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悲観は消極的な攻撃である

この頃、混迷渦巻くTwitterにて「ネガティブ思考は他者に気を使わせてしまうため悪いことであり、一種の攻撃性を含んでいる」といった論調を目にした。

↑ 元のツイートを見失ったため、関連するツイートを引用させて頂きました。

私自身かなりネガティブな傾向のある人間である為、時々他者とのコミュニケーションの渦中においても、その片鱗が現れてしまうことがある。

私としては悲観はある種のユーモアとして捉えており、自虐的に消費することで肯定的に会話を繋げるためのツールだと思っていた。しかし深く洞察してみると害を撒き散らすだけの単なる迷惑行為でしかないと今更ながら気付いた。

過度なネガティブは相手を不快にさせ、悲観を伝染させてしまうことがある。相手の感情を自分の感情と誤認してしまうが故に、悲観論を宣う他者によって自分までもが悲観的になってしまうのだ(逆転移反応)。

加えて悲観論を言われた側は気を使う役割に回らなければならない。会話における対称性は失われ、さながらカウンセリングのように「セラピスト」と「クライエント」の関係性にならざるを得ない。この状態が健全であるはずがない。

他方、ネガティブな思考を打ち明けられないことも問題である。臨床心理学者である東畑開人先生が「日常的にカウンセリングは行われている」といった趣旨の主張をされていたのを覚えている。本当にその通りだ。

即ち、日常場面においてネガティブ感情を開示することで、心的葛藤が軽減されたり、解消されたりする。一時的な悲観を他者が肩代わりし、悲観がまた別の他者へと渡り、巡り巡る中で少しずつ心が癒されてゆくものである。そうやって「持ちつ持たれつ」で人間は良好な関係性を築き上げてゆくことができるのだ。故にネガティブを過度に忌避することも絶対的に良いことであるとは言い切れない。

そして、ネガティブを過剰に攻撃することも別の視点から見れば病的であり、その行為自体がネガティブな要素を含んでいるともいえる。どちらとも無意識的な他者に対する攻撃だと私は思う。

二極化して物事を捉え、善悪を決定しようとする試み自体が、前提にネガティブな要素を多分に内包している。結局の所、求められる行動は適材適所であり、曖昧で塩梅な意思決定が重要だという退屈で安直な普段通りの結論に落ち着く。人生の奥義は中庸にあるのかもしれない。



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