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大原美術館、から

 初めて大原美術館を訪れたのは、小学校の高学年の頃だっただろうか。両親が神戸から連れて行ってくれた。一人の画家をテーマにした展覧会には行ったことがあったものの、洋画や日本画を系統立てて展示する美術館に足を運んだことはなく、ここで画家の名前やその画風を覚え、絵を見ることの楽しさを覚えたように思う。その時から私の人生は決まってしまった。「美術館へ行くこと」や「絵を見る」ことなしに、生きてはいけなくなってしまったからだ。

 エル・グレコやモディリアーニ、クールベからカンディンスキーにいたるまで、西洋美術の流れを知ることができる収蔵品の数々。それは日本美術にも当てはまり、岸田劉生や梅原龍三郎、佐伯祐三などの画家たちの画風を知った。また、民藝運動の作家たちに触れ、その思想や作品のとりこになった。まず大原美術館で知り、画集を見たり、本を読んだり、作品を見たりと深まっていった。そして自分はどんな作品が好きかも知った。すべてはここから始まったのだ。

 さらには創設者の大原孫三郎や志を継いだ大原總一郎の、パトロンとしての気概に身震いがし、カッコよさに心底憧れた。児島虎次郎の目利きにより薦められた作品を購入し続け、一般の人々へ公開しようと考え、ついには美術館を作り、その思いは今も受け継がれているのだから。資産家たるものこうでなければと、今も強く思う。その影響から、望みが叶うなら何になりたいかと問われれば、芸術のパトロンになりたいと今も答える。

 大原美術館で出会った作品はどれも印象深く、いろいろなメッセージを投げかけてくれた。その中で敢えて1枚選ぶとすれば、熊谷守一の「陽が死んだ日」だろうか。日がな庭の蟻を眺め、虫や花や鳥の穏やかな絵を描いた人と、同じ人が描いたとは思えない、激しい絵である。それも無理はない。息子が亡くなったその姿を、今まさに目の前にして描いているのだから。

 息子が亡くなったことは悲しい。泣き叫びたい。しかし生から死への変化を目の当たりすると、どうしても描こうとしてしまう、表現者の哀しい性。絵筆のタッチは荒々しく、激しく、怒り、そして泣いてもいる。人の親に徹しきれない、絵描きの業。取り憑かれたようにこの絵を描き上げた後、ふと我に還り、彼は慟哭したのではないだろうか。息子を失った悲しみと、こんなときでも画家であることの、申し訳なさに。

 この1枚によって、絵には風景や人物だけでなく、感情も描くことができると知り、それからは絵の見かたが変わった。声や音や香りや空気感など、見えないものも表現することができるのだ。感情があふれて画面からはみ出してしまったような絵に、今も心惹かれてしまうのは、「陽が死んだ日」の前に初めて立ったときの思いが、影響しているのかもしれない。

 浴びるように作品を見て心が動かされた後は、柳が揺れる倉敷川の水面が目にやさしかった。両親と川べりをぶらぶらと歩き、お昼を食べに入った民芸風レストランの、大きなエビフライがおいしくておいしくて、今も忘れることができない。しあわせな出会いと始まりの記憶である。

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