見出し画像

ディバイデッドホテル 1/32

 夜に、月が浮かんでいた。畑野陽子は、肩まで垂らした髪をかき上げ、加熱式タバコを咥え、淡いけむりを一口吐いてから、「アイツがいるうちは、身動き取れないんだよね」とため息まじりに言った。
「慌てなくてもいいジャンか」
「そうなんだけど。でも、せっかくアナタが決めてくれたのに。なんだか、イライラする」
「ひどい言い方だな」
「そう思うよ、自分でも。でも、仕方ないジャン」
山口明夫は、温くなったビールを口に運んだ。
 ジョッキ越しに彼女を眺めた。テーブルに肘を突き、物憂げに首を傾げる姿を、夜が包んでいた。
 明夫は、二人の間に、小箱に入ったリングを置いていた。
 全面禁煙の店だったが、彼女を止めなかった。止めても、あれこれ言い訳して、やめようとはしないだろう。入り江に面したカフェレストランの、オープンルーフのテラス席。木製の丸テーブルと椅子を並べたその一角に、他の客はいなかった。呼ばなければ、空いたグラスを片付けにも来ない店員に、気兼ねする必要はない。中学生の頃から、彼女が愛煙家であることは知っていた。上唇の右端に、少し浮き出たホクロがあることも知っていた。近頃の加熱式タバコは臭わないし、見つからなければ構わないだろう、と明夫は考えた。
「良さそうなマンションができるのね」
「どこに?」
「天王町」
JR横浜駅から、私鉄に乗り換えて三つ目の駅だ。
「場末ジャン」
「あそこって、場末っていうの?」
「こことか、みなとみらいと比べたらね」
「そりゃ、ここから見れば場末だけど、横浜駅まで五分圏内だし、東海道線の駅にも、歩いて行かれるところだよ」
「保土ヶ谷駅は、横須賀線だよ」
「一緒でしょ? 品川まで三〇分。湘南新宿ラインに乗れば、渋谷まで三五分だって」
陽子が差し出したチラシを眺めて、明夫は眉を顰めた。国道一号線沿いに建設中の、およそ三千万の新築マンション。広くはないが、二人で暮らすには十分だ。
 彼女とは、この春先に再会した。彼が入会しているマッチングアプリに、彼女が新人として登録した。よく似ていると思って指名したら、彼女だった。中学生の頃、僅かな間、彼女と交際したことがあった。明夫には、それが初恋だった。その晩は思い出話と近況報告で明かし、連絡先を交換して別れた。ほとんど日を置かずに電話やメールで連絡し合うようになり、週に一度は顔を合わせ、互いのプライベートな話や、不安や悩みを打ち明けるようになった。彼女には娘がいて、来春受験らしかった。
「あと三年は、アイツの相手をしなきゃならないのね」
陽子は鼻から蒸気を吹き出した。
「一八になったからって、すぐに独立できるとは限らないだろ?」
「いやでも追い出すわよ。本当に、今だって、顔も見たくないくらいなんだから」
 時折、ビルの谷間から爆発音が響いた。週末のこの日、どこかで、花火大会が開かれているのだ。もうすぐ夏休みだ。母子の仲は悪かった。よくある話だ。得てして母娘は、互いの境界があいまいだ。近頃の母親は、安易に父親を排除しようとするから、ますます娘との距離が近くなる。典型的な母子軋轢の症例だ、と明夫は思っていた。
 陽子と結婚する。明夫はそう決めた。
 彼に子どもはなかった。五〇を越したこの年まで、結婚したこともない。別に不満もなかった。彼女と暮らそうと思ったのは、退屈だったからだ。仕事である程度成功し、生活に不安はなかった。母子二人の家族を引き取って、つかの間、夫とか、父親とかいった役割を経験するのも悪くない。
 人生を大きく四つのステージに分けると、二〇代までは、人格形成期。すなわち、どんなタイプの世間に属するかを決める時期だ。この時期に、人は粘土細工のように模られ、たいていその型から生涯逃れることはできない。山口明夫は、無難な成績で私大の文系学部を出、好景気のうちに市内の中堅広告代理店の営業職を見つけ、慣れない対人営業に戸惑いはしたものの、敵を作らない性格が周囲に認められ、そこそこの地位を占めた。必ずしも順風ばかりではなかったが、結果としては、人並み程度か、それ以上の境遇に納まることができた。
 四〇代までは、資産形成期。成形された自分の長所を生かして社会に出、個人の財を貯め込む時期だ。明夫は、たまたま顧客の依頼で企画した新商品がヒットし、特許を得た。『ピンボール・フリッパー』なるその商品は、新機軸のコンドームだ。男性器の表面を覆うゴムに特殊加工を施し、相手からのもらい物を防ぎ、自分からの贈り物は十分に与えるという、避妊の概念を覆す画期的な発明だった。これが、少子高齢化問題を抱える先進国で受け入れられ、世界的に販売されるようになった。顧客のメーカーは、もともと地場の化学製品工場に過ぎなかったが、今では東証に上場する、堂々たる一流企業に成長した。彼は営業員を辞め、現在は知財権管理会社の代表だ。経済的不自由はなかった。
 しかし、彼ほどの資産でなくても、定年まで働ける職と健康があれば、現代の日本なら、個人でも十分資産を築けるだろう。
『インディペンデントであること。独立した自分であること、あるいは、独立した国であること。これが、大切なのです』
対岸の、駅前広場に設置されたイベント会場から、声が響いて来た。
『あらゆる思考、あらゆる言動、あらゆる行動。これらをすべて、自分の意思で行うこと。これができて、はじめて、人は市民となるのです。あらゆる立法、あらゆる外交、あらゆる行政。これらをすべて、独立して行うことで、国ははじめて国と呼べるのです』
 近年はやりの、政治集会だ。主に右派の論客が、日曜や祝日などに各地で集会を開き、過激な論調の演説会を行った。彼らは極端に排外的な主張で聴衆の関心を引き、支持を集めつつあった。初めは、偏狭な趣味人たちの集まりだったが、徐々に勢力を増し、近年は、地方議会に傘下の議員を当選させるようになっていた。彼らは、令和ジョイ党なる政党を立ち上げ、地道な政治活動を行った。
『我々は、この国の政治を変えたい。この国は、しがらみが多過ぎます。あちらを立て、こちらに気兼ねし、そちらで頭を下げる。米国に追従し、中国に阿り、ロシアに気を配る。一体、どれが本当のこの国の顔でしょうか』
近く、横浜で市長選がある。ジョイ党は、独自の候補者を立てていた。その事前活動で、ほぼ毎週、市内各地でこうした集会を催しているのだった。
『この国に、かつてあったものを呼び覚ましたい。これがワタクシの希望です。願いです。小さいながらも、独立独歩を貫いた、栄光の歴史。それが、この国にはあります。ワタクシは、今こそ、栄えあるニッポンの伝統を呼び覚まし、新しい世代に受け継ぎたい』
「うるわいわね」
売れない風俗嬢の陽子は、言動のすべてが不機嫌だった。
明夫は政治に関心がなかった。「ちょっと、狭いんじゃないかなあ」と言ってチラシを陽子に返した。
(つづく)

※気に入った方はこちらもどうぞ。
壺の中|nkd34 (note.com)

※noteにはじめて書下ろしを出しました。『ボット先生』をよろしく。
ボット先生   【第1話/全35話】|nkd34 (note.com)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?