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売られたヤクザ その31

 星が降りそうだ。
 月にも手が届きそうな夜だった。山口明夫は、横浜軽井沢の丘の、切り立った崖に張り付くように建てられた古マンションのエントランスで、ハンカチを鼻に当てて鼻汁を拭いた。すでに廃屋で、最上階の北側の、表通りに面した入り口が、金網のフェンスで囲まれていた。かつて、ここのオーナーも彼の顧客だった。
 闇を裂いて、赤灯が明滅していた。住宅街の二車線道路に横付けされた神奈川県警のパトカーが、五台、十台。いや、もっとだ。警官の群れ。和田、佐原、津久井らが手配した、県警の精鋭部隊だ。
 マンションは、崖の麓に向かって建てられ、建物内の左脇に緩やかな非常階段が設置されていた。入り口が塞いであったので、中の扉は全て解錠されていた。電気は通っておらず、エレベーターは動かない。いずれ解体される予定だが、所有者に余力がなく、放置されている建物だ。麓の最下階もフェンスで覆われ、向かいは隣接する住宅の壁だ。
「逃げられないぞ、山口明夫」
拡声器を使って声を上げたのは、程川署の和田刑事。
「罪を重ねるな。おとなしく自首するんだ」
「おとなしく、だってよ」
丈二が笑い声を立てた。「騒ぎをデカくしているのは、アイツらじゃねえか」
「伏せろ」
ガラス片が飛び散った。
 ヨシヤが立ち上げたスマートフォンの画面を狙って、ライフル弾が撃ち込まれた。程川署の要請で、県警本部から派遣されてきた狙撃班だ。ヨシヤの手からスマートフォンが吹き飛んだ。
 山口明夫と、丈二と、ヨシヤ。三人は首をもたげ、猫みたいな目で顔を見合わせた。
 これは、どう言えばいいだろう。山口は思った。
 貧乏くじを引いた、か。いや、違う。うまい言葉が浮かばない。
 世間の影に潜み、目立たぬように生きてきたはずの自分が、これほどの注目を浴びるとはこれ如何に。
 それも、生半な注目ではない。
 和田と連れ立って牛王神社に戻った山口は、参集殿の広間に戻る前に、和田に断ってトイレを借りた。喫茶店での論争で、山口は、和田が全て知っていることを理解した。
 全て。
 つまり、自分が空き巣であったこと。忍び込んだ家で家主の死体にぶつかり、『死者からのメール』事件を画策したこと。カタビラ組を買ったカネは、細かい盗みを繰り返して作ったものであること。
 そんなところか。
 和田は、小用の便器に向かって用を足しながら待っていた。出たら、佐原、津久井と、先刻平井を連行して、再び戻った捜査員たちの手を借りて、逮捕するつもりだった。
 襲名式を開いてヤクザ者たちを招集しようと考えたのは山口だ。その式に、刑事を招こうと提案したのは伊東だった。ヤクザの襲名披露に警察が立ち会うのは珍しいことではない。むしろ、晴れの行事で揉め事が起こらないよう、ヤクザの方から要請することもある。襲名式の目的は、組の収益構造を明らかにし、自分の利益を確保することだったから、むしろ警察の協力は好都合だった。
 思い返せば、これも蹉跌だ。
 青戸に廃業の報告をしたのも蹉跌だ。彼女は彼に好意を持っていた。裏稼業の者同士の共感だったが、好意には違いなかった。しかし、彼女は密告した。彼女と接触して以来、和田は山口に目をつけていたわけだ。
 もっとも、青戸にしてみれば、密告ではない。知っていることを話しただけだ。多くの顧客のうちの一人に過ぎない男の事情を、聞かれるままに答えただけだ。彼女の中に矛盾はない 。
 伊東もそうだ。彼の相談に乗り、親しく協力してくれ、襲名式の会場まで貸してくれた。同じような距離感で、和田とも接していたわけだ。彼女は、和田の要請で、控えの間に吊しておいた山口のジャンパーを、警察に貸し出した。袖に染みていた猫の小便が、山口の容疑の決め手となった。女って奴は、一つの体に二つも三つもスタンダードを抱えて、それを少しも矛盾と考えない。大体オレは、女にモテる方ではないし、女を頼ったこともなかった。けだし、女とはそういうもの、と思っていたのだ。それが、ここに至ってなぜか、二人の女の情に縋った。挙句、大きな墓穴を掘った。
 ヤキが回るとはこのことだ。
 しかし、と山口はさらに考えた。
 全ては、自分も知らない。自分の知り得たことは、ほんの一部に過ぎない。自分もまた、プレイヤーの一人であって、全体が分かるようなポジションにはいなかった。そう思った時、彼は便座の脇にしゃがみ、猫一匹が通るような臭気抜きの窓を開け、格子を外し、腕を伸ばし、首を折り畳み、棒のように細くなって屋敷の裏庭に抜けていた。人の背丈程度の塀を乗り越えるのは、何の困難もなかった。通りに出れば、後は勝手知ったる牛王町の街。自宅へ帰り、彼のコタツで昼寝をしていたヨシヤを蹴飛ばして起こし、カネだけ持って駅へ向かった。
 日の高いうちに県境を越えれば、追跡は遅れる。しばらく、中京か関西で身を隠す。切り詰めれば数年は暮らせるだろうし、移転先で仕事を再開してもいい。横浜市内に張り巡らせた顧客網を放棄するのは残念だが、日本の都会はどこも似たようなものだから、すぐに新しい顧客が見つかるだろう。今度は自分一人ではなく、若いヨシヤにもノウハウを教え、二馬力で稼ぐ。失ったカネを取り戻すこともできるだろう。彼が自立するようになったら、彼を育てたノウハウで次の若者を育て、仕事をさせればいい。
 この考えは、山口に新しい視野を与えた。教え、育てる。次世代に、仕事を引き継ぐ。これまで考えもしなかったことだ。自分一人が食えれば充分と思っていた。人と関わり、人に教え、また、自分が人に教わる。その営みに費やされる時間が、無駄と思っていた。
 一人暮らしの老婆の死に、背中を押された。死んだ人間は何もできない。あられもなく死体を晒して、他人に全てを委ねるだけ。死ねば、空っぽ。この空っぽという事態が、彼を突き動かした。空き巣を辞める。死ぬまでいられる場所を作り、残ったカネで、別なことを始める。何をやろうという計画があったわけではなかった。ただ、何か、自分の死に向けたこと。有意義。これは彼のもっとも避けて来た言葉だが、例えば、ヨシヤのような若い人間にとって、手本となるようなこと。それを考えてみようと思ったわけだ。
「降伏しろ」
数十条のレーザービームが、廃マンションの玄関に集中していた。
「両手を上げて出てこい、ヤマグチ! 抵抗するな」
 新しい人生を歩む。ヨシヤを育て、一人前にする。彼はそう考えた。あにはからんや、ヨシヤの持っていたスマートフォンの位置情報をキャッチされ、こんな崖っぷちに追い詰められるとは。
 牛王町の駅はすでに警官が充満していた。当然、JRの程川駅も塞がれており、幹線道路は検問だらけ。彼らは裏道を走って坂を越え、新横浜方面を目指した。だが、まるで日本中の警察車両をこの街に投入したかのように、あちこちで行く手を塞がれ、崖下の古い住宅街に追いやられ、かろうじて廃マンションに潜り込んだのだった。
 丈二が後から現れた。彼は、警察車両の後を追ってたどり着いた。ヨシヤの追跡を和田らに進言したのは大見たちだ。彼らは境内で拘束され、捜査に協力することを約束させられた。丈二だけは、騒ぎに紛れてバイクにアンナを乗せ、大さん橋へ向かった。アンナを船に乗せ、自分だけ戻って山口を探した。
 彼が麓から廃マンションに潜入した後で、パトカーの群れがエントランス前を囲んだ。三人は頭を突き合わせてコンクリートの床に這いつくばった。
「おい」山口は、頭を抱えていたヨシヤの脇腹を小突いた。「お前は、正面から出て歩け。いいか、ビビるなよ。アイツらをな、ジッと睨みつけて、ゆっくり歩くんだ」
ヨシヤはがくがくと首を縦に振った。
 丈二が、「マジか。撃たれるぞ」と止めたが、「この子は未成年だ。第一、まだ何の罪も犯していない」と言って山口はヨシヤの肩を右手で引き寄せた。
「いいか、ゆっくり歩け。そしてな、中間辺りで立ち止まる。合図をするから、その時、思い切り前へ突っ伏すんだ。ためらうなよ。顔から前に倒れろ」
「合図ってなんだ?」
「その時になれば分かる」と言い、山口はヨシヤの頬に付いた灰をタオル地のハンカチで拭いてやり、はやる彼の肩を抱えて、「まあ、待て。入り口を開けてからだ」と自分の汗を拭った。
 暗闇ではなかった。
 眩い照明が玄関へ向けて激しく放射されているし、赤灯はくるくる回っているし、そうでなくても、ライフル銃の光線は一ミリも違わず狙いを定めていて、赤外線スコープを覗けば、側溝から顔を出したネズミの表情まで丸見え。警察は、夜を否定したいのだ。
「キミは、銃を持っているな?」
丈二は、リボルバーを三丁出して見せ、山口に一丁渡した。
「ニャンブじゃんか」
「全部そうだよ」
「そっちも見せてくれよ」
残りの二丁も渡した。山口はシリンダーを回し、「これだ」と一丁取り上げた。
「楠美の銃だな」
「巻き上げたんだ」
ニヤリと笑うと、唇の端が切れた。
「これは、珍しいんだ。本物なんだよ。本物の、ニューナンブM六〇だ」
 山口は、明かりの届かないところまで下がってしゃがんだ。二丁は丈二に返した。丈二とヨシヤも、後退って彼と並んだ。山口は膝立ちになって銃を構え、玄関に向けて一発放った。
 三人はまた、揃って床に這いつくばった。山口の放った銃弾が、外の照明の一つを消した。同時に、数十発の銃弾が、玄関を囲うフェンスと、ガラスの扉に殺到した。
「荒っぽい開け方だな」
玄関が崩れ落ち、白い光線が直に床を照らした。
ヨシヤが立って、瓦礫を掻き分けて表へ出た。山口と丈二は、闇の中で、膝を立ててしゃがんだ。
「何だが、ワクワクするな」
丈二は二丁の銃を握り、撃鉄を起こした。
 山口は彼の汗を嗅いだ。甘い匂いを嗅いだ。彼の吐息が頬を撫でた。
「こんな気分は初めてだ」と彼は声を弾ませた。「いいもんだな」
「何が?」
「何がって? オレぁ今まで、家族と一緒に、何かしたことがなかったんだよ。家族ってなんだか、知らなかった。全部一人でやったんだよ。オレぁ、器用だからな。なんだって一人でできた。盗みも、殺しも、商売も。オヤジと何かするなんて、あり得ないと思っていたんだ」
山口は、丈二を横目で睨み、顎で、後ろの非常階段を指した。
「何だよ?」
「裾から逃げろ」
「何でだよ?」
「お前たちは、生きるべきだ」
「アンタは、どうするんだよ?」
「オレのことはいいから」
山口はタバコを二本咥えて火を点け、一本を彼の口に差した。
「一人で死ぬ気かよ?」
丈二は、蝋のような山口の顔を見上げた。
「キミからはじめてオヤジと言われた時、」
青白い唇が動いた。
「うれしかった」
丈二は煙を深く吸い込んだ。
「キミも、キミの嫁さんも、あの子も、」
顎でヨシヤの背中を指した。彼に向けて、レーザービームが集中していた。
「オレの子だ。そうだろ?」
丈二は唇からポロリとタバコを落とした。山口に縋り、彼の肩に額を押し付けた。
(つづく)

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