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宗教としてのマネタリーベース・マネーストック

新しいMMT入門」の第15回。
 兼
資本論-MMT-ヘーゲルを三位一体で語るの第49回。

 前回は諸星たおさんの文章の一部分析しました。
 その後ご本人と短いやり取りがあったのでリンクしておきます。

 金ぴかの発売は 2019/8/30で、コロナ上陸が 2020年の一月、このムックの発売は 2020/5/15 という時系列ですか。

 日本MMTウオッチャーの第一人者としてぼくが2019年以来やってきたことは、振り返れば、そうした諸「日本語におけるMMT関連エクリチュール」の分析だったと言えるでしょう。

 これが、ぼくの芸風ということですな。。。

 翻訳活動以外の発言を始めたのが2019年の3月、その最初が中野「富国と強兵」におけるMMT関連の記述の分析でした。

  • 2016/12公刊『富国と強兵』(中野剛志)
    【2019/3/22分析:ここ

  • (整理中)

  • 2008/6公刊『「はだかの王様」の経済学』(松尾匡著) 
    【2024/4/19分析:ここ(第12回)】

  • 2020/5公刊『MMTと安全保障』(諸星たお著)
    【2024/4/28分析:ここ(第14回)】

 この間にぼくは、膨大なMMTおよびマルクスに関する日本語文献に触れて来たわけですが、自分の特徴はどちらも必ず元の言語の原テキストを先に読んでいるというところにもあって、だからこそ可能な仕事なんですよね。

 さて次は、1993年8月公刊『金融政策の経済学 「日銀理論」の検証』(岩田規久男著)を採り上げたいと思います。

 なぜか。

 それは現代日本の経済言説空間において「マネータリーベース」や「マネーストック」という言葉がこれほどまでに流通しているのはなぜか?という分析をしたいからです。

 たとえば前回取り上げた『MMTと安全保障』(諸星たお著)を見てみましょう。

『MMTと安全保障』(諸星たお)分析その2

 前回の分析のためにぼくが独自の節番号を付与しました。その「8.信用創造とは(J)」の後半に、次の記述があります。

 準備預金額は、銀行の負債である預金額に準備率をかけて算出されるので事後的です。ただし日銀へ預ける準備預金は、銀行の負債である預金残高から繰り入れるのではありません。銀行の資産(国債や物件等)売却益や、中央銀行、市中銀行から借りて満たすか、顧客がATMから入金した現金紙幣が充てられます。
 これらはマネタリーベース(MB)と呼ばれるお金で、現金紙幣を除き、日本銀行の中でやり取りされるお金です。銀行預金は、市中で使われるお金で、マネーストック(MS)といいます。

 この概念提示を受ける記述は、少し離れて「15.デフレとインフレ(J)」において現れます。

デフレとインフレ
 税の支払いには現金と預金が使われます。実体経済で商品の取引に使えるのはこの二つですので、徴税とはお金(MS、MB)を減らし、希少性を高めます。お金の価値が商品より相対的に高まるので、デフレとなります。したがって、インフレ期には増税はインフレを抑制する効果がありますが、逆にデフレ期には減税や財政支出が、インフレ傾向に働きます。
 過去30年間の政策は、低インフレ期に増税と緊縮を行った為、デフレが長引いています。デフレ期は商品が貨幣に対して価値が低くなり、商品の生産者の価値も低下します。人の価値も安くなります。借金の額も相対的に重くなります。
 インフレは大体この逆となりますが、税制によっては格差拡大を妨げません。

 現代日本の多くの人はこの記述を違和感なく受け入れる、というのがぼくの観察です。
 そして一部には「MMTは貨幣数量説ではないはずでは?」という反応をする人たちも確かに存在していて(ぼく以外に学会でのやりとりなどで)、MMTの理解として正しいのは、この人たちです。

 ここの諸星さんの説明の仕方は、前回紹介した「セルヴェ理論を、のちのヴォルテールが説明した仕方」と同じです。

 前回も引用しましたが川村文重がこう書いていて

理性に基づいて寛容を説くヴォルテールにとってみれば、敵であるカルヴァンの敵は味方になるのだ。過激派狂信者として断罪されたセルヴェを啓蒙主義というメガネを通して描くヴォルテールは、セルヴェの名を啓蒙の思想運動と間接的ながら関わらせる可能性を模索していたように思われる。

 この表現を借りて言うと、こうです。

反デフレを説く諸星にとってみれば、敵である緊縮思想の敵は味方になるのだ。MMTを反デフレ主義というメガネを通して描く諸星は、MMTの名を反デフレの思想運動と直接的に結び付けている。

マネータリーベース・マネーストック

 マネタリーベースあるいはマネーストックという概念は、確かに経済政策マニアの間でよく知られた概念です(なお「経済学者」はプロの経済政策マニアを意味します)。

 が、MMT(モズラーの思考)をゼロから学んでいこうとすると、かなり初期にその概念が社会にとって原理的には無意味であることを悟らされるはずです。

 それはちょうど「プライマリーバランス」という概念が無意味になるのと同じなのですが、プライマリーバランスを無意味と言いながらMMTに接近する人たちが、マネタリーベースあるいはマネーストックを熱心に語る様子がしばしば見られて、これはパラドックスになっています。

 しかし現代において「わかっている陣営の人」がこれを「それ貨幣数量説!」と「批判してみせる」だけでは何の意味もないことがわかってきました。
「そうだけど、何か?」と言われるだけ。

 だからぼくは繰り返しこういいましょう。

 「それは物事を逆に見ている。お願いだから逆の見方を練習してみて!」

 ぼくの場合、踊り子のかかとを見ることで全体の回転をひっくり返すことが容易にできるようになっています。

 この操作のときだけは「逆にも見えるのではないか」と思ってはダメ、つまり逆にしたビューを見たいときにそう思ってはダメ。

 その疑いを持つことに意味が出るのは、自由自在に反転させられるようになったあとの話です。

 というわけで、そのための「じゅもん」はこうです。

 \(^o^)/貨幣量は価格で決まる(貨幣量→価格ではない!)\(^o^)/

 税の支払いには現金と預金が使われます。実体経済で商品の取引に使えるのはこの二つですので、徴税とはお金(MS、MB)を減らし、希少性を高めます。

 そうではなく、こう。

 税の支払いには現金と預金が使われます。実体経済で商品の取引の最終決済にに使えるのはこの二つですので、税圧を高めたり、高くしたままでは決済の難易度が高くなり、すでに金を持っている人が有利になっていきます。 

 わかるでしょうか。

 この反転に習熟すれば、「いったい「反緊縮」を言うために、なぜ、非科学的な「貨幣数量説」を持ち出す必要があったの?」とわかってくるはずなんです。

 エネルギーの遍在を知っていたセルヴェにとっては、「聖なる儀式によって『ただのパンと葡萄酒』に神のエネルギーが付与される」というカルヴァンの思想は一種のオカルトなんですよ。

 ぼくはエンゲルスのおかげでセルヴェを知り、そのことによって、マルクスが資本論第三巻で

重金主義(貨幣システム〕は本質的にカトリック的であり、 信用システムは本質的にプロテスタント的である

 と書いた深い意味が分かってきたつもりです。

 前回書いたつもりの信用貨幣論の宗教性はプロテスタンティズムと深く結びついていて、現代日本はその影響下にありますね。


 えっと岩田本の分析は?
 次回にします(笑

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