「全体」と「部分」に分けるところから始めるのが(ある種の)哲学です。

 何らかの、ある「部分」を考えると必然的に「それ以外の部分」が現れる、みたいな。

富の発生の微視(ミクロ)的な把握

 上の黄色+青の部分、つまり各時点で世界に現存する巨大な「富」は、人間たち自身が生み出したものです。

 ここで次は、微視(ミクロ)的な思考に転換します。

 さて、ミクロな「人間」の生活と、ミクロな「生物(人間以外)」の生活の違いはどこにあるのでしょうか。「蓄積された富」が存在している以上、その秘密はここにあるはずなんです。

図4:人間以外の活動と人間の活動

 人間の活動全体の中に、蓄積を産み出す「未来のための活動の部分」が存在していて、その活動が富の蓄積のきっかけになっているはず。

 このように、もしそれが神や自然の恩寵でないならば、その由来は人間にあると「近代科学的」に考えるのです。

 そうすると、このこと自体が人間と他の生物を区別する一大特徴として現れます。

 まあそうですよね。

 陳腐な話?とお思いの方も多いでしょう。
 
 ワタクシもそうでした\(^o^)/

 ところがマルクスの話が面白く、そして科学的になっていくのは、実はここからだったのです。

労働の全体には、剰余労働の部分が存在する

 人間の日々の活動をもっと詳しく考えてみましょう。

図5:三分割した人間の活動

 いかがですか?

 もっともらしいですよね。

 しかし。

 人間は、赤の「未来のための活動」をしているときも、たとえば呼吸をしたり心臓を動かしたりしています。
 つまり「未来のための活動」は「その他の活動(食事など)で摂取したエネルギー」という基盤の上に成り立っているではありませんか!

 あたりまえ、です。

 しかしここが、たとえばフィヒテがその哲学において考慮の内に入れていなかったことなのです。

 赤の部分、つまり「未来のための活動」は、まるごと「それ以外の時間」、つまり白と青の部分を基盤としているはず!と考えるというわけ。

 さて白の部分(休息)については、赤の部分と青の部分の両方の基盤になっていると考えられます。

 青い部分はどうでしょうか。

 この青の部分は、もはや単純に「生命を維持するための活動の部分」とだけ言うことはできません。
 なぜなら、青の部分は、それ以上の部分である「赤の部分」の基盤をなして「も」いるからです。

 というわけで、今や青の部分は「全活動の基盤となる活動部分」と呼ばなければならないことになりました。

図6:三分割した人間の活動(その2)

 ここで、青い部分の活動を「労働」と呼ぶことにします。

 さらに「労働」を二分割します。

労働は剰余の部分とそれ以外の部分に分割できる

 青の部分、「労働」の全体)を、「剰余労働」の部分と「剰余労働ではない労働」の部分に「分割」して把握しようというわけです。

 後者の部分は、他の動物もやっているところの「現状維持のための労働」の部分ですが、それはこのまま青色で表現しましょう。

 残るもう一方の、その分量を超えた分の労働は緑色を使うことにします。

図7:人間の活動の質的・量的な四分割

 この図によってワタクシが表現したいのは次のことです。

 人間は、それを存在維持に必要な分量を超えた労働をしているからこそ、「自由な活動」の物質的基盤ができ上がり、それによって具体的な蓄積ができるようになっている。

いちおう検算

 さて、ここでもう一度「緑」の導出部分を図で追ってみようと思います。

 スタートは、「労働」が「全活動」の基礎をなすという把握でした。

図8:「労働」は「全活動」の基礎をなす

 次に、青い部分(労働)をさらに二つの部分に分割しました。

 「現状維持のための労働」の部分と「それを超えた労働」の部分とにです。

 前者を青、後者を緑ということにして下の図のように分割したのです。この緑色の部分が「剰余労働」に相当する部分でした。

図9:労働の二分割による剰余労働の導出

 どうでしょう。

「剰余労働」の考え方がちょびっとわかってきたのではないでしょうか。

 ついでにもう少し分析(検算?)して、合っているかどうかを確かめます。

図10

 こうして分割したものを合体させると、上の『「労働」は「全活動」の基礎をなす』の図8に戻ります。 

 あってました\(^o^)/

 ミクロの分割をまとめてみましょう。

人間の活動の分割のまとめ

 人間の活動は質的に以下の四種類に区別され、量的には図7のように分割することができる。

  • 存在の維持のための労働の部分

  • 蓄積をもたらす剰余労働の部分

  • 自由な活動の部分

  • 休息の部分

 この質的な区別そのものは、人類が「蓄積する種」である限り、それぞれ存在していることになります。

 そしてその「量」の配分は人類自身が意識的に定めることができるはず。

 少なくともマルクスの時代の社会主義者・共産主義者たちはそう考えましたし、マルクスが誰よりもそうであったことは資本論以外の文章の膨大な文章から明らかです。

 また、マルクスが剰余価値学説史においてリカードを最も批判した点は、この労働時間の「配分」をリカードが可変なものとしてでなく(つまり自由時間は一定とした)、所与の一定の値だと無意識に考えた点にありました。

 リカードのような理論からは労働時間の短縮という政策オプションは理論的には決して導出されません。

 そしてお判りでしょうか、現代の経済学理論もまた(MMT以外は)まずそうなっていますよ。

「失業」を導入することでリカードを乗り越えたとするケインズの一般理論も、その論理構造はマルクスの批判を逃れていないと思うんですよね。

ところで、これもフィヒテ的「分割」だった

 ところで、いま「労働の全体」を「剰余に関与しない部分」と「剰余に関与する部分」に分けましたよね。

 フィヒテ的と思うのは、まずある概念Aを考えて、そのときAと共に「非A」の方をも浮かび上がらせる思考なんです。

 これ当時のドイツ哲学ぽい言い方だと「まずAが措定されると非Aが反立措定される」みたいになるのですが、ワタクシはこれをいつも図形で把握しているのです。

 昔の人は描画ソフトなしでこういうことを考え、超細かいところを議論していたのだからとてもすごいと思うんですよ。

では剰余「価値」は?

 以上で「剰余労働」の考え方、その概念の導出の説明はできたと思います。

 最後に「剰余価値」の説明に入りましょう。

 ただちょっと待って。

その前に「価値」の本質は?

 「剰余価値」とかいう前に「価値」とはいったい何でしょうか。

 この質問は、物理学者に「力」とは何かを説明させるのと同じむつかしさがあります。

 「力」は普通は次のように説明されます。

  • 物体を変形させる原因となるもの

  • 物体の運動状態を変化させる原因となるもの

 これは「定義して決める」というよりも「世界から、ある共通のものを見いだそう」ということですよね。

 このように「力」は「これが力です!」と直接見せることができるものではなく、「物体の形や運動状態を変化させる何か」というように「力そのもの」ではない「物体」を媒介にして表現される何か。

 そのようなものなのです。

「価値」も同じように「世界から見いだされる共通のもの」として分析していくのですが。。。

 マルクスが「価値の本質」はどのようなものだと表現したかを見てみましょう。
 下に引用するように、資本論の第一部第一章第四節に、マルクスはロビンソンクルーソーを登場させます。

資本論におけるロビンソン・クルーソー物語

 ここには交換も貨幣単位も出てきません。これ重要!

 にもかかわらずマルクスは「そのうちには価値のすべての本質的な規定が含まれている」と書き記します。

 ここを読めば、「価値」は交換とも貨幣単位よりは、むしろ「富」や「生産的労働」や「時間」に直接関わるものであることがはっきりわかります。

 経済学はロビンソン物語を愛好するから、まず島上のロビンソンに出てきてもらうことにしよう。
 生来質素な彼ではあるが、彼とてもいろいろな欲望を満足させなければならないのであり、したがって道具をつくり、家具をこしらえ、ラマを馴らし、漁猟をするなど、いろいろな種類の有用労働をしなければならない。祈祷とかそれに類することは、ここでは問題にしない。というのは、わがロビンソンはそれを楽しみにし、この種の活動を保養だと思っているからである。彼の生産的諸機能はいろいろに違ってはいるが、彼は、それらの諸機能が同じロビンソンのいろいろな活動形態でしかなく、したがって人間労働のいろいろな仕方でしかないということを知っている。必要そのものに迫られて、彼は自分の時間を精確に自分のいろいろな機能のあいだに配分するようになる。彼の全活動のうちでどれがより大きい範囲を占めどれがより小さい範囲を占めるかは、目ざす有用効果の達成のために克服しなければならない困難の大小によって定まる。経験は彼にそれを教える。そして、わがロビンソンは、時計や帳簿やインクやペンを難破船から救いだしていたので、りっぱなイギリス人として、やがて自分自身のことを帳面につけはじめる。彼の財産目録のうちには、彼がもっている使用対象や、それらの生産に必要ないろいろな作業や、最後にこれらのいろいろな生産物の一定量が彼に平均的に費やされる労働時間の一覧表が含まれている。ロビンソンと彼の自製の富をなしている諸物とのあいだのいっさいの関係はここではまったく簡単明瞭なので、たとえばM・ヴィルト氏でさえも特に心労することなくこの関係を理解することができたことであろう。
 しかもなおそのうちには価値のすべての本質的な規定が含まれているのである。 

リカード批判

 マルクスは第二版においてこの箇所に、大経済学者リカードを批判する注釈を入れているので見てみましょう。

リカードにも彼のロビンソン物語がないわけではない。「彼は、原始的な漁師と猟師にも、ただちに商品所有者として、魚と獣とを、それらの交換価値に対象化された労働時間に比例して交換をとり行わせている。そのさい彼は、原始的な漁師と猟師とが、彼らの労働用具の計算のために、一八一七年にロンドン取引所で用いられている年賦償還表を参照するという時代錯誤におちいっている。『オーエン氏の平行四辺形』が、ブルジョア社会形態以外に彼が知っていた唯一の社会形態だったようである。」((カール・マルクス『経済学批判』、38、39ページ〔『全集』、第13巻、45ページ〕)。

 辛辣ですねえ。

 原始の時代の「価値」は、その時代の人々(漁師と猟師)自身がどのようにそれぞれの労働時間を分割配分して価値を考えていたかに直接関係しています。

 先にどこからか価格表が与えられて、それに従って交換が行われることはあり得ないですよね。
 リカードの話にはその論理的な転倒が見て取れる。

以上を踏まえて「価値」とは

 というわけで、「価値」に先立つものとして「社会の総生産物という把握」が必要です。
(なお念のため、これは社会の中の諸個人がこの量を知っていることを意味しません)

 そして、生産物は労働によって産出される。

 そして、加工され、いまこの世に存在している生産物(=まだ費消されていない生産物)の総体が、「その時点の社会の富の全体」であると見なすことができる。

 実際、ロビンソンの「財産目録」はそのようなものですよね。
 これも図にしましょう。

 まず、機能が分類されているはず。


図11:ロビンソン犬の諸機能

 (この犬は蓄積するようです)

 そしてこの分類を元に表を作ります。

図12:機能リストから財産目録を作成

 この緑のアイテムから、それぞれのある時点の存在量を記入した「財産リスト」ができるでしょう。

 それが蓄積された富の総量を表します。

 表は今の言葉でいう「データベース」ですね。

われわれの富の総量

 現代に飛んで、この2024年もわれわれの富の総量は増えていることでしょう。

 それはつまり今年(2024年)の1月1日から本日までに増加している生産物の量、つまり「剰余した分量」です。

 「価値」は、この量がたとえば「一労働者の一時間当たり」というように、何らかの時間を単位として表されたものとして現象するものなのです。

 ですのでそれは、概念的な平均的労働者の、概念的な時給が剰余価値の一単位ということになるので、斎藤幸平さんの図は_結論としては_間違いとは言えません。

 ただそれは、なぜ時間給が価値の表現になるかの説明を欠いているので結局は説明になっていないと思ったというだけで。

直近のSNSにみる「剰余価値」

 最後、せっかくなので冒頭ご紹介のSNSのご意見に対するコメントを書いておきましょうか。

なんで「剰余価値」が人間の労働力によってしか増殖しないのかが未だにわからない。機械だけで自動生産しても、そこに値段を上乗せして販売したら剰余価値になるんじゃないのか。永遠にわからん。だれかわかりやすく教えて欲しいな。

 その機械は神や大自然の恩寵ではなく、誰かしら人の過去の労働によって造られたものと思われます。なので、それで生産した分がその機械の減耗分より高い価格で売れるならば、その差額が剰余価値を構成するというわけ。

労働価値説が成り立たないなら、剰余価値とかいっても意味がないよね。

 これは「労働価値説」という把握がワルいとワタクシは思います。それはちょうどMMTを「貨幣の理論」であると把握することに似て。
 MMTは究極的に「貨幣以外」の理論です。
 同じように、マルクスの理論を「労働価値説」というのはかなり問題があると思っていて、というのは、社会の生産様式によって何を「価値」というかが反転しうるという話をも彼はしているとワタクシは考えるからです。

 また、今回の話でわかっていただけたと思うのですが、労働の価値の概念は次のようなものではありません。
 つまり、それを「時間あたり2000円」のように先行させてからそれを出発点として富を計測するような。
 これではリカードと同じです。

 「時間あたり2000円」は「価値」そのものではなくて、それは労働力の支出量が一時間当たりの貨幣量として対象化された、価値の「とある現象形態」と言えます。

 これはちょうど、物理でいう「1ニュートンの力」とか「6kg・m/s^2 の力」が「力」そのものではないのと同じです。
 「1メートルの長さ」も、それは「長さ」そのものではなく「とある長さ」であり、あるいは「長さの単位」なんですよね。

 このあたりは各自よく考えるか、ヘーゲルを読んだりしてください(笑)

 もうひとつSNS検索から。

 そうですねえ。。。
 わたくしも資本論を読む前までは、「どうせそうした話なんてないんでしょ」とずっと思いこんでいました\(^o^)/

 剰余価値は生産物にだけかかわる概念なので、まあ、とうぜん侘び寂びはそこには入りません。

 それは上の図の赤色部分、「労働以外活動」の仲間になるでしょう。ロビンソンの「祈祷」と同じです。

 ただ。
 上の資本論のからの引用の一部ですが。。。

祈祷とかそれに類することは、ここでは問題にしない。というのは、わがロビンソンはそれを楽しみにし、この種の活動を保養だと思っているからである。

 マルクスとしては、なにしろロビンソンがそれを「生産」でなく「保養」だと「思っている」から「ここでは語らない」のだと。

 本人がそれを楽しみと把握しているから、その活動を「労働」ではなく「保養」の中に入れている。

 だからもしロビンソン自身が(つまり社会が)それを「保養」ではく「生産」だと思っていれば、それは「生産」でありうるのです。

 このように「祈祷とか」も富であり得るという余地をマルクスは残していて、日々の諸活動を「分割」するときに、「その機能」はどの色の部分に入れますか?という話ですよ、ということになっているんです。

 こんなふうに資本論第一部の記述って、恐ろしく周到で完成度が高いのです。

アーレント批判

 引き合いに出して恐縮ですが、マルクス主義批判者だったハンナ・アーレントも、著書『人間の条件』において、人間の「活動(activity / Tätigkeit)」を三分類します。

 「労働(labor / Arbeit)」・「仕事(work / Herstellen)」・「活動(action / Handeln)」というように。

 しかしワタクシに言わせると、フィヒテ以来のドイツ哲学の展開をしっかり踏まえたマルクスに比べるとあまりにも表層的だと思わずにいられない。

 それは「一なるものの分割」(上記のフィヒテ的分割)の論理になっていないせいかなと思ったり。

 話が拡散してきたので、今回はこの辺で。

(了)

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