ディバイデッドホテル 6/32
八〇一号室はいわゆるVIPルームで、リビングとダイニングと、ベッドルームが二つと、二四時間風呂と、トイレと、キッチンがあった。東南の壁はガラス張りで、朝昼の採光はよかった。ただ見えるのは、向かいのビルの壁だけだ。八階は、この部屋と倉庫のみ。もともとフロア全体が宴会場だったのだが、感染症流行の影響でバンケットの利用客がいなくなり、居室に改装された。その際、いびつなフロアを四角く仕切り、余った部分を倉庫にした。
八〇一に長期滞在する山口明夫は、自分の荷物を倉庫に積んでいた。
「ああいう子が、趣味だったっけ?」
陽子はリビングのソファに腰掛け、ガラスのセンターテーブルに足を投げ出し、遠慮なく加熱式タバコを吹かした。「別に」と素っ気無く答えてから、明夫は栓抜きを回してシャンパンを開け、二本のグラスに注いだ。
黄金色の液体に、無数の泡が踊った。陽子は彼の差し出すグラスを受け取ると、一息に飲み干した。
「頭の悪そうな子ね。ろくに返事もしないで、カネだけ受け取って帰っちゃった」
「頭は、いいんだよ。逆上しても、カネは見逃さなかったんだから」
陽子は声を上げて笑った。
明夫はディバイデッドホテルで暮らしていた。過去にはマンションを所有したこともあったが、時間が経つにつれて古びる物件の資産価値に疑問が湧いて、当時の連れ合いと一緒に手放した。以来、かれこれ一〇年以上、ホテル暮らしだ。初めは、港湾地区のブランドシティーホテルに入ったが、料金の割に雑なサービスに苛立ち、場末のビジネスホテルを転々とするようになった。カネの苦労はなかったが、価格に対するリターンには、多少こだわりがあった。高級ホテルでは、高い利用料を要求しながら、それに見合ったサービスを提供し得ないスタッフと設備に、幻滅と同時に、言いようのない怒りを覚えた。払えない額ではないのだ。惜しいカネでもない。ただ、こちらは払っているのだから、それなりのリターンを期待する。この期待を裏切られることが、名のあるホテルでは多々あった。
そんなホテルには、泊まる価値がない。
当時はそう思っていた。
だが近頃は、そればかりが原因でもないだろう、と思うようになっていた。
同じ従業員が、毎朝毎晩、同じサービスを提供する。訓練された彼らは、よほどのことがない限り、正しい反応をする。顔を見れば挨拶をし、冗談を言えば笑い、注文すれば朝食を持ってくる。つまり彼らは、与えられたタスクをこなしたのだ。
そんな彼らに、明夫はいら立った。なぜ、いつも同じなのか。なぜ、変わろうとしないのか。
いや、そうじゃない。
問題は、なぜイラつくのか、だ。彼らは、自分の仕事をしただけだ。マニュアル通りに動いただけだ。それ以上を求めても、彼らはしない。動かない。それは、当たり前だ。そのための訓練を受けていないのだから。彼らは、やるべきことはやったのだ。つまり明夫は、求め過ぎていたわけだ。求め過ぎ、欲しがり過ぎ、それが適えられず、苛立ちを募らせた。近頃は、そう思うようになっていた。
無名のビジネスホテルでも、裏切られることはある。むしろ、裏切られることの方が多い。しかし、安いのだからこんなものだ、と思えば諦めがつく。
このホテルに入ったのは、半年ほど前だ。事業の収益をプールしている信金の営業員から、ホテルの運営会社の株式の保有を求められ、言われるままにカネを出して、オーナーの一人になった。このホテルは、建物も土地も営業も、保有の権利が分割(ディバイデッド)されており、現状、誰のものとも言えなかった。筆頭の所有者は地元の電鉄会社だったが、その会社の筆頭株主は大手の私鉄で、私鉄は某財閥に属していた。財閥は幕末から続く老舗の同族会社で、一族諸共、某仏教系新興教団の信徒であり、教団は、近年の不祥事のために文科省から解散命令を突き付けられていた。つまり、このホテルの支配体系の元を糺せば、文科大臣に行きつく、ひいては、現行の与党政権に辿り着くことになる。だが、当然のことながら、政府が経営に口出しすることはない。
この他、銀行、不動産会社、建設会社、書店(傘下の文具店がアメニティーを納入していた)、清掃会社、個人など、多岐に渡る所有者が混在し、権利が複雑に絡まっていて、しかも、ホテル経営の実績のある会社は一つもなかった。銀行や不動産会社の中には、子会社で独自ブランドのホテルを経営している大手もあったが、それがこのホテルの運営に参画している形跡もなかった。誰にも主導権がなく、決定権もなく、責任もない。あらゆる権利が分割されたホテル。それが、ディバイデッドホテルだ。この、抽象的ともいえる存在の曖昧さが気に入り、明夫は、経営者の一角に加わり、VIPルームを占拠しているのだった。
誰にも知られていない自分でいたかった。誰にも見られていない、誰にも相手にされていない、誰にもあてにされていない自分。街の中にポツンと一人でいて、それが、誰の興味を惹かないこと。そういう居場所を、明夫は求めた。
誰もが互いを睨み合っているような田舎から、彼は横浜へ出てきた。横浜は、都会か? 常に疑問を抱えていた。東京に移ったこともあった。だが、人の多い東京は、視線も多い。横浜は、人の波に疎と密があり、かつ、密であってもその都度つながりがない。朝から晩まで他人同士。これは、都会の典型ではないか。明夫は思った。人が、人をネグレクトするところ。それが都会だ。横浜の街を行き交う者同士の、薄さ、無関心さ、軽さ。これらが、極めて都会的に見えた。
朝起きて、シャワーを使い、髪を乾かし、ホテルの向かいのバーガーショップで朝食を摂る。持ち込んだノートパソコンとスマホを無料のワイファイに繋ぎ、のんびりネットサーフィンをする。ホテルに戻り、ベッドメイクの済んだ部屋で昼寝。正午過ぎに起き出して、会社からのメールを読む。業績は、たいてい順調だ。彼の企画した商品は、世界中で製造され、販売されていた。売り上げは日増しに伸び、収益は滞りなく口座に振り込まれていた。すでに、残りの生涯では使い切れないほどの額だ。彼の目下の関心事は、このカネを、如何に有意義に活かすか、ということだった。露骨に言えば、自分が死んだ後、誰に使わせるべきか、ということだった。
(つづく)
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